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信長と長信  作者: いちがきこ
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第三章

 香梨奈との仲直りをして優との関係も改善するのではないかという気持ちを抱いた長信ではあったが、しかしことはそう上手くいかなかった。そもそもこの一年、長信も優と偶然にも再会して、それなりにアクションを起こしてきたのだ。その度に優は明確に拒否こそしてこなかったものの、のらりくらりと長信の接触は躱されてしまう。

「はあ、どうすりゃいいんだろうな」

「‥…明石君との仲?」

 そうだよ、とテーブル向かいの香梨奈に向けて呟く長信。

 ここは大学の食堂。正確にいえば大学と併設したレストランであり、縦に長くとられた空間は数百人を難なく用意に収まるスペースとなっている。時刻は昼食時を過ぎてはいるものの、周囲の雑談の声は絶え間なく耳へと入る。長信達のような生徒以外にも、教師やスーツ姿の人、作業着の業者などがちらほらと目に入り、人々の風貌は多種多様だ。

「なあ、なんとかならないか、香梨奈?」

「あたしに仲を取り持てっていうこと?」

「うん」

 自身の巻いた髪先を、香梨奈は指先でこねるようにして弄ぶ。長信のために頭を働かせてくれている様子だった。

 香梨奈は以前ファミレスで見かけたものと比べて、格段に柔らかい服装だった。構内でよくイメージするいつもの彼女の雰囲気だ。黒のノースリーブのトップスに、白のタイトスカート。黒のベレー帽ですっぽりと頭が覆われており、品と女性らしさが際立つ。今思えば前回の強気な装いは、長信に対する香梨奈の対抗心が表れていたのかもしれない。

 長信、香梨奈、優は幼い頃、同じクラブに所属していた。中学からソフト部へと香梨奈は移ったが、香梨奈と優はクラブが一緒だった時期がある。その縁を頼りに長信は優との仲介を香梨奈に相談していた。もっと言えば、かたやプロにも引けを取らない優秀な野球選手である優と、元ソフトボールのインターハイ優勝投手である香梨奈だ。そんな二人が同じ大学に揃っているのだから、何かと繋がりがありそうなものである。

 加えて、香梨奈は言ってしまえば生粋の陽キャだ。長信との交友関係を比べれば天と地ほどにも差がある。そのコミュニケーション能力に期待している部分も長信にはあった。

 香梨奈の口から息が漏れる。溜め息だった。なんとなく、長信は返答を察する。

「あたしにそれを頼む?」

「どういうこと?」

「あんたとの仲直りに六年かかった女よ、あたし」

 香梨奈にそれを言われると、長信には少し罪悪感が芽生えた。う、っと言葉に詰まる長信の顔を見て、香梨はしし、と嫌らしい笑みを浮かべる。人をいじめて喜んでいる顔だ。

「しかも、あたしも明石君と別に友達っていうほど仲が良い訳じゃないしね」

 やってはみるけど、あんま頼りにしないでね、と香梨奈は長信の頼みを引き付けてくれた。嬉しくはあったが、この分だと香梨奈の言うように期待は出来ないのかもしれない。

「明石君、というか男との復縁の手助けをお願いするって、なんだかほんと、髪だけじゃなくてあんた、女みたいになったわね」

「茶化すなよ」

 へへへと笑いながら、香梨奈はテーブルに乗っかった長信の髪を持ち上げてどかした。テーブルに髪を乗せるのがマナーとして良くないのか、もしくは長信の髪が汚れるのを嫌ったのか、どちらなのかは分からない。どちらにしても気の回る奴だなと長信は思い、髪が動くのと合わせて伏せ気味だった顔を上げる。

 やがて待ち合わせていた潤の姿が店内に見えた。長信と香梨奈は潤に向かって軽く手を振る。

 潤の服装は前回と同じようなタイプだった。肌を出さず、大人しめ。しかし女の子らしさが内包されており、可憐な印象を感じさせる。

 こんにちは、おう、はーい、とお互い簡単に声をかけて、潤は香梨奈の隣に腰かけた。

 潤と香梨奈の初顔合わせは、端から見ても剣呑としたものだった。しかし長信の目には朗らかで、気を楽にした潤と香梨奈の姿が映る。何でも香梨奈は長信との仲が戻った後、潤と少し話したとのことだった。

「もう打ち解けてる感じなんだな」

 潤も香梨奈も表情は柔らかい。出会い方が出会い方だったが、香梨奈は本来、人を出会い頭に嫌うような人間ではなく、友達も男女の垣根を越えて幅広い。校内で一番、友人の多い人間ではないかと本気で思う。それは彼女の人を惹く見た目もそうだが、性格の良さが図抜けているからだ。明るく、そして人を嫌わず認めるから気持ちが通じやすい。話題も溢れるように持っている。この一面も、ひとえに彼女が努力し、培ってきた賜物なのだろう。得てして、長信は香梨奈の人としての凄みを再び実感した。

「まあね。この子、いい子ね」

「あと、その……はい、香梨奈さん、すごく話しやすくって。ごめんなさい、わたしばっかり、ずっと喋っちゃった気がします」

「いいのよ。むしろ戦国時代のこと、もっと教えて欲しいな。こんなことになっているけどさ、武田信玄とか、上杉謙信がどんな人だったのか、あたし興味あるわ」

「は、はい」

 香梨奈は潤を促し、歴史の話に耳を傾けた。長信もそれに合わせる。前にも思ったことだったが、やはり潤は戦国時代方面の知識に長けているようだった。香梨奈が潤に話させているのは緊張を解すのが狙いだろうか。潤の光る眼差しを見れば、効果を成しているのは一目瞭然だった。

 やがて本題を思い出したのか、香梨奈から話をひと区切りつけた。

「じゃあ、二人の知らなそうな戦いの少し深い話をしましょうか」

「深い?」

「そう。あたしは長信、潤よりもひと月ぐらい早く家康さんを宿して戦っているから、二人よりは知っていることがあるの。例えば……果心居士、きて」

「はい」

 突然、香梨奈の呼びかけに応え、長信の隣に果心居士が現れた。この事態にはもう驚かない。

 長信の右隣には果心居士が、向かいには香梨奈が、そして斜め右前には潤が座る構図となる。

「この子がしていない話に関してね」

 香梨奈は果心居士を指差す。果心居士は何食わぬ顔を崩さない。続いて何やらことりとテーブルにデザートが置かれていた。シンプルなショートケーキだ。みれば、果心居士がもう一人の果心居士に向けて皿に乗ったケーキを渡していた。果心居士が二人いると長信が思ったのも束の間、立っている方の果心居士は煙のように姿を消した。異常な現象が目の前で起こったものの、流石に長信はもう驚かない。

「じゃあまず問題。あたしたちの生活の矛盾について。例えばさ、何が何でも本気でこの戦いに勝とうとするならさ、今からどうする?」

 香梨奈の話は幅広い答えがあるように見えた。どうするとの問いに、長信はしばらく考える。一言では説明が出来そうにもない。

「お金、でしょうか?」

 先に潤が香梨奈の問題に答えた。うん、と香梨奈が頷く。

「もっといえば自分達を有利にするって考えると、いくらでも方法があると思うの。例えば潤の言うお金。お金があれば、もっと優位に立てる。だとすると短絡的かもしれないけど、今すぐ働いて稼ぐ方が断然いい。もっと時短をするんだったらカードローンなんかで借金するのもいいわね。だって勝利を目指すのなら、借金なんてないようなものだし。それを踏まえると、学校、行く必要ある? その時間を、例えば武将の探索、攻撃とかに使う方が絶対いいはず。でもあたし達はやっていない。私生活を投げ打って、百パーセントそこに全力を注いだりはしていない。普通、そうするべきと思わない? だってさ、過去に戻れるのよ? 戻れるのなら、ぶっちゃけ今、どうなろうとしったことじゃないじゃない?」

 長信は香梨奈の疑問にまたしても答えを悩んだ。香梨奈の正論に挟む言葉もない。まさしくその通りだった。

「それは、香梨奈は俺達はそうするべきっていう話か?」

 今すぐ大学をやめて、時間を捻出し、負担やリストを度外視して金の目途を用意して行動する。香梨奈の疑問に異論がないのであれば、効率としては最高なのかもしれない。寧ろなんでやらないのかとすら思ったが、妙な抵抗感があるのもまた事実だった。心がそれを許容できない、許せないといった感覚である。戦いを勝ち抜きたい、そのための努力を惜しまない気持ちも確かにあり、それは嘘ではない。

 長信の返答に、香梨奈は首を振った。

「先にあたしの考えをいうと、それで有利になるとは限らないというのがあたしの考えね。果心居士、質問。いま生存している武将の人数は?」

 香梨奈の問いかけに、果心居士は答えなかった。まるで聞こえていないかのようにケーキをフォークで切り取っては口へと運ぶ。

 しかし香梨奈の表情は変わらない。果心居士が何も言わないのを分かっていたようだった。何の返答も寄こさない果心居士から視線を戻し、香梨奈は話を続ける。 

「この世にどれだけの武将がいるのか、あたし達は知らない。あたしは一か月前に家康さんが宿ったわ。戦って倒した武将は二人。じゃあ、武将は何人いるの? 数人とかではなさそう。でも数十、数百、いや、数千――なんて、途方もない人数の可能性がある。果心居士に聞いてもだんまりで、教えてくれない。だとすればさ、短い間の有利は意味をなさないんじゃないって思う」

「この戦いが数週間、数か月とかじゃなくて、数年つづくかもしれないってことか」

「下手したら数十年以上、ね。ま、そういうこと。だから今送っている生活を捨ててまで戦いに身を投げる必要はない。それをやってしまうと後戻りが出来なくなる。大学を中退して働くよりかは、卒業した方が給料のいいところで働けるのなんて、当然でしょ?」

