第二章
なんでこんなことになっているんだろうと、長信は思わず首を捻った。
柔らかい土の敷かれたグラウンド、飛び交う黄色い声援。嫌でも長信の古い記憶を刺激する光景だった。しかし過去とは明確に違う点として、長信以外の選手は皆、女性である。
前のベンチの背もたれに両腕を乗せ、マウンドでピッチングをする女性を見つめる。ことの発端は間違いなく彼女、得能香梨奈にある。しかし何故、自分がこの場にいるのか、その理由が分からない。
一体なぜ、自分は女性に混じってソフトボールをしているのだろうか?
話の始まりは二日前へと遡る。
潤と出会い、足利義昭なる武将を倒した夜から数日後。商店街通りの中にあるファミレスは長信の通う大学寮から歩いていける程度に近い。集まる分には立ち寄りやすい店構えといえる。
これからどうするかを決める必要があります――長信と潤のあの夜の話は、潤のその言葉で締め括られた。
話し合いを予定した日を迎え、再び長信はあのファミレスへと足を運ぶ。
時刻は昼の十一時。昼食時としては幾分か早く、そもそも待ち合わせは十二時と打ち合わせていた。本当は長信にも前もって別の用事があったのだが、相手の都合でキャンセルとなったのだ。
その足のまま目的地へと向かった長信だったが、感覚で適当に目的地まで歩いたものの、如何せん予想通りに早く着き過ぎてしまった。
もう着くと潤にメッセージを送った直後、少し失敗したなと長信は頭の中で呟いた。わざわざ早く着くことを知らせるのは、潤を急かすようで悪い気がしたからだ。すぐに送ったメッセージに既読の文字がついてしまい、もう考えても仕方のないことだと長信は割り切った。
ファミレスの扉の取っ手に手を伸ばしたが、空振りした。誰かが内から扉を開いたからだ。帰ろうとする男性と正面から見合う形になる。偶然にもその人物は、長信の数少ない知った顔でもあった。
長信はそれなりに背丈のある方だが、それをゆうに超えた百八十以上ある偉丈夫。黒い髪に少々逆立てた短髪と、ジャケットやパンツの上からでも容易に分かるほどに鍛えられた体。長信と同い年ではあるものの、比べると首の太さ、肩の広さ、体格全体の厚みがまるで違う。
また、長信とは違って角張りのある精悍な男性らしい顔立ちであり、見る人が見れば、男であれば彼のようになりたいと思うだろう。仰々しくいえば雄々しさ、猛々しさといった言葉が似つかわしい。長信は山中の熊を連想した。
長信も男も、ばったりと互いに出くわしたせいで、少々呆けたように口を開くも、大して間を開けずに男の方から話しかけてきた。
「珍しいな、長信が外でメシだなんて。お前、自炊マンじゃなかったっけ? 嫌いだろ、こういう外食」
自分のものと比べれば幾分かハスキーで低い声が、長信に向けられる。
「ちょっと待ち合わせでね」
見た目から感じる男臭さに反して、存外、男――明石優は柔らかい笑みを浮かべた。爽やかといっていい面持ちだ。肉体の威圧感とズレたギャップがあり、なんというか、親近感が自然と湧く。
ふうん、と優は口から漏らす。
「なあ、少し付き合わないか?」
昼食なりを終えたのだろう優に対して、長信は誘いをかけた。かけはしたが、大方、優の返しには予想がついている。
「いやまあ、さすがにな」
眉を曲げて、さぞ困ったように優は笑み種類を変えた。
「まあまあ、なんならいるだけでいいぞ」
引き下がる長信。これは長信なりの優に対するアプローチだった。そもそも長信は潤との待ち合わせがある。潤が今まさに向かっている最中だとして、少し余裕はあるのかもしれないが、それでも微妙な時間だ。優を付き合わせたとしたら、潤とかち合ってしまうかもしれない。赤の他人で性別も年齢も違う二人には、さぞ気まずい思いをさせてしまうだろう。
だが長信には優が誘いに乗ってこない確信があった。だからこそ、これは単に長信が優と話していたいだけだった。案の定、優は軽く長信の肩を叩いて歩き出す。
「また今度な」
優は長信に告げて長信に背中を見せる。歩いていく広い背中が徐々に小さくなっていく。その姿に、長信は僅かな哀愁を感じた。
――まだ、気にしているんだろうな。俺はもう割り切っているのに。
長信は優と対面して、彼の気まずい心境を察した。だからといって、長信には今すぐ関係を改善させる方法は思いつかない。だからこそ、およそ一年前、優と再会したとき、長い時間に頼ることに決めたのだ。
徐々に、徐々にでいい。優は生きている。それならば、きっと、何とかなる――
また今度な。優の残した言葉はきっと、ただの断り文句、世辞なのだろう。しかし、その時がくればいいと、長信は本気で思って淡い期待を寄せた。
優の姿はもう長信の目には映らない。長信は気持ちを切り替えて、再び閉まったファミレスの扉を開ける。
鉄琴調の甲高くて軽い音が真上から聞こえてきた。来店者を知らせる店の構造なのだろう。潤がつく前に先に座って適当に昼食でもと考えた長信だったが、予想は外れて先についていた彼女の姿が目に映る。
お互いの姿に気づき、席についてた潤がわざわざ立ち上がって小さく手を振ってくる。山吹色のチェック模様のワンピースで身を覆い、裾は膝辺りまであるかないか。意匠として胸元に長めのリボンがあり、臍まで伸びている。昨日見た制服のものと比べれば、色合いが大人しい。しかしよくよく見れば生地に独特の光沢のようなものが見て取れる。簡単に買ってしまえる安いもののようには見えなかった。いわゆるお嬢様の高校の制服を着ていたことだし、おそらく裕福な家庭の子なのだろう。
対する長信は、男女差こそあるが、よりシンプルだ。小さく胸にロゴの入った黒い無地寄りの長袖に、紺のジーンズ。耳障りのいい言葉を使えば素朴で自然体でカジュアル、悪くいえば地味で安っぽかった。実際に大した金額を長信は服装にかけていない。金欠で女っけのない大学生といえば、ぴったりとその装いが当てはまる。
手を振り返して長信はそのまま潤の向かいに相席する。こんにちは、よう、と軽い挨拶を済ませて二人はソファに腰かける。
早速といった感じで潤は気を引き締めた表情を見て、本題に入った。
「まずは――えっと、何?」
