プロローグ〜乗り込んできた伯爵令息〜
「この魔法陣、君が描いたものか?」
王都の中心街から外れた小さな魔術店。王立学園を卒業後雇われ店長として二年目のリリアは、目の前に突きつけられた一枚の紙を凝視していた。そこには寸分の狂いなく美しい魔法陣が描かれている。
紙を持つのは伯爵家の令息デリク・シュレイバー。すらりと背の高い彼の金髪はふわりと軽やかで、触らなくとも柔らかなことがよく分かる。その柔らかさとは正反対に鋭く細められた淡いブルーの瞳がリリアを睨みつけた。
記憶を辿ってみても彼にこの魔法陣を売った記憶はない。ということは……。リリアは右手で長い白銀の髪を耳にかけながら薄いグリーンの瞳でデリクを見上げた。
「あの……どこでそれを手に入れましたか?」
「昨晩、婚約者がこれを私に使おとした。もたもたしていたところ取り上げてみれば、『君に命令された。自分は悪くない』と涙を流して白状した。で、この陣は? 見慣れないもののようだが、内容によっては重い罰を与える」
罰という言葉にリリアの眉がピクリと反応する。
(失敗した婚約者のことを考えたら、この陣が何かあまり言いたくはないけど……ややこしいことに巻き込まれてここをクビになるのは困るな……)
魔術に没頭しすぎるあまり気味が悪いと婚約者に逃げられたリリアは、卒業後結婚のあてもなく恩師の勧めで王都の端のこの店で雇われ店長として働いている。稼ぎを実家に仕送りをしているため、ここをクビになったら没落ギリギリの貧乏男爵家にとってはかなりの痛手。リリアはあっさり口を割ることにした。
「それは、感情を昂らせる魔法陣です」
「昂らせる?」
「ええっと……つまり、媚薬と同じような効力です」
「び、媚薬!?」
「はい。詳しく説明すると、使用した二人が熱い夜を過ごせるというものです。悪用されてはいけませんので、購入時誓約書にサインを頂いております。紙にはナンバーが隠し文字として――」
リリアの目の前に突きつけられた紙が震えている。ちらりとデリクを窺えば、視線を逸らした彼が白く透き通った肌を真っ赤にして必死に耐えている。それはあまりにも珍しい光景で、普段の彼との落差に引き込まれたリリアの視線は釘付けになってしまっていた。
「……どうしました?」
慎重にデリクに問いかけてみる。
「てっきり俺を殺すための魔法陣かと思っていた。ブレイン男爵令嬢。君は……それを使って……俺と熱い夜を過ごそうと……」
「…………へ?」
リリアは思わず間抜けな声を出してしまった。『言っちゃった』みたいな感じで強く目を閉じたデリクの顔がさらに赤くなる。
(盛大な勘違いをなさってる……)
リリアがそんなことを思っていると、彼の口から第二弾が放たれた。
「俺と既成事実を作って婚約を解消させようとしたのか。その……いつからだろうか。もしかして学生の頃からだったりするのか? 確かに俺は婚約してるけど双方に愛のない婚約で……」
「学生の頃からか?」という言葉から推測するに、デリクはリリアを以前から知っていたようだ。確かに二人は同じ王立学園に通っていた同級生である。リリアは田舎の貧乏男爵令嬢だが、この国では珍しい魔力持ちということで、金持ち貴族が通う王立学園の魔術科に入学したのだった。
しかし少人数の魔術科はクラスも別棟にあり、デリクとは今に至るまで話したことも無ければ目が合ったことすら無い。彼は群がる令嬢たちに随分と塩対応だったし、いつも無表情でつまらなそうだった。その彼がこんなにも可愛らしく赤面するなんて目が離せるわけがない。遠慮もせずにリリアは見入ってしまった。
(とりあえず誤解をとこう!)
「デリク様。確かに私が売ったものですけど、命令なんてしていません。これは想い合った二人が詠唱して初めて陣が発動します。デリク様と熱い夜をお過ごしになりたかったのは婚約者のご令嬢だと思われ――」
「なっ……そんなわけない! 君だって同じ学園に通ってたんだ、知ってるだろう? 彼女には愛する人がいて俺との婚約を解消したがっていることを。本当に君の意思は無かったと?」
「そうですね……」
何という恥ずかしい勘違いだろうか。デリクは大きく見開いた目をぎゅっと瞑って、固く唇を結び勢いよく顔を背けた。付き添っている糸目の従者は気持ちが読み取りづらいが、彼もさすがに気まずそうだ。
「デリク様、その紙こちらで処分します」
「いや、これは証拠として俺がもらっておく。それから、こんなハレンチな物を売った君にも罰を与えるから覚悟しておくように! また来る!!」
バタンと勢いよく閉まる扉。伸ばしたリリアの右手がゆっくりと下がった。
「…………」
ハレンチ……。しかもまた来る? 違う、問題はそこではない。罰が与えられるということだ。『クビ』の二文字が頭によぎる。
「特注魔法陣購入時に交わす誓約書には、問題を起こした場合使用した本人が責任を取ることになってるし……大丈夫よね……」
あはは……と弱々しく笑うリリアはまだ知らなかった。あの男、デリク・シュレイバーがどんな人物であるか。
彼が下す罰がどんなものなのか……。