 なるほど、と長信は納得した。目の前に危機が迫っているのは事実だが、視野を広く持って長期的に考えると、三人がなぜ私生活を捨てないのかが理解できる。

「そして、次。この子が答えない件に関して」

 再び香梨奈は果心居士を指差した。

「明確な基準はあたしにも分からない。例えば最初に果心居士が話したルール程度なら復唱してくれるけど、それ以上の、例えば知れば戦いが大なり小なり有利になる情報なんかは話してくれない。果心居士がする話は、最低限、誰もが知ることになる戦いの仕組み以外なら、もっと他愛もない範疇の話しかしないのよ。何が言いたいのかっていうと、果心居士のする話だけが戦いの仕組み全てじゃない。あたし達の知らない情報、知識、法則みたいなものがこの戦いには存在して、これを果心居士に聞いても教えてくれない。だから、あたし達はそれを自分の頭で考えて、自分の目で見つけるしかないの」

「攻略本やSNSのない時代にするゲームのようですね」

 言い得て妙かもね、と香梨奈は話を終えようとしたが、思い出したかのように香梨奈はもうひとつ話を切り出す。

「あと武将、子孫同士は惹かれ合うわ。信頼関係で武将、子孫同士が相手の位置が分かったり、今回の足利義昭の能力とは全く別にね。だから例えば探さなくても、いつかは相手と出会うことになるわ」

 味方か敵かは分からないけどね。香梨奈はその言葉で話を締め括った。


 三人そろっての話し合いはかたがついた。テーブルには伝票が置いてある。ここは学生食堂兼一般開放のされているレストランだ。注文方法は少々特殊で、学割を適用させるなら食券で、他の一般注文の場合はカウンターで頼む必要がある。長信と香梨奈は当然、食券で購入するので、伝票は必要ない。そして潤はうちの学生ではないがそもそも何も買ってはいない。つまりここにある伝票は果心居士のものだった。またしてもやられた、と長信は先程の香梨奈のように果心居士を呼び出すが、こういう時に限って果心個人は現れない。

 長信の苦い顔を見かねた香梨奈がさらっと果心居士の伝票を精算する。こういっては何だが、振る舞いが何とも男らしくて格好いい。それに比べて長信は小銭でうだうだ考えてしまう気性が表に出てしまい、年下の潤の目もあって少し惨めな気持ちになった。

 長信と香梨奈は潤を家近くまで見送り、次に長信は香梨奈の職場までついてく。香梨奈はどうやら今日、仕事が入っているらしく、長信はそこまでの付き添いであった。

 こうまでしてそれぞれの目的まで一緒に行く理由は、ひとえに一人だと危険かもしれない、二人、三人でいた方が良いという敵への対策である。しかし個々の生活環境を見ればやはり限度はある。

 あの後、香梨奈の内の徳川家康とも簡単に話した。秀吉と比べれば、厳かで固い印象を受けたものの、ソフトをやる前に危惧していた家康からの敵意は感じなかった。香梨奈との同盟が成立したのでそれは当然とも言える。むしろ家康の方が長信や潤に対して緊張して気を張っている様子が見て取れたので、これが徳川幕府の始祖か、と口にこそしなかったが少々拍子抜けしてしまった。無論、家康は長信の中の信長を見てのことだろうが。

 時刻は十四時過ぎ。大通りの人込みを長信と香梨奈は縫うように歩いていく。雑居ビルが立ち並び、人の足音と車の駆動音が絶え間なく耳に入ってきた。

 香梨奈との話題は尽きなかった。長信と疎遠になってからの六年分の話が香梨奈には溜まっているようで、そもそも香梨奈は話し上手であり、長信も香梨奈には気を遣ってはいない。退屈はしなかったが、香梨奈にばかり話させてもと思い、長信も話題を切り出す。

「潤のこと、どう思う?」

 食堂の二人の空気を見るに、間を取り持ったりする必要ないと長信は思ったが、これから三人で動く機会もあるだろう。二人が互いのことをどう見ているのか、知っておく必要があると長信は考えた。

 香梨奈からの返答は、ある意味では予想外のものだった。

「それって、潤が長信しか知らないことを知っているっていうやつ?」

 香梨奈からしてみれば、長信が潤に疑いを持っていると読み取ったらしい。そんな意図はなかったが、香梨奈の言葉を長信は否定しなかった。所詮、世間話、雑談だ。最後に違うと言えばそれで済む話だ。

「いい子よ、あの子は。あたしは潤のこと、好きよ」

「そりゃ、まあ、よかった」

「潤のこと、疑ってる?」

「疑っているっていうか、話してくれないことはあるけど、信用はしてる」

 潤への疑問、謎は未だにある。しかしこれはどうも潤の口が堅くて明らかにならない。その上に潤への信用、信頼が乗っかっているのが長信の潤に対する心境だった。

「ならそれでいいじゃない。あたしもあんたのストーカーみたいなもんでしょ? それを長信が気にしないなら、何も問題ないんじゃない? 言いたくない、知られたくないことなんて、あっても別におかしくないでしょ?」

「まあ、そうかもな」

「そうなのよ」

 長信自身のプライベートな部分、その最奥といってもいいものを、潤は知っていた。そこまでのことを知っているのはこの際、無視したとしても、果たして知っている理由が言えないなんてことがあるのだろうか。

 長信は例え、潤がどのような人物だろうが、嫌ったりするつもりはない。なぜなら潤は長信にとって命の恩人なのだから。

 長信が考え事に一区切りつけると、今度は香梨奈が話を振ってきた。

「潤ってさ、もしかして元々、眼鏡かけてた?」

「ああ、そうだな。なんでまた?」

「LINEのアイコンが眼鏡なのと、それとちょっと目をしかめてたから。じゃあコンタクトをつけているわけでもないのね」

「あー」

 よくよく思い返せば、潤はたまに目を少し細めていたような気もする。長信の頭にいる潤は眼鏡をかけていない。眼鏡をかけていない潤の時の方が、一緒にいる時間が長いからかもしれない。

「まあ今思えばそうかもしれないな――あ」

「何よ?」

 ふと長信は香梨奈と話しをしながら思い出した。潤は光秀の銃弾から長信を庇って、眼鏡を壊している。

「あんたのせいで眼鏡が壊れたとでもいいたげね?」

 恐ろしく香梨奈の察しがよかった。まあな、と長信は相槌を打つしかない。

「ま、買ってあげるのが筋ってもんじゃない? あたしが出してあげてもいいけど」

「そこまでしてもらうのは流石にな」

 隣を歩く香梨奈の足が止まる。見上げれば、ひと際大きいビルが目の前にはある。業務的な縦の細長さよりも、幅や奥行きの方が目立つ。全体的に無機質ではなく近代的なデザインで、透明感のある印象を受けた。これが香梨奈の仕事先、職場であるらしい。

「じゃ、これで。あ、帰りは気にしなくていいからね。会社の車で送ってもらうから。それと、あたし、それなりにまた忙しくなるから。集まれない時は連絡する」

「おう」

 長信と香梨奈は二人して手を振る。やがて香梨奈の姿は自動扉の奥へと消えていった。

「まあ、そうだよな」

 長信は少なくとも自分は恩知らずの人間ではないと思っている。香梨奈のおかげで一つ、やりたいことが出来た。


 長信は香梨奈ほどではないにしろ、ある意味では多忙な人間だ。香梨奈と違う点といえば、それは金を稼ぐ方法がまっとうであるかどうかという点だ。

 学業を除けば日々、パチンコ屋で稼ぐ生活を送っている長信は、日常を振り返れば、寮を出て、講義を受けて、その後にパチンコをして、帰って来る頃には日を跨ぐ一歩手前の時間になっていることはさほど珍しくもない。休日は基本、パチンコ屋にいるので、つまりは案外、丸一日が休みの日なんてものは少なかった。それ以外にも長信個人の予定もあり、更には潤と二人で出かけるとあれば、彼女の都合もつける必要がある。

 なので長信は少々、妥協した。潤への買い物に合わせて自分の予定も含めることにしたのだ。まあ潤は長信の事情を察するだろうし、受け入れてくれるという読みであった。

 潤に伝えた時間となり、長信は寮を出て校門に向かう。周りを軽く見渡してみると、潤の姿を見つけたので歩み寄った。

 白いワンピースの上に、桃色の丈の短いトップスであるボレロを羽織った装いだ。袖や襟元、スカートにはフリルが縫い付けられており、大人しくも可愛らしいといった印象で、手には小物を入れるためのハンドバックを下げている。頭の後ろには、髪を引き締めてまとめ上げるような金属のアクセサリーがあり、一言でいえばとても女の子らしい。

 潤らしいコーデに見えるが、どこか身なりに隙を見せない配慮を感じた。逆に長信は値段こそ安くはないかもしれないが、出会った当時のような簡素で安っぽい服装なので、二人の衣服の凝り具合にはどうにも差がある。

「こ、こんにちは、長信さん」

「おう」

 何やら態度の堅さを感じるも、長信は特に言及しない。潤には買いたいものがあるのと、予定があるから付き合ってほしいとしか伝えていない。眼鏡の買い物をプレゼントと呼ぶには、どうにも弱い気がしたのだ。わざわざ潤の眼鏡を買いに行くと先に告げるのは、どうも押しつけがましい気がして口にはしなかった。

「んじゃ、いこうぜ」

 長信は歩きだした。は、はい。と弱々しい声が後ろから続く。


 長信が選んだ場所は、大型ショッピングモールだ。レジャー施設なども併設されており、、辺りの顔ぶれを見れば年齢層はとても幅広いことが分かる。

 目的はあったが、長信は潤を連れて色々と巡った。ここまで大きな施設に来たのに、眼鏡を買ってはい終わりだなんて、彼女がいたこともない長信ですら流石に味気ないと思ったのだ。

 しかしまずバッティングセンターに行く辺り、長信はやはり女心が分かっていない。ソフトを終えた名残があるのが目に見えていた。潤に対しても一緒にやれば楽しいだろう、ぐらいの感覚である。

 長信は自分が満足しつつ、潤にもバットの振り方を教えていった。それなりに潤はバットをボールに当てている辺り、あんがい運動神経は悪くないのかもしれない。

 モール内のレストランコートで食事を済ませ、店内を見回っていく。多くは洋服店だったが、潤の希望で雑貨屋などにも入った。あらかたモール内を満喫して、長信は最後に潤を眼鏡屋へと連れて行った。