しかし話し始める前に、潤が戸惑いを見せた。目線を長信からテーブルに移し、何かに話しかけている。端から見れば、正直おかしい人にしか見えなかった。おじいちゃん、分かった。その言葉だけ長信は聞き取れた。
「すいません、長信さん。色々と話す前に、その、おじいちゃんが話したいって言ってて」
突然のワードに頭が追い付かなかったが、それも一瞬だけだった。今までの流れ、見聞きした情報を整理して合点がいく。
「そのおじいちゃんっていうのは、潤の中にいる先祖ってことか?」
「そうですね、秀吉おじいちゃん……豊臣秀吉です」
聞いたことのある名前が出てきた。戦国時代の人間であり、確か身分の低い生まれながら天下統一を成し遂げた人物だ。下剋上という言葉がまさに適している。信長お気に入りの家臣として働いていたイメージもあった。
潤の話の切り出しに、長信は何と返せばいいのか迷った。正直、ピンと来ていない。精確に豊臣秀吉なる人間のことを長信は知らないが、それでも彼は偉人として有名だ。大して詳しくもない長信が知っている戦国時代の人間なのだから、それは間違いないだろう。その傑物が、潤の中? にいて、彼は長信と話がしたいらしい。
おう、と要領を得ないまま、長信は返事をした。それではと、潤は眼をすっと閉じて、開いた。
――潤の目の色が変わった。
これは長信の錯覚だ。人間の目の色彩が瞼を開閉するだけで変わるなんてことは起こりえない。しかし入れ替わった二人の違いを言葉で表すとなると、そう表現するのがあっている気がする。
先程までの潤と見た目は何も変わらない。可憐といえる年相応の少女のままだ。しかし面持ちから伝わるのは気迫と余裕。眼光が長信を突き抜けるようなものに変わった。
長信は今、自分は見定められているのだと察する。目の前には身体こそ少女のものを借りているが、かつて日本を統べた人物がいるのだと本能が伝えてくる。
冷や汗を浮かせ、喋る言葉に困ってしまった長信だったが、先に秀吉が口を開いた。
「御初に御目に掛かりまする、若殿、儂は豊臣朝臣羽柴秀吉と申します」
口調は厳かであり、少女らしさは欠片も残さず消え失せていた。長信の秀吉に対するイメージに人たらし、というものがある。色んな人に好かれ、だからこそそれだけの気さくさがあったのだろうと勝手に想像していたのだが、その印象は砂の城のようにあっけなく崩れてしまう。
「初めまして。小田長信といいます。よろしく、お願いします」
接し方に迷ったが、挨拶をされているのに返さないのは失礼だ。年上の秀吉に対して敬語を使う、それだけの配慮が長信に浮かんだ。なので秀吉への返事は随分と固いものとなった。
「こちらもで御座います。昨夜の義昭公との戦い、若君が勝ちを収めて何よりで御座った。遠孫が力になっているようで何より――おじいちゃん、そういうのじゃないでしょ? 無理して恰好つけなくていいから」
突然の口調の変化に長信は眼を見開いた。秀吉の代わりに、というよりも潤が唐突に戻ってきたのだと理解した。
うぐ、と目の前の少女のなりをした秀吉が息を詰まらせる。潤は再び意識を内に引っ込めたのだろう。またしても人格は秀吉になったのだろうか、長信としては変化が目まぐるしく、理解の処理で忙しかった。
秀吉は細長い溜息を吐くと、肘をテーブルに乗せて顎に手をやった。頭を支える姿勢であり、およそ可憐で気弱な女子の仕草とは思えない。
「潤にバラされちゃあもう仕方がねえ。若君、楽にしてくんなよ。オレもそうすっからさ」
どうやらこれが秀吉の素であるらしい。驚きの絶えない長信ではあったが、前の堅苦しいものよりかは断然、楽だった。
しかし先ほどまでの秀吉の振る舞いは演技だったのかもしれないが、全てが嘘のようなものには見えなかった。この二面性、表裏を分けて扱う部分に、長信は秀吉の本質を垣間見たような気がした。
「ありがとうございます。そういっていただけると俺も気を遣わずに済みます」
「あー、敬語もなしにしようや。オレからしてみりゃ、あんたは信長様っていう、オレの時代の時でいやあ大将の子孫だ。このご時世じゃ官位も何もあったもんじゃないしな」
秀吉の言葉には戦国時代と今を生きる若者を分ける配慮があった。
さらにと、秀吉は付け加える。
「若君からしてみりゃ、オレは年齢もしこたま離れたじじいだ。だけど敬う必要もねえ。なぜならおまいさんが、この世界のオレ、潤の当主、大将、家長だからだ」
「……分かった。そうする、秀吉」
「サルぐらいに呼び捨ててもらうぐらいの肝を、若君には期待するぜ」
ああ、確か信長にはそんな風に呼ばれていたんだっけ、と長信は秀吉のあだ名を思い出す。そして秀吉は少々下品に大きく口を開いて笑った。続けて秀吉は潤の顔のまま、頼んでいた紅茶をぐいと口元へと持っていく。
「あまくてうめえ! はあー、オレの時代のモンとはえらい違いだ。こんな金平糖を飲み物にしちまったようなのが、平民のガキでも飲めるっつーんだから、えらい時代になったもんだな、かはは!」
潤と同じ顔だというのに、振る舞いはまるで違う。歳も性別も、果ては生きた時代が違うのだから当然かもしれないが、頭では分かっていても、長信はその違和感を受け入れる自信は正直、なかった。
秀吉は内へと引っ込み、潤が表に出てくる。どうやら秀吉が出てきたのは言葉通り、ただの顔見世、挨拶であったらしい。
ここで一つ、長信に疑問が湧いた。潤に秀吉が宿り、そして今のように自在に表に出てくることが出来るらしい。であるならば、それは自分においても同じはずだ。
自分の頭か、はたまた胸か、もしくは部位などではなく心になのか。内に意識を向けてみれば、何やら得体のしれないものが胎動し、蠢くような感覚がある。おそらくこれの正体が信長なのだ。
「心の中で呼びかけてみてください。どうやって、みたいなものはあまり気にしなくて大丈夫です。長信さんのイメージする感じでやってみれば、ちゃんと伝わっていますので」
長信の考えが顔に出ていたのか、潤から声がかかった。頷く長信だったが、潤の言葉通りにやってはみるものの、しかし信長からは何も返事はない。まるで手ごたえがなくて不安になってくる。やり方が間違っている気すらした。
「信長さんは、出てきてはくれませんか?」
