7話 連休最終日に
リリスと契約を交わした夜から数日、深夜になっても俺の部屋の窓が開くことはなかった。三日経過した夜には、あのサキュバスとの夜は夢だったのでは?と思うほどだったが、俺の胸にはしっかりと黒い模様が刻まれている。これがある以上、あの日の出来事は夢ではないということだ。
ゴールデンウィーク最終日の朝、明日から学校かと思うと無性に心が重くなる。別に学校が嫌なわけではないが、誰もが感じたことのある『連休が終わる寂しさ』に襲われているだけなわけで…。
連休前に出されていた学校の課題を片付けるのが今日やるべきことなのだが、この部屋では『リリスが突然来たら…』と思うとどうも集中できなくて、昼から図書館に行くことにした。
夕方には帰るから。とだけ母さんに伝えて家を出た。
天気もよく、5月だというのに夏を思わせるくらいの日差しだ。せっかく出かけるのに行先が図書館というのも悲しい。でも歩いて行ける距離に図書館があるというのも学生にとっては便利で、昔からテスト前にはよくお世話になっていたが、数年前に改装されて自習室が広くなったことが、去年受験生として利用していた身としては大変有難かった。
到着し自動ドアを通過すると室内のエアコンの風が当たり、ここまで歩いて熱を帯びた体を冷ましてくれる。そして、カウンターの隣にある階段に向かった。この上が自習室。受験前は混んでいたが、夏休みまではきっと空いているだろう。
「大神くん?」
階段を上りかけたところ、誰かに声をかけられた。振り返ると一人の女の子が立っていた。
「天野さん⁉」
天野依里朱。同じクラスの同級生で、俺の片思いの相手だ。ボブ丈のストレートの髪、小さな花柄の白いワンピースにデニムジャケットを羽織っている。学校で見るよりも何倍もかわいく見えて動揺してしまった。
「もしかして大神くんも自習室?」
もしかして天野さんも?と心の中で絶叫し、GW最終日のこの出会いに心の中でガッツポーズをした。
「あっ、そうなんだ。課題をやりに…」
緊張して気の利いた言葉が出てこない。どうするべき?何が正解なんだ…?もう、俺の頭はパニックだった。
「えっ、それじゃ、一緒に…いい?」
天野さんからのまさかの申し出に、「うん」とだけ答えた。二人で自習室に向かい、入室すると50席以上ある部屋にありがたいことに3人ほどの先客しかおらず、端っこの2席に並んで腰かけた。
それからの数時間は、天国のようだった。こんな偶然の出会いを神様に感謝し、数日前の悪魔のことはすっかり忘れていった。
自習室では、私語厳禁ということもあり多くを話すことはできなかったが、図書館からの帰り道、並んで歩くことができた。
「天野さんの家ってこの駅じゃないよね?」
「そう、隣の駅なの。大神くんはこの辺なの?」
「うん、この図書館近いから、よく来てるんだ。去年の受験前はずっとここにいたよ」
「えー!ほんと?私もよく来てたよ。じゃぁ、自習室で会ってたかもね」
「そうだね」
俺は、去年から天野さんを知っていた。自習室で見かけた名前も知らない違う中学の女の子。時折り見せる笑顔と少しおとなしそうな性格、髪型も今と変わっていない。一度だけ、消しゴムを拾って「ありがとう」と言われたことがある。友達になりたいと思ったけど、何もなく受験が終わり、彼女は自習室に来なくなった。
そして、高校に入学して同じクラスにいる彼女を見て驚いた。それがちょうど1か月前のこと。しかし、その後も距離が縮まることはなく、遠くから眺めるだけの存在…。それが今、こうして並んで歩いている!
「わざわざここの図書館まで通って大変だったね」
隣駅が最寄りならあの近くにも自習室を持った図書館があるのに…。昨年、天野さんはほとんど毎日この図書館で勉強していた。
「うん、あの時は…ちょっといろいろあって…」
天野さんの表情が曇り、目を伏せた。あっ、これまずい話題だった?何か中学で問題でも?
「ごめん…、変なこと言って…」
「ううん。…あっ!私こっちだから」
気付いたら駅に到着していた。楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。
駅の改札に向かって小走りする天野さんの背中を目で追っていると突然振り返り「じゃあね」と(声が小さく聞こえなかったけど口がそう言っていた)言って、小さく手を振って笑っていた。俺もそれに応えるように小さく手を振って見送った。
家までの帰り道、何とも言えないくすぐったい気持ちで溢れていた。天野さんともっと話したいと思いながらも、手を振り合って見送ったシーンを何度も思い返して、自然と笑みがこぼれ、明日からの学校に根拠のない期待で胸を膨らませていた。
家着いた頃には夕日が空を赤く染めて、街灯や近所のお宅でも明かりが灯っていた。帰宅し玄関ドアを開けると、キッチンとリビングの明かりが付いていて、夕食のいい匂いが家中に広がっていた。キッチンからは母さんと誰が会話している声がした。
「…これもおいしいのよ」
「…えー、そんなに食べたら太っちゃう」
「大丈夫よ、若いんだから…」
誰か女性のお客でも来ているのだろうか。
「ただいま~」
靴を脱いでいると、「あ、帰ってきたみたい」と母さんが俺の帰宅に気づいたようでパタパタと足音がし、「おかえり~」と言ってキッチンから2人が出て…俺を出迎えてくれたのは、母さんとリリスだった!
「リリス!なんで!」
リリスの姿に驚き、つい名前を呼んでしまった。母さんの隣にいるのは間違いなくサキュバスのリリスだ。でも、何か違う…。服を着ていて羽根がない…?薄手のカットソーとショートパンツ姿のリリス…。
母さんが驚いている俺の顔を見て喜んでいる。
「ミカ、憶えてるの?リリスちゃんのこと。会ったのはずいぶん前だったから忘れてると思ってた」
「忘れてるって?…だって、先週…」
「先週?」
俺と母さんの会話がかみ合わない。リリスは先週、俺と契約したサキュバスだ。と言いたいけど言えるわけもない。
しどろもどろしていると、リリスが口を開いた。
「先週、ミカ君と街でばったり会ったんです。ミカ君は昔のこと忘れていたみたいだけど」
「あぁ、そうだったんだ~。綺麗になったリリスちゃん見せて、ミカをびっくりさせようとしたのに~」
街でばったり?昔のこと? もう、全く意味が分からない…。
そしてトドメは、この後の母さんの言葉だった。
「リリスちゃんはウチで下宿するから。それと、明日からあなたと同じ学校行くからよろしくね」