「ん、どうした?」

「い、いえ」

 長信が眼鏡屋へと入った時、潤は面食らった様子だった。長信の目的を理解したのだろう。しかし何も眼鏡を買って渡すくらいでここまで驚く必要があるのだろうか、と長信は思った。何気なく眼鏡の値札を見る。確かに数千円程度のものもあれば、その十倍ほどの品もある。高校生に送る品としては、物によって高額な気がしなくもない。

 しかし相手は命を救ってもらった潤である。今回に限っていえば金に糸目をつけず、値札を見ないことにした。

 潤はまだ驚きが治まっていないようで、店内へと足は伸びていない。そんな潤に接しようと、長信は何げなく見本品をひとつ手に取った。

「どう、これとか?」

 つるを摘まむようにして開き、潤の手に渡す。その先には長信の渡した眼鏡がある。

 何の変哲もないとは言わないが、普遍的なデザインのものを選んでみた。メタルフレームで全体的に細く、ファッションアイテムとしての主張は、淡い桃色なのもあって弱いのかもしれない。けれどこの眼鏡から品を見る目を広げてもらい、色々な商品へと視線を向けてくれればいい。長信はそのぐらいの軽い考えだった。そもそもモール内の眼鏡屋は一つでなく、ここで気に入る物がなければ別の店舗へと向かえばいい。

 さっと、音もなく潤の瞳から涙が流れ、頬を伝う。今度は長信が驚く番だった。

「お、おいおいおい!?」

「だ……大丈夫、大丈夫です」

 何が大丈夫なのか、長信には分からなかった。何も大丈夫には見えない。

 潤はハンカチを取り出して、目元の涙を拭う。それでも瞳の赤みは残ったままだ。平静に戻ったようにはとても見えない。

「これで、これでお願いします。長信さんが選んでくれた、これがいいです」

 潤の言葉は、はっきりとしていた。長信は潤の涙の理由は分からない。しかし長信の勝手な想像だが、潤であればまず先に謝りそうなものだと思った。しかし出てきた言葉は、長信が選んだ眼鏡が欲しいという明確で譲れない意思であった。


 視力検査から購入までの諸々は二時間程度で終わった。視力が悪すぎればレンズの準備などの関係で、場合によっては後日の受け渡しになることもあるそうだ。幸い、潤の視力はその場で用意出来る範疇にあったらしい。潤の手に持つ紙袋には仕上げられたばかりの眼鏡が入っている。

 かけていかないのかと長信が尋ねれば、もう少しとっておきますと潤に返された。安いものではないかもしれないが、そもそも潤の家は彼女の身なりからしておそらく裕福であり、前かけていた眼鏡も安価な品ではないだろう。潤の涙の理由は長信には分からないままだが、探るのは野暮だと割り切った。

 ショッピングモールでの用事を終えて、長信は次の予定地へと向かう。ここからだと寮からモールへの道と比べればやや煩雑に思え、加えて少々歩くことになる。一人であれば気にはならなかったが、潤が一緒にいることもあり、長信はタクシーを使うことに決めた。ちょうど二人の一直線上に信号で止まっている空車のタクシーが見えているので、このまま待つことにする。

「長信さん」

「ん?」

 声をかけられて、長信は潤の顔を見る。意を決したかのような、いつになく真剣な表情だった。戦いの時と同じ表情だった。

「長信さん、あの、わたし」

 潤の丸い目が、まっすぐ長信を捉えてくる。潤が言葉を続けるよりも先に、軽やかな鈴の音が耳に入った。隣を見てみれば、果心居士が傍にいた。

「お前はほんと、いつも突然だな」

「潤さん」

 悪態をつく長信だったが、果心居士は意に介さない。果心居士はいつもの通りの穏やかな笑みを浮かべたまま、潤を見つめる。潤もまた、果心居士の白い瞳を見つめ返していた。

 果心居士の声掛けに対して、潤は返事をしない。長信は自分と二人の間に透明な壁のようなものが遮っている気を覚える。

 潤の表情は先程と同様に真剣だった。しかし何か厳しさのようなものが垣間見える。両者は少しの間、互いの視線を交らせた。長信に二人の意図は読めない。

 果心居士が何故現れたのか、長信には分からなかった。しかしタクシーが隣にやってきた頃には、果心居士はまた鈴の音を鳴らして姿を煙へと変えては消えていった。今回は今までと比べてば極端に短い出現だった。

 潤も厳しかった表情はなりを潜める。どうやら調子は元に戻ったらしい。

 呼び止めたタクシーに目的地を告げ、しばらく長信と潤は車内で揺られる。ぽつぽつと会話はあったものの、潤は時折、景色を眺めては不可解な顔を見せた。

 二十分ほどかかっただろうか。運転手に伝えた目的地へと辿り着く。

 目の前の建物は総合病院だ。病院の大きさはそれなりに大きく、白と青を基調とした病院の扉を開き、受付へと向かう。

「小田長信です。小田詩菜の面会で来ました」

 分かりました。ご準備出来ておりますので、四〇一号室へ、そのままどうぞ。

 聞きなれた言葉を受けて、長信は慣れた通路を進んでいく。病院内の僅かに鼻を刺激する特有の匂いが、長信はいつになっても苦手だった。

 エレベーターを利用し、案内された部屋の扉まで来る。名札欄には小田詩菜という文字が印字されていた。長信は戸を開け、次いで仕切られたカーテンを端へと寄せた。しゃっとレールの擦れる音が室内に響く。

 そこには一人の女性が眠っていた。

 長信と顔立ちから髪型まで、まるで同一人物のようであった。白い肌は白皙(はくせき)のようで穢れ一つなく、黒く長い髪は中の水分が押し出すように艶がある。長信と彼女に違いがあるとすれば、それは長信より幾分か低い背丈と、女性らしい膨らみであろうか。しかしそれも布団に隠れてしまっているので、長信ですらまるで自分が霊になってしまい、寝ている本体を見ているかのような気分になった。

 女性――詩菜の前髪をかきあげ、その寝顔を眺める。白い肌は薄く紅さが宿っており、落ち着いた呼吸からは確かな生気を感じる。何か刺激を与えれば、それだけで目を覚ましそうなものであった。

「その方は、お姉さん、ですか?」

「……知らないのか?」

 潤が頷くのを見て、失敗した心地が胸を占める。長信は長い息を吐いた。

 長信は詩菜という姉がいて、そして潤は姉の存在を知っていた。だからこそ、長信は姉の詩菜がこうなっていることをすでに分かっているのだと思っていた。しかし事実は違い、潤は長信には姉がいることだけを知っており、詩菜の具合に関してはまるで知りもしないようだった。最初からそれが分かっていれば、わざわざこんな面白くないところにまで潤を連れては来ない。

「俺は、詩菜のことを潤は知っていると思ってたよ」

「……すいません」

「いや、いい。俺の勘違いだ。気にしないでくれ」 

 潤は謝ると思ったのに、長信は愚痴を零してしまった。押しつけがましい自分の言葉に、長信は苛立ちを覚えてしまう。

「帰るっていうのも、ありだぞ」

「いえ、長信さんがよければ、いさせていただきます。そして、よろしければ」

 ここで潤の言葉が止まった。たぶん虫が良すぎると思ったのだ。潤は長信に一部の事情を頑なに口にしない。しかし途中で止めた言葉も、そこまで喋ってしまえば長信には伝わったも同然だった。

 ここまで来てくれて、何の事情も分からないのは釈然としないだろう。潤は恩人であり、特に隠す理由もない。潤が知りたいのであればと、長信は潤に椅子を勧めた。


 幼い頃から長信は両親と二つ年上の姉、詩菜を慕っていた。小さい長信は年に似合わず不愛想で淡泊ではあったが、真っ当な家族愛があった。

 しかし中学二年生の頃。長信を襲った二つの悲劇。一つは肩の故障、そしてもう一つは自宅の火災である。

 支えを失って沈み出す屋根。ひび割れて炎に包まれながら折れていく支柱。父と母が寝る二階の寝室の扉は、炎による損傷で建て付けが悪くなって、部屋から出ることが叶わなかった。長信と詩菜だけでも逃げるように訴える悲痛な叫びは、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 別の二階の寝室から階下へと降りた長信と詩菜ではあったが、倒壊し始めた家が中から二人を襲い始める。二人が家を出るよりも先に、真上から二階を形成する屋根の一部が、詩菜の全身を上から押し潰すように襲った。

 長信は叫びながら下敷きとなった姉を引きずるようにして引っ張り出す。落下物の衝撃で割れた詩菜の頭部からは、顔を染め上げるように血が流れ出て、長信の頭の中はこの世を呪う感情に染まる。

 這々の体で詩菜を引きずり出すものの、詩菜は重症を背負った。傍から見れば今の詩菜には当時の怪我の痕はなく、綺麗な見た目のようにしか映らない。それでも詩菜は、当時の事故から依然として、その目を開けることはなかった。

 長信の心には、あの赤い景色は色濃く残り、恐怖の対象として今なお、こべりついている。炎が目に映ると、自然と脳裏にあの景色が浮かび上がり、体の震えが止まらなかった。


 話を終え、長信は潤を促して病院を出た。もともと詩菜の容態はある意味では安定しており、もし急変すればすぐにでも連絡が来る手筈になっている。そうでなくとも最低でも月に一度、定期的に見に来てはいるものの、長信が来院して詩菜にしてやれることは何もない。いつも顔を見て、少し居座ってそれで終わりだった。

 長信は来院の目的を自覚している。ただ顔が見たいだけ。それで自分の心の安定を保ちたいのだ。

 日差しが肌を差すほどに強く感じる。日光の眩さに反して、潤の顔は暗く、そして青い。

「長信さんの……長信さんが、髪を長くしているのって」

「ちょっと女々し過ぎるかな」

「そんなこと――そんなことありません」

 潤の勘は当たっている。長信の髪を伸ばしている理由は、目を覚まさない姉のことを意識して、そして常日頃から忘れないためだった。長信は詩菜が髪を好んで伸ばし、そして弟の目線ながら美しかったのを覚えている。かくして長信は姉のことを想って髪を伸ばし、手間暇や安くない金額を投資するようになった。見た目が瓜二つになってしまったのは流石に偶然といえる。そもそも姉弟なのだから、たまたま顔つきが似ていたのだろう。