再度、長信は頷いた。う~ん、と潤は考える仕草を見せた。一時して、再び口を開く。
「信長さんには何やら事情があるのかもしれませんね」
「事情?」
「はい。おそらくですが、出たくない理由のようなものがあるのかと」
それならば、と長信は光秀――明智光秀と思わしき人物のことと、義昭に向けた言葉の件を潤に話す。
あの時、長信の意思とは関係のない言葉が自分の口から出た。先祖の存在を知った長信としては、いま思えばあれは信長が長信の意思を押しのけて口にした言葉だと分かる。
「となると、信長さんは明智光秀の気配を感づいた時、それと足利義昭の最期に対して、思わずといった形で表に出られたのでしょう。でも平時の、例えばうちの秀吉おじいちゃんみたいに何気なく表には出たくはないんじゃないのかと思います」
であれば、果たしてそれは何故なのか。
疑問はつきないものの、どれだけ考えても尋ねる相手がだんまりなのではどっちにしろ答えは出ない。信長が返事をしないのだから、長信と潤に理由が分かる訳もなかった。
長信は話を切り替えることにした。といっても、信長に関連する内容であるのは変わらない。
「信長は撃ってきた相手のことを光秀って呼んでいた。これに関してはどういうことなんだ? なんで狙っているのが光秀だと分かったんだ?」
「長信さんはその時、なんといいますか……感覚的に、明智光秀がいる! って、なりましたか?」
「いいや、全然」
「であれば、これは想像でしかありませんが、まず、能力や武器を使用すると、距離によりますが、子孫はその反応を感知できます。加えて明智光秀は銃の名手と言われています。長信さんを銃弾で襲ったことから、今回の戦いでは銃を使っているのでしょう。この二つが繋がって、長信さんの中にいる信長さんが、遠くに自分を狙う武将がいて、それが明智光秀なのだと感づいた――と考えるのが自然かもしれませんね」
それと、と潤は話を続ける。
「戦国時代の人間関係に基づいた感覚があります」
潤はノートとペンを取り出した。わざわざそのようなものを容易する辺り、潤の律儀さを感じる。
棒型の人間を二人書き、その間を一方の矢印が繋ぐ。
「この戦いの仕組みの一つなんですけど、体の中にいる先祖が、戦国時代の時に信頼していた武将の位置、そして名前を、わたし達は感覚で知ることが出来ます。それはどこにいても、といった訳ではなく、一定の距離にいれば、ということになります。例えばわたしが長信さんの居場所を知れたのはこれが理由ですね」
長信は矢印に目を向ける。矢印は一方しか指しておらず、両矢印ではなかった。
「その、ある程度の距離の中にいれば相手の名前、位置が分かるというのは、互いに、というものじゃないんだな?」
「そうです。なので一方は相手の位置、そして宿った武将を知れたとしても、必ずしも逆も同じとは限りません」
なんというか、ややこしい話ではあった。というかこれは長信と信長、それに潤と秀吉の関係がまさしくそのまま当てはまる。
であれば、何故それは一方しか分からないのか。長信が聞くよりも先に、潤からの説明が入る。
「生前の信頼関係がこの察知する能力に表れているようです」
「それは……」
潤の顔つきが少し厳しいものになったのは、おそらく勘違いではない。
つまりだ。戦国時代において、豊臣秀吉は織田信長を信用していたからこそ、現代のこの戦いにおいて、長信の中にいる信長の位置を知ることが出来た。だというのに、長信は秀吉を宿す潤からは何も感じない。
これは信長が秀吉を信頼していないことの証拠ではないのか。何というか、人の気持ちを切って捨てるような行為をした気分になり、長信は他人事ながら申し訳ない気持ちを抱いてしまう。
「なんか、ごめん」
「若君、謝るのは違う」
つい長信は口にしてしまったが、すかさず返答が来た。潤と秀吉が再び入れ替わり、長信と秀吉の視線が交わる。
「色々あったんだ、色々と。もっといえばオレと信長様は家臣と主君の関係だ。親族でもなければそもそもの立場が対等じゃねえ。仮にどれだけオレが信長様を慕っていたとしても、同じ気持ちを主君に強いるなんざ、的外れな話さ」
長信の気持ちを汲んで話す秀吉の言葉には、一度、一生を終えた人間の深み、重みがあった。簡単な話ではないことは長信にも分かり、無言で頷く。
秀吉が信長のことを掘り下げないのであれば、長信から言うことは何もなかった。
潤が表に戻ってきて、次の話題へと移る。
「次は、能力と武器のお話をしましょうか」
「あの義昭っていう男が出してた刀や、鷹が巻物を掴んで飛んでいったやつのことだな」
「はい。子孫は、武将それぞれに見合った能力と、人によっては武器を持っています」
「その武器が人による、っていうのは?」
「基準は……わたしにもちょっと、分かりません」
「その人物に見合ったものを授かると思っていただければよいかと」
「おう!?」
横を見れば、果心居士がいつの間にか長信の隣に腰かけていた。思い返せば、長信は果心居士が現れたり消えたりするのを何度も見かけている。つまりは果心居士はこういうことが出来る人間なのだろう。
長信は果心居士の存在を受け入れて、そのまま能力と武器とやらの話を続けた。
「その能力と武器がどんなものかっていうのは、どうやって分かるんだ?」
「こればっかりは個々人の感覚的なもので……何でしたら長信さんも既に持っていて、そして使えると思いますよ」
潤のその言葉は、普通なら疑問を抱きそうなものだ。しかし長信は意味を理解し、自分の手の平に目を向ける。
おそらく自分に武器はないのであろう。そして妙な感覚がある。まるで手の平に通う血管全てが踊るかのような、躍動感。今はまだ人肌程度の熱量しか保ってはいないが、あと一歩、長信が意思を以って力を込めれば、長信は誰かに教わるでもなく、どうなるかが分かる。
だからこそ、やめた。
気づけば長信は息を荒げていた。心臓の鼓動がけたたましく鳴り響いているとすら思う。周りの人間が耳を塞がない理由が分からなかった。汗が吹き出るように顔全体を覆い、テーブルへと垂れる。体を動かしたわけでもないのに、思わず肩で呼吸をする。
酷く肌寒い。今日、口にした食べ物全てが体内をこみ上げ、吐き出るのを望んでいるかのように喉元が苦しかった。
「長信さん……長信さん?」
心配して声をかけてくれる潤の顔を、長信は今、見る余裕がない。
「大丈夫、大丈夫だ。だけど、ちょっと、待ってくれ」
配られてる手拭きの袋を破り、広げて顔に押し当てる。息を吸っては吐くのを繰り返して、長信は呼吸を整え、汗を拭った。薄い水気が長信の吐き気を和らげてくれたのか、段々と楽になってくる。
「……潤は、俺が火を出せることを知っていたんだな」
炎を生み出す。それが長信の能力であるらしい。
「はい。でも、あの、本当に大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。でも、これはちょっと、駄目だ。この能力は使えない」
長信はある日を境に火、炎にトラウマがあった。例えばそれは映像で見ても汗が吹き出してしまうほどに、だ。ましてや現実で目にしたりするなんてもってのほかで、料理でガスコンロは使えないし、煙草を吸う人がいれば目をそらして体を出来るだけ離してしまう。
冷静さをある程度取り戻した長信は、ふとあることに気づいた。潤は長信の能力を知っていた。しかし長信の負った精神の傷に関しては知らなかったようだ。どうにも潤の知る長信の事情はちぐはぐである。
「それは……でも、そうなると」
そう潤は呟いて、一旦、押し黙った。何やら考え込んでいるような面持ちだが、どこか不味いものを食べたかのように苦しそうでもある。
長信にも潤の心境を察することが出来た。長信は能力が使えない。即ち、長信は足手まといなのである。
義昭を倒したことは事実であるが、そんなことは潤も承知の上だ。義昭は恨みを覚える信長を目の前にして短絡的であった。計画も立てず、憎しみに任せて長信に近づいたのだ。
長信は捨て身に近い身のこなしと、持ち前の運動神経を駆使して返り討ちに成功したが、果たしてこんなことがどれだけ続けられるのか。
義昭の手紙。長信の能力の縛り――現状を整理すればするほど、事態の厳しさは、より身を圧迫するかのように長信と潤を締め付けた。
押し黙る二人の意を介さず、隣の果心居士は涼しげな顔を崩さなかった。ずず、とメロンソーダを啜る音が耳に入り込む。というか、いつの間にかに果心居士も注文していた。金は持っているようには見えないが、そこのところはどうなのだろうか。
口を閉ざした潤に対して、長信はかける言葉に迷う。つい視線を潤から避けた先には、四、五十代の男性が眺めるスマフォの画面があった。
画面の内容は、野球のスポーツニュースだ。音は小さくて長信の耳では拾えなかった。投手が投げ、打者がバットを振るといった、ハイライトシーンが連続して流れている。つい長信は潤の存在を忘れて、眼を細めて遠くの画面を眺めた。
きんきんきん、と鉄琴調の音が離れた位置から聞こえてる。誰かがファミレスへと入ってきた。
長信はスマフォを見ていた男客が、今は画面ではなく入口に目を奪われていることに気づく。釣られて長信も来店者を横目で見た。思わず目を見開いてしまう。
「得能……?」
一目見て彼女から得る印象は、力強さと華やかだ。
英語の羅列されたタンクトップは臍を隠す気がないデザインであり、上から着込んでいる白ジャケットはもともと前を止める設計ではないのか、前裾が極端に短い。なので彼女の胸元や砂時計のようなくびれが丸見えであり、腹部には薄く縦筋が通っている。
茶のミニスカートを履いているようだが、注視すると内部の構造はどうやらショートパンツらしく、中の裾部分の生地が僅かに見える。どちらも足の長さを強調するかのような丈で、芯の太さを感じさせる太腿が伸びている。
茶に染髪された波打つような髪は、肩を少し超す程度の長さだ。長信と並べば、それは対比のような絵に映るかもしれない。
彼女――得能香梨奈は店員が声をかけるよりも前に、長い足をまっすぐ伸ばして店内を歩いてくる。ヒールの音は、長信のテーブルの前で止まった。
彼女の大きな瞳が長信を睨みつけるように見下ろしてくる。ここまで彼女と距離が近く、そして正面から顔を見たのは、実に何年振りだろうか。
見下ろす彼女はジャケットからメモを取り出し、長信に渡してくる。気のせいだろうか、メモを持つ手は震えているように見えた。
長信はそのメモを受け取って内容に目を通す。何かのIDが記載されていた。
「なんだ、これ?」
「あたしのLINE。明後日、十時に榊運動公園に来て。一人で」
かけられた言葉から、懐かしくも大人びており、声色の変化を感じる。つい昔の彼女の姿が頭に過ったが、やはり長信の予想通り、昔と違って得能の口調は実に冷たいものだった。
しかし今になって何故、という思いが長信に宿る。およそ六年間、得能とは縁が切れていたはずだ。小学校から中学校、高校から大学に至るまで、偶然にも同じ学校に通ってはいるが、十四歳の頃を境に、今まで一度もこうして面と向かって話すことはなかった。
「いや、なんで?」
「十万」
長信の疑問に対して、得能は数字で返した。返答になっておらず、意味が分からなかった。
だが、すぐに理解する――金額だ。
「九万」
長信の心臓が跳ね、眼が眩んだ。間を置かずに一万円を失ったような気分になったが、気を取り直して瞬時に頭の中で計算する。得能の要望に応えるだけでそれだけの金を得られるのであれば、長信の暮らしはまたひとつ楽になるだろう。しかしそれは人として問題があるのではないのか。欲望と尊厳が葛藤する。
八万、七万、六万、五万――得能のカウントダウンは間を置かずに続く。長信は身を裂かれるような思いを抱いたが、何も言わない決心をした。苦渋の決断だったが、最終的には僅かに正義感のようなものが働いた。頷いてしまえば、長信のモラルはもう元に戻らないような気がしたからだ。
一旦、得能のカウントダウンが止まる。長信は意図を図りかねたが、二人は互いから視線を外さなかった。そして、
「……十万」
「いや、元通りになるんだったら意味ないだろ」
思わず口に出てしまったが、得能は真顔のまま表情ひとつ変えない。視線だけで暗に自分の言い分を突き付けてくる。威圧的な眼差しを受けて、長信は最終的には折れた。