 長信がパチンコ店で金銭を稼いでいる理由にも詩菜の病院代が関係している。保険が適用された上でも、一室を占めて健康状態を維持してもらう金額は決して安くない。他親族に頼りたくなくて、長信は中学二年生の頃からどうにかして金を工面する方法を探した。そこで見つけたのがパチンコ屋の遊技であった。

 中学生という年齢で働ける仕事はそもそもが限られており、収入もたかが知れている。それに比べてパチンコは雑収入で安定こそしないが、知識と時間さえあれば月に十数万ほど手に入れることが出来た。勿論、やっていることがやっていることなので、運が悪ければ収支が赤字になってしまう月もある。

「もう六年も前の話だから、気にしないで欲しい」

「でも、お姉さんは」

「詩菜も六年、眠っているだけだ。火事の怪我はとっくの昔に完治している。もしかしたら、いつかは目を覚ますかもしれない」

 その逆で、一生、目を覚まさないかもしれないとは、長信は言わなかった。

 それに一度済んだ事と思っているのは事実である。だからこそ、潤には長信の過去のことで悲しんで欲しくはなかった。先を、未来を見てほしい。何せ自分たちは千載一遇、普通の人には決して訪れない機会が与えられているのだから。そういった意味では本当に落ち込むのは筋違いのように思えた。

「もし子孫の戦いを勝ち抜けば、父さんも母さんも生きていて、詩菜も眠ったままじゃない。そんな世界に戻ることが出来る」

 だからそんなに悲しい顔をするなよ、と長信は潤を見下ろす。

「はい、頑張りましょう。絶対、勝ちましょうね」

 おう、長信は返す。何気ない返事をしたが、長信は潤が自分の境遇を知り、そして悲しんでくれたことが嬉しかった。


 帰り道。長信と潤は地下鉄までの道を進む。

 地下鉄の改札口を通り、途中、そのまま長信と潤はそれぞれ御手洗いに向かった。先に出た長信はスマホをいじりつつ、潤が出てくるのを待つ。女性の御手洗いとは時間が長くかかってしまうものとはよく聞くが、それにしても長いような気がする。

 などと長信が考えている時に、構内に特徴的な音が響き渡る。軽い金属同士が触れ合うような音は、歩行の間隔で鳴っているようだった。地下鉄の動く音では決してなく、静かとはいえない口内でも異質で耳に響く。

 長信の視線の先には、一人の男がこちらに歩み寄る姿が映った。見た目からして、いわゆる僧と呼ばれる服装であり、全身を覆うような黒の和物の衣服を羽織っている。平たい錐状の笠を被っているせいで、目元が見えず、辛うじて三十代か四十代の男であることが分かった。手には先端に幾つかの輪を繋げた錫杖を持ち、これが音を発する正体なのだろう。

 錫杖という異色の持ち物が見えた瞬間、長信にスイッチが入った。長信の頭の中で警鐘がひときわ強く鳴る。

「見える、見えるぞ。我ら本願寺(ほんがんじ)衆の怨敵、悪逆非道の魔の姿が。義昭様を葬った、日ノ本(ひのもと)一のならず者が」

「……誰だ?」

「私は顕如(けんにょ)。本願寺衆、十一代目の宗主である」

 顕如。その名前に見覚えがあった。信長がおこなった延暦寺の焼き討ちの際、敵対していた勢力の住職だ。少ない知識ではあるが、こと織田信長との関係性を鑑みれば、間違いなく良い関係ではないだろう。

 つまりは、敵だった。

「おっと、魔王は世が移ろうても血気盛んだな?」

 長信の敵愾心を感じ取ったのか、顕如が煽りを入れてくる。

「お前ひとりに何が出来る?」

「果たして、本当にそうか?」

「何だと?」

「私が本当に一人でやってきたと思うのか? お前に今、加勢する仲間、あの少女は近くにいるのか?」

 体がすぐさま駆け出す。長信は構内の女性用洗面所へと押し入った。洗面所の前には誰もおらず、個室の扉は全て開いている。潤の姿はどこにもない。

 戻ってきた長信に電話がかかってきた。潤の番号だ。

『はじめまして、信長殿』

 明らかに潤のものではない軽薄な男の声に、長信の焦りが加速する。

『俺は雑賀孫一(さいかまごいち)。今、秀吉殿の宿ったお嬢ちゃんはこっちの手にあるから。いうことを聞いてくれないと、この子が大変なことになるかもしれないね』

「……潤の安全を保障する根拠は何だ?」

『話が早くて助かるよ。えっとね、俺が、というよりかは顕如殿の目的が君ってことかな? だから秀吉殿の子孫ちゃんの用途は君にいうことを聞かせるための人質、それだけなんだよ。傷つけちゃったりしたら取引にならないからね。じゃあ、顕如殿によろしく』

 電話が切れて、長信は顕如の方に向き直る。

「おっと、一応言っておくと、秀吉殿を見限って私を倒すということも可能だぞ。だが私が帰らねば、その時は大変心苦しくはあるが、秀吉殿の子孫には報いを受けてもらうがな。孫一にはそう命じてある」

 長信は内心、毒づく。顕如は長信の苦い表情を見て、嬉々として笑った。

「おうおう、その苦渋の顔、私は心地よくて仕方がないぞ」

 長信は自分のことを強者だと思ってはいない。何せ能力が使えないのだ。義昭を倒せたのはたまたまで、香梨奈との戦いはそもそもあのまま彼女が止まらなかったら負けている。しかしそれでも、幾度かの戦いを経験したことで、自分は戦っていけるものだと信じていた。要は負けなければいいのだ。一人で勝てないのであれば、耐えるなり退くなりして潤と香梨奈を待てばいい。それが能力の使えない自分の戦い方だと思っていた。

 しかしその考えは甘かったのだと今、長信に突き付けられた。潤や香梨奈は長信のために戦うといってくれて、そんな長信さえも狙われるのは自分だと思っていた。敵が長信を確実に倒すために、長信以外を狙う可能性を考えるべきだった。

 長信は自分の愚かさをぶつけるようにスマホを握り締める。香梨奈へ連絡することなどは当然、出来ないだろう。もう顕如達の言いなりに動かざるを得ないことは明白であり、打開の余地はなかった。


 長信は顕如の牽引の元、寺院へと連れてこられた。木造の建築ではあるものの、屏風や仏壇などには所々に金の彩りが散りばめられており、どこか荘厳さを彷彿とさせる。長信は時代を遡ったような錯覚を覚えた。

 寺の中に入ると、そこには手首を縛られた潤と、一人の男の姿があった。男の身なりはくたびれた社会人といった風貌だ。生地の弱りつつあるスーツに締まりのないネクタイなどは、仕事に疲れているのか、それとも単に楽であるのか、公の場で過ごすには清潔感と整いが足りない。無造作な髪型、剃りの甘い髭も男に抱く印象を増長するかのようであったが、手に持つ丈の長い銃のそぐわなさが、柔和な表情を見せる男、雑賀孫一の脅威を伝えてくる。

「長信さん!」

 潤が声を荒げるものの、当然、身動きは取れない。孫一は念を押すように、銃口を銃の頭部に擦り付ける。

「嬢ちゃん、あんまり暴れないでね。変な動きをされちゃうとさ、こちとら撃っちゃうしかないんだよ。あんまり痛めつけたりはしたくはないなぁ」

 長信はひとまず潤に怪我などはないようで、安心した。

「ごめんなさい、長信さん。わたしが捕まっていなければ、こんな、こんなことには」

「いいんだ、潤」

 ここまで来たら、もうどうしようもない。仮に長信が眼の前の顕如を義昭の時のように打ち負かしたとしても、その間に孫一は潤を撃つだろう。

「さて、本題に入ろうか。まず、秀吉殿の無事は保証しよう。過去、争った時期もありはしたが、戦の世とは時勢が入り乱れるものだ。目を瞑ってもいいと考えている。私と主として同盟を組み、これからの力となってもらう」

 顕如は自身の生涯と、秀吉との関係性を持ち出した。彼らの史実関係を長信は知らない。無事を保証という言葉は信用に値しないものの、長信にはどうすることも出来ない。敵である顕如の言葉に嘘偽りがないと思う他なかった。

「ああ。それで?」

「信長、お前は監禁し、仏敵であったことへの罰を受け、時間をかけて己の行いを清算するのだ。この戦が終わるまで、な」

 つまりは監禁、拷問だろうか。すぐに長信を倒さない辺り、この顕如という人物が信長に抱く憎しみは、どうやら根が深いらしい。

「長信さん! そんな……そんなことはいけません! 両親は……お姉さんは! せっかく仲直りした香梨奈さんはどうするんですか! わたしなんか、どうでもいいんです! ここから逃げてください!」

 潤の悲痛な叫びが寺内に響き渡る。今の長信にとって、潤を助けること以上に大事なことはなかった。自分がどういう目にあうのかは二の次でしかない。

 それに、事はそんなに重大ではないように思えた。香梨奈はまだ健在であり、顕如と潤は同盟を組むらしいが、同盟に拘束力はなく、自由に結んだり別れたりすることが出来る。この戦いは何も自分が勝たなくてもいいのだ。そう思えば後事を託すことに気兼ねはなかった。

 すでに気持ちの固まった長信であったが、顕如は不服であるかのように目をしかめる。

「その目だ」

「なんだ?」

「その目が気に入らんといっておる!」

 途端、頬に伝わる衝撃によって、長信の視線が明後日の方を向く。顔に痺れるような熱さが宿り、間もなく口には鉄の味が広がり始めた。顕如の錫杖が長信を襲ったと気付いたのも束の間、今度はその錫杖が長信の腹を抉るように突く。長信はたまらず体をくの字に折り曲げる。迫る吐き気と痛みが、長信の顔を俯かせる。