「はあ、いいよ。分かった。いくよ」
長信はふと気づく。このタイミングで何故、得能は長信に接近してきたのか。嫌な予感が頭を過ぎる。そして訪ねていないにも関わらず、得能から答えが飛び出た。
「あたし、徳川家康だから」
「はあ?」
得能は告げた言葉に、長信は思わずといった感じの声が出た。長信の反応を気に留めず、得能は次に潤と眼を合わせる。
女性の睨むような視線を受けて、普段は気弱そうな潤だが、真正面から挑むような表情をして見つめ返す。気弱そうな潤が怯えていないのは、おそらく徳川家康という言葉を聞いてスイッチが入ったのだ。潤と得能は視線を交えつつも、言葉は交わさなかった。
視線の糸は得能の方から切った。用事を終えたのか、得能はどのテーブルもつかずに踵を返す。再び鉄琴調の音が耳に入り、得能の姿が店内から消える。
ふうー、と長い溜息をついたのは長信ではなく潤だ。身構えていた緊張が解けたのだろう、吐息に合わせて深く背中を座席に預けた。
まあ潤のようなタイプは、得能のことが得意ではないだろう。それに得能の服装は、長信が大学で見る彼女のものと比べれば、どこか威圧感があり、挑発的、もしくは攻撃的なものに見えた。
「長信さんは、今の女の人と知り合いなんですか?」
平常を取り戻した潤の声かけに、まあな、と返す。
「喧嘩してそれっきりの、昔馴染み……って感じだな」
縁が切れてそれっきりだった得能が、今になって急接近してきた。しかも彼女は長信と同じく、内に武将を宿している。長信に近づいてきた理由は察することが出来た。義昭のあの巻物である。
「徳川家康と織田信長の関係って、どうなんだ?」
長信は二人に関して大して詳しくない。そしてこれは話している中で思ったことだが、おそらく潤は長信よりも戦国時代のことに詳しい。案の定、潤はきちんと長信の疑問に答えてくれた。
「信長さんが生きていた頃のお話をしますと、同盟国同士の当主、ですね。お互い助け合うような仲であったことには間違いないです」
「ということは、悪い関係ではなかったってことだな」
はい、と潤は返してくれるが、その顔色は決して明るくはない。
「ですが、立場が同じであったとはいえません。これは当初こそ持ちつ持たれつであった織田家、徳川家ですが、やがて国力――領土の広さや御家の経済力ですね。これに差がついてしまいます。織田が上、徳川が下ですね。それに合わせて、徳川家康――徳川家は、半ば家臣ような扱いになってしまいました。力の格差は自然と対等な関係を崩してしまいます。織田家の言い分は通りやすく、徳川家は課せられた無理を身を削ってでも成し遂げる、そんな場面がいくつもあったと思います」
中の秀吉おじいちゃんもそう言っています、と潤は付け加えた。歴史の証人の言葉が備わるのであれば、それはもう事実のようなものだろう。
「とはいえ、同盟関係は信長さんが亡くなってしまうまで、ちゃんと続きました。織田家からしてみれば身を粉にして働く徳川家のことは悪く思っていないでしょうし、徳川家は大国、織田家が自国についてくれるのは心強かったはずです。しかし、だからといって徳川家康という一個人が、果たして信長さんのことをどう思っているかは分かりません。それに」
潤は途中で言い淀んだ。長信はいいから、と仕草で続きを促す。
「比叡山焼き討ちなどで、信長さんは家臣を主導して、多くの大人、女性、子供を殺しています。これは残虐で、酷く凄惨なものでした。他の人が見たら、さぞ信長さんは恐ろしく見えたでしょう。逆らえば自分もあのようにされる――そう思われてもおかしくはありません」
潤の言葉は事実を中心に想像が入り混じっていた。しかし確かな現実味があり、そう外れてはいないのでは、と長信は考える。
子孫を通じて蘇った徳川家康は、生前はさぞ頼りになりつつも恐ろしかった織田信長と再び出会い、どういった心境なのだろうか。戦国時代と違い、こちらは強大な力を持っている訳でもなく、かつ長信と得能は過去、仲違いをして離れた関係だ。ネガティブな要素ばかりが頭を埋め尽くしてしまう。
渡されたメモに長信は目を向ける。先行きは正直、明るいものには見えなかった。
得能の介入もあり、長信と潤は対応の話を終えて解散となった。
長信は注文をしておらず、そのため潤のみが会計を支払ったが、思ったよりも値段が張った。原因は何のことはなく、二人が頼んだ覚えのないメロンフロートの代金だ。長信と潤が席を立つ時、果心居士は既にその場にいなかった。年下にその分まで払わせる訳にもいかず、長信はメロンフロートの半額分だけ潤に渡した。不服な支出を嫌った気持ちが長信の顔から滲み出ていたのか、潤の困ったような笑みが長信の頭に残る。
その後、長信は何店舗かパチンコ屋を回って遊技をして、現在の時刻は二十三時を過ぎた辺り。遊技を終えた長信は大学の寮部屋に帰ってきていた。
何の気なしに長信はスマホを手に取る。初期デザインからほぼ変わらないホーム画面が自分の顔を反射して映した。ブラウザを開いて、検索窓に織田信長と打ち込み、検索結果から信長の史実を文章で眺める。
内容は膨大で、とても一夜で暗記出来るようなものではなかった。一度目を通すだけでも結構な時間を使いそうだ。試しに織田信長のページに載っている、おそらく織田信長と何らかの関係のある武将を選択してみると、文章量の差は一目瞭然だった。スクロールのバーの長さが目算で三十倍ぐらい違う。
百科事典の内容に目を通し始める。いくつかの信長に関する知識が目を通して頭に入っていく。淡々と時間が過ぎていった。そしてこの信長に関する情報収集は、長信にはあまり意味のないようなものに思えてきた。信長の人物像は段々と固まりはするが、しかし果たしてこれが役に立つかどうかは自信がなかった。
用事は済んだとブラウザを落とそうとする。その時に、関連のリンク項目に目が入る。
――本能寺の変。
長信はつい大きく瞳を開いた。自然と親指は項目をタップしており、ブラウザは該当ページへと遷移する。事件の概要。背景。それぞれの武将の立場。四国、中国問題。死者――
目を皿のようにして長信は記事を読み進める。何故こんなにも感情が逸るのか、長信には分からない。もしかすると、自分の中の信長が、長信を突き動かしているのかもしれなかった。
「あ」
時刻は既に零時を過ぎている。湧いた熱量は、記事を読み終えることで一旦は落ち着いた。合間に時計を見ることすら忘れていた長信は、ふと思い出した。得能から渡されたメモの存在である。
長く開いていたブラウザをようやく閉じ、LINEを開く。友人を追加する項目にてメモのIDを打ち込んだ。一人の人物が表示される。当然、得能だ。何人かの女友達と一緒に映り、満面の笑みを見せたアイコンが表示される。喫茶店で相対した顔と見比べればそれは正反対のものだった。
一瞬、友達を追加する項目を選択するのを長信は躊躇った。ほんの僅かにだが緊張したのだ。昔の得能との関係と、縁の切れた出来事が脳裏をよぎる。だが間もなく親指を曲げて画面を触った。
『動きやすい服装。十時に来て』
「うお」
何かメッセージを送ろうか迷っている間に、得能が先に送ってきた。得能を友達に登録してからまだ十秒も経っていない。長信側から友達に追加したというのに、だ。
少々の驚きを見せる長信に対して、ぽん、と追加でコメントが来る。
『あと顔と腕と脇と足の毛、その日の朝に全部剃って』
……なんで? 長信は今日一番の疑問に訝しんだ。
そして事態は得能の指定した期日である今に至る。
服装や剃毛の件は程なくして合点がいった。つまり得能は長信に男とバレずにソフトボールをやれということらしい。長信は髪の長さこそ嫌でも目立つが、体毛は全体的にうっすらと生えている程度に薄い。除毛作業は特に手間はかからなかった。
当日、むかし着ていたスポーツウェアを着込み、約束の一時間ほど前に寮を出ると、驚いたことに、得能が先に入口で長信を待ち構えていた。
得能の服装は、上はカジュアルな黒字にピンクの横ラインの入ったTシャツに見えたが、細かい網状のデザインを見るに私服ではなくちゃんとした運動用品であるようだ。履いている灰色のタイツは厚く、それだけでパンツの役割を担っているのか、下はタイツのみに見える。白い帽子を被っており、自然と得能の顔には影がかかる。昨日と比べれば威圧感のある装いではなく、スポーツ少女然としている。
対して長信の装いは黒のスポーツタイツの上に、丈の短めな赤いウェアと黒のパンツだ。吸水性、耐久性に優れつつも、着心地はとても軽くて違和感はない。また、タイツが素肌を広く覆う設計上、体は手首から先、それと足首しか肌が見えなくなっている。得能と同様にキャップを被っており、全体的に日照りを嫌った格好ではあるが、得能の服装と比べればカジュアルさがない。
予めタクシーを呼んでいた得能から、ほぼ連行に近い形で長信は運動公園のグラウンドへと共に向かい、そこで今回の催物を知った。というか、本当は運動服と得能との組み合わせの時点で察していた。
得能がこんなことをする意図が読めない以上、長信は予め保険を用意した。潤である。昨夜、潤と連絡を取り、陰から見張りを頼んだのだ。何か事が起きれば助太刀してもらうという心算である。得能の一人で来るようにという話には背くことになるが、ばれて得能、または徳川家康を刺激してしまう事態を加味しても備えは必要だと二人は判断した。
天気は晴れ。日差しは強すぎず、湿気もないので心地がいい。紫外線による髪の痛みを長信は懸念していたので、少し安心する。長信達の頭上に雲はないが、離れたところの空はどうやら違うようだ。雲の足が早ければ、雨が降るかもしれない。
かくして、草野球ならぬ草ソフトボールが始まった。
長信は正直、乗り気ではなかった。得能の友人らしい女性達の中に男一人で混ざっていることも理由の一つだ。しかしそれよりも長信の抵抗を示すのは、野球に近いスポーツであるソフトボールへの参加だった。武将が関係していなかったら、長信はまず間違いなく得能の誘いに乗っていない。
得能とは敵チームとなり、長信のポジションはファースト、打順は五番を与えられた。長信のことを知らない彼女達から見れば、長信は背がとても高い女性だ。そこを見越しての選定なのだろうが、遊びであってもクリーンナップを頼まれるのは荷が重い。何故なら打つ気がまるでないのだから。
一回裏、自チームはまず相手チームの立ち上がりを凌ぎ、得能のマウンドでの動きを長信はベンチから眺める。
得能は右腕を前から縦に素早く一回転させる。同時に足も踏み込んだ。かと思えば直ぐ様ボールがキャッチャーのミット目掛けて吸い込まれていく。一連の流れを捕手の軽快な捕球音が締めた。
なんでもソフトボールの試合の経緯は、二か月ほど前に得能の一声から始まったらしい。
まず得能は数十人に相談して、参加の約束を取り付けた。声をかけられた女性達は全員ソフトボール経験者であり、得能の高校時代の同級生、はたまた得能と試合をした相手、つまりは得能と何らかの関係がある人選だった。とりあえずこれで数十人が集まった。
得能の求心力が発揮された訳だが、その要因は彼女の人柄、美貌というよりも、得能の経歴に惹かれた者が多かったのかもしれない。何せ得能は、高校総体インターハイ、ソフトボールにおいて、二年次、三年次と二年連続優勝投手、高校を優勝に導いた立役者だからだ。得能は世代のヒーローといっても過言ではない。
その上、得能はその外見の華やかさとスタイルの良さを活かしてモデル活動を行っており、加えて長信の大学は、学部毎の差はあるのかもしれないが、それなりの偏差値が必要とされている。大学としての成績は優秀な方と言っていい。つまりは得能もその例に漏れず、勉学も疎かにしない女性なのだ。
超人や女傑。得能を一言で表すなら、そのような言葉が似つかわしい。
ともあれ、そんな得能の元に人が集まった訳だが、それでも試合の出来る人数を満たさなかった。得能が声をかけたメンバーは全員、県内在住の人間だ。そして声をかけていない同級生、同世代の面々は、高校卒業後に進学などで他県へと移った人間だった。得能は遠くから集まるのは難しいだろうと思っており、最初は連絡をしなかった。後ほど人数の事情が明らかになり、遠い彼女らへと連絡をとってみたものの、やはりというか、彼女達は集まることが出来なかった。