「お前の! その! 何とも思わないような目が! 勘に触るといっているのだ!」

 錫杖による暴力が長信に繰り広げられる。長信が血と青痣に塗れるのに時間はかからなかった。身を動かそうものなら、生まれたばかりの傷が長信を縛るように痛む。

「あーあー、顕如殿、早速かよ。もうちょい抑えてくれんかね?」

「お前も此奴がどれだけ人の道を外した行いを歩んできたか、知っておろう? 私がそれを、いま正してやっているのだ。いうなればこれは神仏を代行した裁きだ」

 長信の頭に引っ張るような痛みが生じた。顕如が長信の髪を握り、そのまま持ち上げたからだ。

「我ら本願寺衆の恨みはこんなものではないぞ。五体満足でいられると思うなよ」

 長信の耳にくぐもった顕如の言葉が入ってきた。耳の詰まりを感じる。おそらく殴られた際に血が流れて耳の中に溜まったのだ。微かに潤の荒げる声も聞こえる気がする。

 やがて長信の意識を、薄い霧のようなものが覆い始める。また自分の体の奥にいる信長が、長信の肢体を操ろうとしているのだろう。しかしだとしても、嬲られて終わるだけのように思えた。

 しかし長信の霧のように薄くなった意識を、一人の声が晴らす。

「があ!」

 眼の前にいる顕如のものではない。妙な異変に気付いて視線を動かしてみる。孫一が片腕を抑え、持っていた銃を落としている。

「ぐっ!」

 続き顕如も同じように痛みから腕を抑え、錫杖から手を話す。顕如の腕に出来た小さく丸い穴を、長信は目で捉えた。痛みから腕を覆う顕如の手は、傷を押し止められてはいない。赤い血液が垂れ流れている。

 ここしかないと、長信は体中の痛みを無理やり耐えた。まだ体は信長のものではなく、自分の言うことを利いた。振り被った左腕の拳を、顕如の顎へと打ち付ける。下から繰り出した長信の拳は、顕如の顎を砕く勢いであった。

「ぐふ!」

 顕如は長信の拳を受け、足が浮いた。かと思えば、そのまま背中から叩きつけられるようにして床に落ちる。手から錫杖が離れて消滅したのを見て、顕如はもう戦えなくなったのだと分かった。

 動かなくなった顕如の姿を尻目に、長信は指を耳に入れて穿(ほじ)る。耳が聞こにくいのは不便過ぎる。この際なので傷に触れる痛みは我慢した。思った以上に両耳の中は血が詰まっていたようだ。人差し指がねっとりとした液体で丸々赤く染まる。

「長信さん、すいません。孫一さんには逃げられてしまいました」

「仕方ねえよ、手を縛られたまんまじゃな」

 潤の元へと近づき、後ろ手に拘束されていた潤の手を自由にする。雑賀の行方は知らないものの、もし本当に逃げたのであれば、一先ず窮地は脱したといえる。

 しかし、長信は一つの気配に感づく。

 この感覚は、初めてではなく、覚えがあった。始めて襲われた時のものと、全く同じ。

 顕如と孫一を襲った人物は、こちらへと近づいてきており、段々と足音が大きくなってくる。

 やがて、その人物は長信達の前に姿を現した。長信よりも頭ひとつぶん高い背丈に、筋肉を感じさせる体格。服装は長信には説明がつかない。無理に例えるのであれば、忍者の服装のような忍び装束に見えた。口元を内に着たタイツが隠しており、頭髪も服に備わったフードで隠れている。全部が全部、身に纏うものは全て黒い。まるで影が実体化したかのようだった。

 男がフードをとり、口元のタイツ部分を首まで下ろす。見覚えのある短髪が露になった。

「優……?」

 そこには長信のかつてのバッテリー、明石優の姿があった。


 優は右腕を丸々使って抱き留めるようにして、顕如と孫一、そしてあの時、長信を狙ったのであろう長身の銃を縦に持っている。木造であり、僅かに貴金属の意匠が光るそれは、長信の抱く銃のイメージとはだいぶ異なり、過去の遺物のように見えた。

「長信殿」

 続いて果心居士が鈴の音とともに姿を現す。

「顕如殿は気を失われています。長信殿がもし、顕如殿をこのまま負かす気があるのでしたら、長信殿の勝ちとして顕如殿にはご退場していただきますが、いかがなさいますか?」

 仰向けになった顕如に目を落とす。長信の拳の当たりどころがよほど悪かったのか、顎の形がどうもおかしい。

 長信は体の調子を確かめる。顔の痛みは無視できないものの、手足は思うように動く。顕如を義昭の時と同じようにしろと言われれば、やれなくもなかった。だが今は時間が惜しい。

「ああ、そうしてくれ」

「では」

 話が終わると、顕如の姿が白く染まっていき、やがては霧散する。同時に長信の体の怪我が、時間を巻き戻すかのようにして消え失せた。

 本当に用事だけを済ませに来たのか、果心居士の姿はもう辺りにはない。

 先に口を開いたのは優だった。

「おい、そこの。お前は手を出すなよ」

 優の言葉に対して、潤は肯定も否定もしない。しかし武器を取り出さないことから戦う意思を抑えているのが分かった。優が言わなければ長信が言うつもりだったので、特に問題はない。

「なんで俺を殺した、光秀」

 長信は自分の口から出た言葉に自身も驚いてしまう。しかし表には出ずとも、それは信長の意思が長信を通して出したものだと分かった。

 優は光秀の言葉に対して鼻で笑う。

「最初に言うことがオレじゃなくてじいちゃんのことかよ、長信」

「だったらどうだってんだ」

 今度は、長信の口は自分の意思で動いた。信長が光秀、もしくは優に問いかけだけをして内に引っ込んだことが分かる。

「いや、そんな言葉が出るってことは、そりゃ信長がそう思ってるってことだよな?」

「だとしたら?」

「当然、教えられねえってことだよ」

 優の笑みは、人の小馬鹿にするものを含んでいる。おどけてからかうような口調に、長信は苛立ちよりも先に驚きが来た。本当に、目の前にいるのは優なのか? 優の皮を被った悪漢と言われた方がまだ納得がいく。はたして優とはこういう奴だったのかと疑問すら抱いた。

「考えても見ろ、これから消える奴に何をいっても無駄だろ?」

 言葉の意味が、分からない。分かりたくない。理解したくない。それが明智光秀の言葉であれば、別にいい。光秀が信長へと抱く殺意なら、それはもう他人事のようなものである。長信はそれに巻き込まれただけだと思えばいい。しかし優がそのように言うなんて、それではまるで、優が長信への憎しみが今でも乾かず、殺したがっているとでもいうようなものではないか。

「……お前、本気でいってんのか?」

「ああ。オレがどれだけお前が憎いか、分からない訳じゃないだろ?」

 優の返答に、長信は心と体を粉々に打ち砕かれた気分になった。どれだけそうじゃなければいい、優はそんなことは思ってはいないと願っただろう。長信も優を逆恨みをする気持ちがなかったといえば嘘になる。どうして優も同じ過酷な練習をしたのに自分だけが、と思ったことはある。しかし長年の月日で長信の怪我は完治し、心も快復したといっていい。優への恨みは時間をかけてより正しく健全なもの、名前を自己責任に変えて消化された。

 そしてこれは優も同じではないのか、そう思わずにはいられなかった。拒絶してきた長信への恨みを、しかし長年の月日を経て長信の苦しみに同情して、あの時、突き放してしまった長信を許したからこそ、再会してから再び話すようになったのではないのか。

 優は抱いた銃の撃鉄を起こした。それはつまり、攻撃の準備を意味する。しかしそれでもと。例え優が未だに長信に恨みを抱えているのだとしても、長信は優とは戦えない。

「俺はお前と戦うつもりなんてない。なあ、優。あの時のこと、謝るよ。ごめん。お前は熱心に、俺のリハビリに付き合ってくれたよな? でもそんなお前を俺は突き放してしまった。ごめん、本当にごめん」

 縋るような口調だった。長信は思い出す。中学二年生の頃に降り注いだ災難、地獄を。あそこまで野球に打ち込まなければ、家が燃えなければ、と。嘘であって欲しいという気持ちが胸中を埋め尽くした。だが現実は、両親は帰らぬ人となり、姉は瞼を開けなくなって、長信は肩とともに青春の日々を失った。

 しかし、それでも――それでも。なくしたと思ったもの、もう取り戻せないと思った縁が、再び結びついて花開こうとしている。肩の快復、香梨奈との仲直り、優との再会――

 悲しみの闇は未だ長信の根底に残っている。後悔の念は今でもある。でも、だとしても、かけがえのない大切なものがもし戻ってくるのであれば、それに勝る喜びなんて、この世には存在しないのではないか。そう長信は思わずにはいられない。

「やり直せるんじゃねえか、俺達?」

「恋人かよ」

「でも女房役ではあっただろ?」

 長信の言葉に、優は表情を消した。あの時、バッテリーを組んでいた頃に想いを巡らせていると長信は信じたい。再会してからの気まずそうな、眉を曲げた優の顔がちらつく。もし本当に優が長信のことを憎らしく思っているのであれば、距離をとるはずだ。長信を貶すはずだ。であれば、優もまだ迷っていながら歩み寄ってくれたのだと思いたかった。

「あの頃とは違うかもしれない。お前は将来有望の野球選手で、俺は中学でやめた半端者だ、でも、別に野球だけが繋がりじゃねえだろ? それでもいいんじゃねえのか? 周りの普通の大学生みたいに、時間がある時につるんで、飯食って、酒飲んで、出かけたりして。そんな風にやれば、楽しくやっていけるんじゃないか?」

 予想しない言葉だったのか、優は言葉が出ないといったように長信を見つめる。

 あの香梨奈とも六年の歳月を経て、こうして仲直りが出来たのだ。であれば優とも昔の関係を清算して、元に戻れるのではないか。

 優の顔には笑みが宿る。何とも不敵で嫌らしい笑みだった。優の返答は、長信の予想を遥かに超えたものだった。

「詩菜さん、まだ、寝てるんだってな。どうよ、寝たきりの姉の介護を何年もする気持ちはよお? 大の大人のおむつを替えたりしてんのか?」

 ――せっかく、と。

 あの頃の楽しかった日々を取り戻せるんじゃないか、その一心で優に歩み寄った気持ちが、赤黒い臓物のような色へと染まる。

 長信の中で信長が覚醒する。義昭や顕如との戦いの時のように、感情の濁流が意思となって長信の体を乗っ取ろうと動き出す。今更ながら、長信は、己の内にいる信長という存在は、長信自身の感情が極まったり、身の危険を感じ取ると表に出ようとすることに気づく。

 長信の意識が体の奥底に吸い寄せられるように落ちかける。しかし自身の心の中から、長信は腕を伸ばし、表に出た信長の顔を後ろから手で覆った。

 これは俺の戦いだ。邪魔するな。

 言葉にしないでも伝わる。なぜなら同じ体に宿った意識なのだから。

 信長は驚いたようだったが、後ろに見える長信の顔つきを見て、ふっと笑う。そして再び長信の体の奥へと戻っていった。

「どうしてそんな野郎になっちまったんだよ、お前は!」

 体の中を駆け巡る血液が、弾けて外へと飛び出るように、長信は優へと迫る。体を中心に火花が散るも、長信の目には映らなかった。

 優は手に持つ銃を横に振った。銃口を担う部分が外れ、短い物へと変わる。ライフルのようだった形状が短銃へと変化した。

 かくして二人は決別する。

 長信にとっての脅威は、当然、光秀の持つ銃である。能力に関してはこの際、分からないものを警戒しても仕方がない。

 先程、優の放った銃弾を長信は思い返す。距離は分からなくても、今の二人の間よりも離れていることには違いなかった。

 あの時、優は無駄弾を使わずに顕如と孫一の体を射止めている。しかし二人は動かず、だからこそ命中したのかもしれない――長信はその一点に賭ける。

 長信は一直線ではなく、左右から揺さぶりをかける動きを混ぜて優の照準を反らすことに努めた。

 優が銃の引き金を引く。発射音が響くも、長信の体に痛みはなかった。優の銃弾は長信の服すら掠めていないようだった。二発、三発と放たれるものの、長信の足を止めるには至らない。長信は勝機を見つける。

 四発目を弾丸を避けた長信は、優に向かって飛び込んだ。接近が叶った瞬間、容赦なく優の体に組み付く。優の大きい図体が床に打ち付けられた。優を押し倒すことが狙いだった長信の意図は、実を結ぶ。

 勢いに任せて長信は片手を使って優の銃身を握った。単純な力比べでは優に敵うわけもない。優の銃を握る手よりも虚を突いた長信の力の方が、瞬間的に上回り、優の手から銃が離れる。長信は銃を床に滑らせるように捨てた。優の手から離れた銃は、間もなく光の粒子となって消滅する。

 優の方が体格が良く、筋力もある。このマウントポジションは死守しなければならない。長信は優に勝てる要素が、この体勢を除けば何もないのだから。

 上下の態勢での取っ組み合いになると思ったが、優は抵抗しなかった。その理由を、長信は優が口にした言葉で理解する。

「……信長様」

 長信は今、かけがえのない友人が意識を入れ替えていることに気づいた。

「明智光秀、か?」

「私は、天下が欲しくありました」

 長信の問いに、光秀は答えない。しかし真剣な表情の光秀に対して、長信は耳を傾ける。

「同時に、私は貴方が恐ろしかった。私達の考えの及ばぬ貴方の行いは、実を結び、他の名だたる将を、御家を圧倒した。しかしそれには破壊もついて回った。それは日ノ本を壊すようであり、頭の片隅では国の滅びを思い描かずにはいられない。私は貴方の行い全てを信じることが、出来なかった」

 光秀の口から、悔いるように言葉が出てくる。長信の瞳に色が混じる。小田長信と織田信長が混ざり合い、二つの意識が表に出た。

「恩義はありました。ただ、欲しいものがあった。国の行く末が不安になった。それだけなのです。私は貴方についていくのではなく、貴方の手にしたものを横取ることを選び、裏切りました」

「ふん」

 鼻を鳴らしたのは長信であり、信長だった。長信に人の思いが流れ込み、意思と混ざり合って形を成す。信長の感情が自分のものと混濁しているのだと、長信は理解した。

 長信と信長は小さく笑う。光秀はその態度に驚き、呆けたように口を開けた。体は一つだが、二人で光秀の目を見つめる。

「それが分かれば満足だ。お前が一枚、上手であっただけであろう? よくぞ俺を殺したものだと褒めてやる。俺が生きていたら褒美を与えていただろうよ」

「……そのような言葉を、まさか頂けるとは、この光秀、思ってもいませんでした」

「ふん。ではな、光秀」

 あっけない言葉を最後に、信長は消え去った。混ざり合っていた意識が分かれ、片方がどこかへと消えていく。長信は自分ただ一人の意識を取り戻した。

「長信」

 長信と同じように、光秀も内へと戻ったようだ。体の持ち主の優が表層に出て来て、互いの視線が交わる。

「お前が変わっても、オレは変わらない。ずっとオレはあの頃のままだ。あの時、お前に練習を強いて、お前は肩を壊して球を投げられなくなった。中二のあの時の散々なお前の言葉は、今でもオレの中に残っている」

 優のその言葉は、自分の行いを懺悔するかのようであった。

「それがオレを縛るんだ。野球をしていたら嫌でもお前のことを思い出す。でも、それでも、オレは野球が好きで、野球をやめられなかった。だらだらとここまで来ちまった。そんなオレがプロ入りの誘いなんて、受けられる訳ないだろ? お前を差し置いてのこのことさ。オレと同じくらいお前は野球が好きで、あんだけ全中を優勝する、百六十キロ投げる、甲子園を三連覇する、プロになるっていってたもんな」

 ごめん、お前の将来を台無しにして、と優は呟く。

「オレの、負けだ」

 白く淡い光が、優を包み込む。優の口を塞ごうと手を伸ばしたが、既に手遅れだった。

「――っ馬鹿、馬鹿かよ、優! お前――おまえっ!」

「オレはこうするしかねえんだよ。こうしないとお前に償えない。今までずっと、消えてなくなればいいと思ってた。それに、いい加減、ぐだぐだと考えて野球するのに、疲れた――」

 じゃあな。

 優の言葉が耳に残る。胸ぐらを掴む長信の両手から衣服の感触が消え失せた。優の姿は白い(もや)となり、合わせて体の輪郭が光に溶け込んでいく。

 やがて長信は尻もちをついた。それは優の体がなくなったことを意味する。

「消える必要なんて、ねえだろうがよ、馬鹿が……!」

 長信の嗚咽を孕んだ言葉が、静かに床に向かって沈んでいく。

 潤はそんな長信を、ただ見つめることしか出来なかった。

 ゆらゆらとした光の粒が、長信の胸に当たって消えた。それは長信の胸に入り込んだようにも見えた。次第にその光すらも風景と重なって、どこかへ霧散した。


 優が消滅して十日後。

 長信はこの間に調べものを終え、ようやく整理がついたところだった。以前、潤と来たファミレスに彼女を呼び出している。香梨奈も呼ぼうとも思ったが、事が済んでから伝えた方が話はスムーズになりそうだと考えたため、この場にはいない。

 長信は先にソファに座っていた。やがて店の扉が開き、待ち人の姿が目に映る。

 初めて潤と二人でここに来た時と同じ席から、長信は手を振った。

「お待たせしました、長信さん」

 いいや、と潤の挨拶を長信は気安く流す。潤はワンピースの裾を挟み込まないように流して長信の向かいに座った。たまたまかもしれないが、長信も潤も、義昭を倒した数日後と同じ服装だった。違う点があるとすれば、それは潤の瞳を守る眼鏡の存在である。大人しく、そして気弱な文学少女感が増しており、よく馴染んでいる。

「いいんじゃないかな。似合っている」  

 自分の贈り物を身に着けた女性を褒める器量が、長信にもあった。潤は少し言葉を詰まらせる。どうやら気恥ずかしかったようだ。

「昼は?」

「実は先に済ませちゃってまして」

「ならまあ、デザートでも頼むかな」

 メニュー表を開いた長信は、潤に注文を促すと共に、自身も適当に品を頼む。程なくして注文した品がテーブルに運ばれてきた。長信はショートケーキ、潤はモンブランとなる。どちらもデザートのサイズに対して、皿からはみ出るサイズのフォークが用意されていた。装飾が妙に凝っており、枝部分が異様に長い。デザートと共になければ、まるで一種の凶器のようにさえ感じる。

 長信は本来、こういった間食を好む方ではなかった。しかし話の内容が内容なので、いきなり切り出すことは少し気が重かった。間が欲しくてつい注文をしてしまった。

 二人は品に手をつけ始め、他愛のない話を交えながら、甘味を平らげる。

「それで、長信さん、話ってなんですか?」

 正直、長信は話をどう切り出すか迷っていた。しかし潤から尋ねられてだんまりなのでは意味がないので、意を決する。

「……じゃあ、長くかもしれないけど、聞いてくれ」

 そして長信は優が消えてから調べ上げたこと、それを踏まえた自分の考察を話し始める。

「まず、きっかけは明智光秀の子孫が優だったっていうところだ。明智光秀を宿した優は、信長を宿った俺を狙ったが、じゃあなぜ俺を狙えたのか? もしかしたらそういう能力があるのかもしれないが、考えてみれば単純だ。生前の光秀は信長を信頼していたんなら、光秀、それと子孫の優が信長の存在に気づけても何も不思議はない」

 長信は光秀の今際の際を思い出す。信長を想いつつも、しかし光秀は天下を手にしようとした。光秀は信長と天下を手にすることを天秤にかけ、光秀は天下を選んだのだという。だから光秀の言動は、そんな尊敬していた主君を殺めた謝罪だった。大切な人を殺してでも欲しいものが、光秀にはあった。そこに義昭、顕如といった信長憎しという感情はない。

 ――と、光秀は信長に思わせたかったはずだ。なにせ当時、長信も光秀のことをそのような人物だと感じたからだ。長信が別の答えに辿り着いたとき、思わず光秀の役者ぶりには舌を巻いた。

 光秀の名誉のためにいうのであれば、信長への想いと殺害の後悔は真実だろう。しかし、光秀には嘘をついてでも隠したいこと、それこそ墓場まで持っていきたいことがあった。

「で、だ。優と光秀は最初から俺と信長の正体に気づいていた。それを前提とするならば、ひとつ謎が出来る。最初に俺が受けた何度かの銃撃は何だったのか。俺は優ないしは光秀の弾丸に狙われて逃げた。そして先日の優との戦い――」