あと少し人が揃えば試合になる。そんな時に、得能は一つのことに気づく。得能からしてみれば、全員、得能の知り合い、友人だが、彼女達同士はどうであろうか。話したこともない人もいるだろう。でも類は友を呼ぶというか、彼女達も得能と難なくコミュニケーションをとれる女性ばかりだ。すぐに打ち解け、仲を深めるのは想像に難くない。
拮抗した試合を演出したいが、試合を開催することが最優先だ。そこで得能は、もう少し基準を下げ、手を広げることにしたのだ。例えば中学生までソフトをやっていたり、ソフトではなく野球をやっていた人物だったり。そして野球をやっていた男も、得能の苦肉の策の範疇になったということなのだろう。
「どう? 打てそう? 信ちゃん?」
長信の隣に一人の女性が腰かける。黒いショートボブの髪型の女性だ。頭ひとつ分ほど得能より背は低く、おそらく潤と同程度、つまりは特別、高くも低くもない。
結木葵と名乗ったこの女性から、長信は試合の経緯を先ほど教わった。彼女は得能の高校時代の女房役、つまりは黄金バッテリーの片割れである。得能と葵をそれぞれキャプテンとしてチーム分けを行い、長信は葵に選ばれた。まあ高校時代に頂点をとったペアが丸々チームにいるのはバランスが悪く、自然な配慮といえる。
「いや、どうでしょうね。流石に五番は荷が重いかも」
「たははー! まあでも頑張って! 試合といっても遊びなんだからさ! そんなに緊張しなくていいよ!」
葵は目尻の下がった垂れ目を細めて笑った。快活で常に声に張りがあり、白い長信と比べてば顔色は血色が強く、赤味が色づいている。長信は葵から活力の有り余った人懐っこい犬を連想した。人当たりの良い葵と打ち解けるのに時間は大してかからず、ソフトボール開催の事情も長信は話す流れで聞くことが出来た。
高校時代、得能とバッテリーを組んでいたということは、長信は葵と一緒の高校ということになる。が、葵は長信の正体に気づいていない。そんなことあるか? と思いはしたが、浮かんだ疑問はそのまま自分に返ってくる。長信は得能を除けば、ぱっと思い出せる高校時代の人の名前は、同い年の男性、女性などではなく教師であった。その教師とも長信は別に仲が良かった訳ではない。なので葵の顔に見覚えなんて欠片もなく、そんなことはあった。
そして長信は高校生の頃よりも女性らしい見た目に変わっている。大して関係のなかった葵が長信に気づかないことも、自分を例にすれば納得できた。加えて今の長信の名前は得能のフォローが入って小田信と呼ばれている。流石に長信のまま名乗るのは不自然ということなのだろう。
一回裏はこちらも三者凡退に終わり、二回表のクリーンナップも抑えるに至った。そして二回裏、ツーアウト。点差はなしの零対零。長信の打順が回ってきた。
自チームの応援を受けつつ、長信はバッターボックスに立った。なお主審は人数の関係で攻撃側が行うことになっている。
ここまで長信達のチームはまだランナーを出せてはいない。対して得能のチームは得点こそ生まれてはいないが、ちらほらヒットを生み出していた。決してこちらの投手が弱い訳ではないものの、やはり得能が上手であり流石といったところだ。一番から四番の葵までを三振、または凡打で抑えている。
野球とソフトの違いはあれど、頭を覆うヘルメットの重量は、妙に愛おしく感じる。カーボン製のバットは軽いながらも硬く、グリップを握れば僅かな弾力があった。この素材に長信は慣れてはいなかったが、自然と腕が感覚を思い出した。急に若返ったような気分になり、つい確かめる気持ちで長信は自分の長い髪を触る。野球少年時代、長信は坊主だった。自分の髪の存在は、意識を昔に遡らせた長信を現実へと引き戻す。
右打者の打席に立ち、バットを持つ両腕をほぼ真横に、かつ一直線上に伸ばす。バットのトップが長信の斜め右上、奇麗に四十五度を指した。両腕は手の形を除けば祈るように合わさっている。いわゆる神主打法だ。腕とバットを欠片も動かさずに、代わりに左足を浮かせては地につける動作を繰り返して体の動きをつけ、投球に備える。
やがて得能が姿勢を正し、投球の構えを取る。相も変わらずその眼光は厳しい。
得能は腕を回転させ、持つ球が手から離れたかと思えば、直ぐ様ボールがこちらへと飛んでくる。下投げで放られたボールは、しゅるるるる――と鮮やかな回転音を立ててミットへと吸い込まれた。ストライク。球審が声を張る。
先ほどから得能の投球を眺めてはいたが、打席に立って野球との違いを実感する。ソフトボールはマウンドの盛り上がりがないので、球の軌道は野球と比較して平行だ。それに幾分か投手と捕手間の距離が近いのか、球速は男性の上投げよりも遅いはずだが、体感速度の差をそう感じない。
なるほどね、と長信は理解を深めた。二球目も眺め、三、四、五球目はストライクにならなかった。得能は今回やけに時間をかけており、今日、初のフルカウントとなる。そして六球目。
得能の腕が回り、手から球が離れた音が聞こえる。放られた球の軌道は左下、内角低めだ。投げにくく、かつ打ちにくいところを得能は狙ってきた。厳しいコースではあったが、ストライクになる――
長信は頭よりも腕よりも先に足が動いた。腕をほぼ伸ばし切ったフォームの長信に対して、インコースはどうしても打ち辛い球だ。なぜならインに球を放られた場合、バットとの距離が一番遠く離れてしまうからだ。打とうとするとわざわざ肘も畳まなくてはならず、結果、得能は最高のコースを突けたといえる。
が、読み合いは長信の勝利となった。長信は左にステップを踏んだのだ。地味で短い動きではあったが、自然過ぎる鮮やかな足さばきだ。一朝一夕で出来るようになったものではない。
これにより、得能がインコースを攻めた効力はなくなった。内角低めを目がけた軌道に対して、長信は掬い上げるようにバットを振るおうとしたが――何かが止めた。
球が捕手のミットへと収まる。球審の声を聞くまでもない。長信はアウトとなった。
長信は内心、驚いていたが、すぐに冷静になった。より精確に言えば、真面目に投手の球を打とうとしている自分に気が付き、バットを振り切ろうとする手を止めたのだ。一度きっぱりと諦めた野球に対して再び熱が入っている自分を自覚して、気持ちを鎮める。