 逃走劇を繰り広げた時、それと先日の優との戦いを思い出す。より正しくいうのであれば、顕如と孫一も含めて。

 長信が優に見つかってから、優がこの世から消えるまで、長信に優の弾は一発も当たらなかった。衣服やバックが壊れた程度であり、血の一滴も流していない。

 対して、顕如と孫一はどうだ。光秀は弾丸を二発放ち、それぞれに命中させている。

「優との戦いを思い返せば、どうにもおかしい。俺は優、あるいは光秀の銃弾を、本当に体を駆使して避けたのかとすら思う」

 この考えに至ったヒントは香梨奈との戦いだ。香梨奈は長信よりも強い。しかし最後の一撃、絶体絶命だった長信を香梨奈は仕留めなかった。そこには香梨奈の想いがあるからだ。香梨奈はあの時こそ感情の激流に身を任せていたが、では長信を殺したかったか、消えてほしかったかと言われれば、間違いなく違うはずだ。つまりは手加減されたから長信はいまこうして生きているといっても過言ではない。

 手加減――この言葉が優にはしっくりと来る。

 香梨奈と同様、優も銃の技量を見るに、おそらく長信より強いはずだ。優が消える瞬間の言葉を長信は思い出す。長信への懺悔の言葉。そんなもの、長信は求めていないというのに、気にもしていないというのに。

 気持ちの高ぶりを長信は無理やり抑えつける。本題から逸れる訳にはいかない。

「つまり優は終始、俺との戦いの時には手加減していた。優との最後の戦いは、いってしまえばあいつの自殺だ。優は重荷を捨てて楽になりたかったのだろうと思う。でも、光秀の心境は少し違う。仮に優が手加減をして俺と戦っていたとすれば、じゃあそもそも最初の銃撃は何でだ? そもそも襲う必要はないはずだ。でも、この場面は光秀の本能寺の変の時の心境を思い返せば説明が出来る」

 そう、光秀は今一度、天秤にかけて信長暗殺を実行した。信長を殺すこととひた隠しにしたかった事実がばれること、両方の重みを量った。

「つまりは光秀が信長を襲った動機は本能寺の変と同じだ。でも優はそうじゃない。優には俺を殺す理由はない。というか、消えたかった優を見るに、俺を殺すなんてことが出来るはずがない。たぶんあの時、ひとつの体を二人の意思が鬩ぎ合うような感じになったはずだ。だから光秀は信長を攻撃するために弾を撃つし、俺が死ぬのを阻止するために優は弾丸を逸らさせた。そんな中、潤がやってくる」

 凛々しい目の前の少女の姿を長信は思い出す。その少女、潤は彼女は目の前にいるが、表情は前髪と眼鏡の光が邪魔をしていて読めない。

「潤が現れたことによって、優と光秀は攻撃を止めた。これは何でだ? 潤が現れて、二対一は不利だからか? それはおかしい。優と光秀の能力は分からないが、武器は銃だ。顕如と孫一を撃った時のことを思い返せば、優と光秀にとって多少の人数の差は関係がない。だとしたら、こう考える方がよっぽど自然だ」

 長信の舌が少し乾く。喋りすぎたからかもしれないし、緊張が舌に出てしまったのかもしれない。それでも自分の意思を固くして言葉を続ける。

「明智光秀と豊臣秀吉には信頼関係があり、互いのことが分かる。そう考えた方が自然だ。あの時、お前らは初めて出会って、そして出会ったから互いに宿る武将が誰なのかを理解したんだ。だから俺を守りに入った潤――というよりは秀吉の存在を光秀は認めて、攻撃を止めた」

 一つ目を話したい内容を伝えられたので、長信は話を次へと移す。

「さて、じゃあ戦国時代の時に縁があった二人が遠目で再会した。当然、会って話し合おうとなる。優と光秀、潤と秀吉はこのファミレスで待ち合わせをした。話の内容は目下、俺と信長をどうするか、だ。場面を鑑みるに、優、潤、秀吉は俺ないし信長守護派だ。そして光秀は信長暗殺派だが、心境としては複雑なものがあるはずだ。三人の説得を受けて光秀は折れ、信長暗殺を止めるに至った。だから以降、俺は光秀から攻撃されなかった」

 店内から出入口の扉を長信は見つめる。あの時、予定よりも早めにファミレスに着いた長信は、タイミングがいいのか悪いのか、用事を終えた優と出会った。あの時、優と潤は話を終えて、優が店外へ出ようとするところだった――いや、そもそも長信は到着が早くなる旨を潤にメッセージで送っている。潤と優が二人して共にいることはおかしい。気づいた潤が優に説明して離れようとしたが、優は間に合わずに長信とばったり会ったという方が正しいか。

「潤と優、光秀と秀吉は手を組んだ。でも、光秀を説得できたはいいが、本題は問題はそこじゃない。光秀はなぜ信長暗殺を企てたのか、そこが肝だ」

 長信は本能寺の変のことを調べた。資料を漁り、研究者の推論を眺める日々を送って、一つの結論に至る。

 中国大返し。戦国時代、信長の非業の死を知った秀吉が強行した軍団大移動である。これにより秀吉は速やかに光秀を討つに至り、以後の旧織田政権内では発言力を高めていくこととなった。秀吉は信長亡き後の天下統一事業において、これ以上ない最高のスタートダッシュを切れたことになる。

 しかしこと、今回の話の要点は、強行軍の凄まじさではなく、大移動に移るまでの素早さにある。史実を見るに、それはあまりにも早い。不自然といってもよかった。まるで――まるで、信長が死ぬのを予め知っているかのようだった。

「本能寺の変が起こって、秀吉の中国大返し――戦場を離れて急速に光秀を討つために帰還する。この大移動は光秀と秀吉が組んでいて、予め光秀が信長を殺す期日を決めていたからこそ出来た動きだ。信長を殺した理由は、光秀は天下が欲しかった、なんていってたが、嘘だ。光秀は最初から天下をとるつもりなんてなかった。だから懇意にしていた秀吉に、自分が殺されることで天下を取らせようとしたんだ。信長を暗殺した人間に、信長の配下だった人間がついていくわけがないからな。信長のことを秀吉も慕っていたんだろうが、しかしそれ以上に、秀吉は光秀の複雑な心境を理解して、二人は計画を実行した」

 顕如を倒して、長信と優は戦った。優は潤に手を出さないよう言って、潤は戦いの行方を眺めていた。男と男の一対一と言えば聞こえはいいが、振り返ってみれば違和感がある。潤は命を張ってまで長信を守ろうとするような少女だ。であるならば、潤は優の言葉を無視して、二対一で戦おうとするのではないか。それをしなかったのは、優が長信を倒さないことを潤が予め分かっていたからに他ならない。

「これが本能寺の変の真相。秀吉も協力しているなんて、信長に知られる訳にはいかない。二人が第一に考えたのはそれだ。光秀はその思いが強く、当初は優の意思と争いつつも俺を襲った。俺が死ねば真相自体を隠し通せるから丸く収まる。でも優は元より、秀吉も――というよりかは、潤が俺を庇った」

 秀吉と光秀の考えは一旦、ここで分岐したのだ。再度、主君であった人間を殺すことで、再び真実を闇に葬るか、否か。

 信長のことを二人は慕っていたのだろう。だからこそ、秀吉は光秀をファミレスの場で話をつけて、別の方法を考案する。真意を悟られないよう、口裏を合わせるようにしたのだ。

「光秀も承知の上だったんだろう。光秀は自分が天下を欲しがっていたと信長に知ってもらって、過去に蓋をして話を終わらせたかった。自分だけが犠牲になって、自分達がやったことをこれで終わりにしたかったんだ」

 ――これが、潤と優を含んだ、秀吉と光秀の計画。墓まで持っていきたかった真相だ。長信はそう話を締め括った。

 長信は優と光秀、二人の言葉を思い出す。優と光秀は最初から消えるつもりだったのだ。長信と信長への贖罪と、知られる訳にはいかない過去を葬るために。しかし潤が孫一に攫われてしまうというイレギュラーが発生した。長信と潤に危険が迫り、二人を助けるために優と光秀は現れた。

 周囲の他の客の声がやけにはっきりと鮮明に聞こえてくる。長信は潤の返答を待った。

 長い長い間を置いて、潤はようやく口を開いた。

「慕った主君を二度も見殺しにするなど、そのようなこと、出来るわけがありませぬ。ただでさえ断腸の思い、身を裂く感情を抑えて決行したのです。後悔しない日は死ぬまでありませんでした。羨ましかった……すぐ死ぬことの出来た光秀殿が。儂の後悔は、死ぬまで、ましてや再び生を得てからも続くなど、これが生き地獄ではないうというのであれば、なんなのでしょうか?」

 長信の眼の前にいるのは、潤の顔の秀吉であった。

「すまない、光秀殿。隠し、通せなんだ……」

 秀吉の目の端から音もなく雫が流れ、頬を伝う。既にいない人物に対しての、それは謝罪だった。

 軽やかな音が鳴り響いた。席に座る二人を見下ろすようにして、果心居士の姿がそこにあった。

「お前が来るということは、何かあるってことだ」

「お察しの通りです。長信殿。そして一つ、提案を致します」

「提案?」

「ええ。また、これは潤殿の意思と今後の意向を踏まえての、私としても異例の、そして最大限の譲歩となります。本来、私はあまり誰かに肩入れなどしたくはないのです。流石の信長殿といえど、武将同士、そして戦いの平等性に欠けますので。まずはそれをご理解いただきたい」

 やけに遠回しな物言いに、長信は要領を得ない。一体、何の話なのかと眉をひそめる。

 ちらり、と果心居士は潤に目を向ける。その視線は母のような慈愛を感じさせたが、いつになくどこか真剣だった。

「今まで何度もお察しの通り、ここにいる潤殿は、長信殿にお話出来ないことがあります。潤殿の気持ちが乱れ、つい口を滑らせてしまいそうになった際、私はそれを止めてきました。しかし見事、長信殿がそれを当てることができましたら、その制限をなくしましょう」

 荒唐無稽で意味不明な問いに、長信は頭を悩ませる。状況についていけていないといった方が正しいが、しかし聞き逃せない言葉があったのも事実だ。

「この問いに対して、長信殿への助力はできません。何故なら、それは図らずとも既になされていますので」

 長信は額を指で摩って考える。今までの記憶を掘り起こし、違和感を見つけて手繰り寄せる。

 難題を解くような苦しい気持ちにはならない。氷が氷解するかのように、溶けて海へと流れていくような心地。

 潤は長信しか知らないことを知っている。長信は話した覚えがない。でも、おそらく長信は話したのだ。

 矛盾する言葉だったが、一つの仕組みがその矛と盾の存在を打ち消す。

 ――勝者は、過去へと戻ることができる。

 果心居士は長信の頭の中を読んだのか、お見事です、と呟いた。


「潤、お前、これが何回目の戦いだ?」


 二回目です、長信さん。消え入るような声だった。

 潤の言葉を、長信は久しぶりに聞いたように思う。

「わたしは、戦いに勝って、ここに戻ってきました。長信さんを守るために」

 呆気にとられるとは、まさにこのことだ。

「そんな……なんで、何故そんなことを?」

「前回の戦いで、長信さんには何人かの味方がいました。わたしはその中の一人で、何もできない、弱くて情けないわたしを、長信さんは守ってくれました。こんなわたしを守ってくれる長信さんに、何かできないかって、ずっと……ずっと考えていました」

 でも、と潤は一度言葉を止める。

「長信さんは、前の戦いで死んでしまいます。だからわたしは戦いに勝って、ここへ戻ってきました」

 その事実に、長信は一度、言葉を失ってしまう。潤の言葉を素直に頭が受け止めきれなかった。

 そこに果心居士が割って入ってくる。

「私の作った仕組みで申し訳ありませんが、この戦いの枠組みは今の霊体ではない、数百年前に生きていた頃の私が作ったものでして。なので現代と比較しますと、どうにも勝手が異なるのか、法則や仕様に甘いところが出てしまっているのです。勝った人物がまた戦いの時に戻るなんてこと、恥ずかしながら私は考慮していませんでした」

 果心居士が潤の説明をフォローするように付け足してくる。

「そんなことを何度も繰り返す人物がいますと、この戦いの本懐を遂げられない。しかし私も自身の不手際を自覚していますので、特別に、潤殿――この場合は秀吉殿も含んだ形で、制約を設けて潤殿は戦いをやり直すこととなりました」

「それが、潤が話せなかった理由に繋がるのか」

「はい。潤殿には、長信殿以外に関する記憶がございません。一度目の戦いで勝利した人物の経験や知識なんてものがあれば、それは平等な戦いとはいえませんでしょう? なので例えば、潤殿は長信殿には姉君がいることを知っていても、その姉君の事情などは覚えていない訳です」

 なるほど、と長信の中で、全ての点と線が繋がり形を成した。中途半端に潤が長信のことを知っているのは、長信自身のことだったからかと合点がいく。

「かつ、このことを話すのもまた、他の武将、子孫の方と比べると平等とはいえません。ですが」

 再び果心居士は潤へと視線を落とした。潤の様子を眺めるというよりかは、彼女の心を読んでいるかような動きに見えた。

「まあ、何も知らずに終わるのも酷というもの。全てを曝け出したいお気持ちが分からないでもありません……では、私はこれにて」

 再び軽やかな音を立てて、果心居士の体が透ける。瞬きをすれば、まるで煙のようにその姿が消え去っていた。

 潤の全ての事情を知った長信は、何を潤に向けて話せば良いのか分からなかった。死んだ自分を守るために戻ってきてくれた潤に対して、感謝を告げるべきなのか。迷う長信よりも先に潤が両手で眼鏡のつるを持って外す。

「長信さん、この眼鏡は、一度目の戦いの時の長信さんが、わたしにプレゼントしてくれたものなんです。大事にしていたんですが、時間が戻ってしまって、今のわたしは当然、持っていませんでした。でも、長信さんは、また同じものをプレゼントをしてくれました。わたし、それがとても嬉しくって……例え世界が巻き戻っても、長信さんは何も変わらないんだなって」

 長信はショッピングモールのあの時の、潤の涙の理由を知る。

「それだけで、わたしはもう、十分です。長信さんがこの先、例え困っても、今は香梨奈さんがいます。綺麗な方で、わたしなんかと比べるのもおこがましい、そんな素敵な方。本当に、本当に、今まで、ありがとうございました」

 途端、果心居士の告げた言葉が頭の中を駆ける。

 ――潤殿の意思と今後の意向を踏まえて――

 潤の意思とはなんだ? 今後の意向とはなんだ? 潤は何をするつもりなんだ?

 ――全てを曝け出したいお気持ちが分からないでもありません――

 何も知らずに終わる? 全てを曝け出したいという気持ちとは、つまりは潤の一度目の戦いの話だ。それを曝け出して、でもその後に終わるというのは、一体どういうことだ?

 言いようのない不安に、心臓が早鐘を鳴らす。潤は、何をしようとしている?

「おい、潤、お前何言って」

「わたしには、おじいちゃんの気持ちが分かります。知られたくない、知られてしまったら、数十年、死ぬまで長く耐え忍んだ時間に意味がなくなってしまうって。おじいちゃんが中にいるからなのかな……わたしには、他人事じゃなくて自分のことのように、ううん、これはもうわたしの気持ち、意思なんです」

 すまない、潤――うん、いいよ。

 秀吉と潤が入れ替わって言葉を紡ぐ。

 潤の右手には、フォークがあった。それはとても異様な形であり、例えるならば凶器のようにも見える。

 潤はそれを、自分の喉に持って行った――


 長信は体の中に信長を宿している。そしてその信長を、共謀して殺したのは秀吉と光秀に他ならない。二人には私欲ではなく、慕うからこそ、主君を殺さなければならない理由があった。その真実に関して、例えばその件で長信は潤ないし秀吉を責めたり見限るつもりは毛頭なかった。そしてこれは、おそらく信長もそうだ。なぜならば信長は、光秀が消える時に自分を討った光秀のことを許している。光秀を許したというのに組んでいた秀吉だけは憎々しい、なんてことになるとは到底おもえない。

 なので長信がこの話をした理由は、自分の中の重石を取り除きたいという清算のような意味合いがあった。何せ、自分は正直もうどうでもいい話ではあるのだが、一人で抱えるにはこの真実は大きすぎる。なので潤を呼び出してことの詳細を話した。

 しかし(つつ)いて予想外のものが返ってきた。流石に潤が前回の戦いの勝利者であり、それでいて戦いに戻ることを望み、しかも長信自身は前の戦いで死んでいた、なんて言われたら衝撃を受けない方がおかしい。言葉では一応、理解はしたが、なんというか肌感覚ではまだ現実味がなかった。

 しかし話の流れで胸騒ぎがしたのも事実だ。

 優が消えた場面が脳裏に浮かぶ。

 あの時、長信は後悔した。もう同じ後悔はしたくないと、頭よりも先に体が分かっていた。

 なので長信は、瞼を閉じた。瞼の裏には、潤に迫るフォークの光が残る――


 長信は炎を受け入れられない。しかし何の業か因果か、長信の能力は炎である。

 幸せの詰まった家が燃える。その光景が長信の邪魔をする。

 燃えろ。そう思うと同時に、長信は目にしたくないものから逃げるために、瞳を閉じた。

 かくして、次に開いた時には、

「え……?」

 長信の周囲から火花の散る音が聞こえてくる。

 潤のフォークの切っ先がなくなっていた。手には持ち手だけが残っており、これでは元がフォークかスプーンか、ましてやナイフなのかは分からない。

 長信も潤と同様、驚きの表情を隠せなかったが、事態への理解は早かった。

 見えなければ、見ていなければ炎を出せるのだ――

 ふうー、と。とても細長い息が口から出た。ソファーにだらしなく背中を預ける。

 内心、長信は呆れている。自分の周りには、なんでこうも早とちりをして、勝手に行動する奴が多いのだろうか。

 長信は気を取り直して、テーブルから身を乗り出す。優と同じようなことをしかけた目の前の少女に、とてつもない愛おしさと同時に怒りを覚えたからだ。

「許す。全て許す。全部許す。過去に信長を――ああ、もうややこしいから俺っていうな? 俺を殺したり、俺に隠し事があったり、俺に逆らったりした奴がどれだけいようとも、全部、ぜーんぶ、許す。無罪放免、好きに生きろ!」

 捲し立てた。たぶん唾が潤の顔に飛んだ。潤はまだ、長信の言動におそらくついてこれてはいない。

 はあ、と思わずため息が漏れ出る。

「わかってんのか、秀吉、おめーもだよ!」

「は、はは!」

 長信の気迫に気圧されたのか、それとも信長と似た恐ろしさでも感じたのか、表に出た秀吉は、何代も後の孫娘の顔で怯えている。

「潤! お前、俺に言った言葉を思い出せ! ああこら、馬鹿なのか? おいおいおい!」

「うっ、うっ、う」

 テーブル越しの長信は片手で潤の両頬を掴んで揺らす。アイアンクローを頬にするような形だ。潤の頬が内に押され、それに合わせて唇が突き出す。合わせるかのように潤が声を漏らした。長信は掌に唾液の滑りを感じる。

 やがて、ぺっと鬱憤を晴らし終えたかのように、長信は潤の顔から手を放す。潤の両頬は、若干、赤い。

「お前、俺を守るんだろ? じゃあ、守れよな。ずっと」

 長信の中の信長は、長信に対して今回、何も語りかけてこない。意識を乗っ取っても来ない。つまりは信長にとって、話した出来事の全てが些事であることを示している。もっといえば、光秀の告白で信長は全てを察していたのかも知れない。

 見下ろす潤の顔は、親を見上げる赤子のように無垢であった。しかし長信の言葉が耳を通れば、目尻に涙を浮かべて、はい、と言葉を漏らす。

 用事の済んだ長信はいくぞ、と告げて二人分の金額が書かれた伝票を手に取り、席を立った。会計に向かう足を、少し遅れて潤が追いかける。そろそろ年上らしいところを見せておかないとな、と長信は潤の分も払うつもりだった。

 一人の背中を後からついてくるその光景は、かつての信長と、彼を慕った秀吉の姿を思い起こさせた。


 終

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