得能は遠目で呆けたような顔をしていたが、次第に見慣れた睨む目つきを取り戻した。曲がりなりにも五番というクリーンナップを抑えた表情ではない。怒った顔をされても長信は困るしかなかった。
「葵、ちょっと信、借りるからね」
三回裏が終わり、得能と葵は話し合いの末、休憩が間に入った。ソフトは野球とは違って七回までらしく、その中間地点を迎えた頃合いといえる。得能などの現役選手はともかく、この場にはスポーツから数年はなれている人も少なからずいるので、そのための配慮とのことだった。しかし攻守交代制のソフトでそこまでする必要があるかと言われれば、どうなのだろうか。正直、長信は隙間の時間で事足りるような気もしたし、守備を務める上でも疲労はさほど溜まっていない。女性陣は案外、違うということなのだろうか。
そんな考えでベンチに座っていると、得能がこちらにやってきた。
「うん、香梨奈、どうぞ~!」
ひらひらと葵が手の平を振り、得能と長信を見送る。タクシーで連れられてから今まで、長信が話しかけても得能は無反応だった。その得能からのアクションが入り、警戒心が湧いて来る。しかしこれは得能の意図を探るチャンスともいえた。
得能の背中をついていき、二人は運動公園の中央管理事務所の裏手で足を止めた。事務所ではグラウンドや器具を有料で貸し出す受付を行っている。長信の履くやや年期を感じさせるスパイクなどもこの事務所から借りたものだ。
事務所裏は空きスペースとしては狭い。何か目的あっての設計はされていないように見える。事務所の横から入れはするものの、辺りがフェンスで覆われており、キャッチボールすら窮屈でまともに出来そうにもない。
得能が足を止め、長信を振り返る。未だ彼女の瞳はファミレスの頃から変わらず鋭い。
「打てたでしょ、あたしの球」
得能の怒りの矛先は、今は長信のバッティングにあるようだった。
「お前はインターハイ優勝投手かつ現役。それで俺は中学で野球を辞めた男だぞ? 打てると思うか?」
「打てるわよ」
得能の言葉に、長信は声を詰まらせた。得能の切れた大きな瞳が、長信の目を射抜くように見つめる。男女の差、野球とソフトボールの違い、経験の長短など、思うところはあるはずだ。それら全てひっくるめて、得能は打てると長信に言っている。それだけは長信にも分かる。
「あんたにその気がないだけ。真面目にやる気ある?」
「真面目って、お前……」
「いや、違うわね」
唐突だった。得能は肘を軽く曲げ、腕を前に出していた。彼女の両手は手の平同士が向かい合っており、その間の十センチ程度の空間に光が宿る。
長信の直感が告げる。得能は能力を使おうとしている。彼女の気配が色濃いものになっていくのを肌で感じた。
「長信さん!」
長信の後ろから声がした。見れば制服姿の潤が立っている。得能の能力の反応を感じ取り、長信を守るために飛び出してきたのだろう。
得能と潤の目があった。互いに真剣な顔つきだったが、次第に得能が生み出す光は収束し、その手には何もなかった。おそらく能力の使用を中断したのだろう。
「真面目にやんなさいよ。先、戻ってるから」
得能は話すことがなくなったとでもいうように、長信と潤の横を抜けてグランドに戻ろうとする。
「あ、おい」
長信の呼びかけは耳に入っていないようで、得能はそのまま一人、事務所横を抜けていった。
「長信さん。大丈夫ですか?」
「……ああ、何ともない。助かったよ」
得能の呼び出しは、長信にソフトを真剣にやるよう注意するだけのものだったが、その意図がどうにも読めない。
「あの、長信さん」
「ん?」
潤が何か言いたげにしていたので、長信は耳を傾ける。
「長信さんは、昔に得能さんと喧嘩して、それで離れてしまったと聞いています。それにもしかして、野球が関係していたりしますか?」
長信は不思議な気持ちになった。潤は長信の姉のことを知っているので、長信の他の過去の事情も把握しているものだと思っていた。なので潤がこんなことを尋ねてくるのは意外だった。
「そうだよ」
「なら……」
潤は長信を下から真剣な眼差しで見上げてくる。
「戦いに勝てば、過去に戻ることが出来ます。例えば、昔あったこともなかったことにできます。ぜんぶ――ぜんぶ、やり直せます!」
潤の言いたいことを長信は察する。つまりは得能とこうなってしまった出来事自体をなくせるということだ。
「なら! 今、好きなことをしてもいいはずです。戦いに勝つんですもの。その間くらい、好きにしちゃっていいと思います!」
なるほどな、と長信は小さく呟く。
潤の言葉に、長信は視界が晴れたような気分になった。
長信は野球に対してどのような感情を向けるべきか迷いがあった。中学二年生の頃の事件が今でも脳裏に残っている。しかし長信の体は、打席に立つと自然と打者の動きをとった。つまりは長信の本意を、長信の体が一番分かっている。昔を言い訳にして不貞腐れているだけなのだ。
右肩を少々乱暴にぐるっと一回転させる。痛みはまるで感じない。
「潤、ありがとな。続けてまた得能に気をつけてくれ」
はい、と潤からの返事を聞いて、潤とはそのまま別れる。
潤の後押しを受けて、長信の気持ちは決まった。
事務所横を抜けて得能と同じように自チームのベンチへと戻る。
「おかえりー!」
長信の帰りを葵が朗らかに迎えてくれた。遅れました、と何気なく返す。
「葵さん」
「ん? なにかね?」
「次は、打とうと思います」
思えば打つのを躊躇うなんて失礼なことをしてしまったと、長信は自分の身を振り返る。失態を取り返す気持ちが湧き、つい隣の少女に向けて出た。
葵はぽかんと口を開いたが、すぐさま笑みを見せて、ぶつかる勢いで長信と肩を組む。女性特有の甘い匂いが鼻をくすぐる。
「んじゃあ、いっちょやったりますか!」
葵の一声に、チームが黄色い活気をもって応えた。女性陣の温度感に長信は少しついていけなかったが、居心地は悪くはなかった。
かくして、試合再開。
両チームの打線は一巡経過し、点差は変わらずお互い無得点のまま。試合は投手戦となり、打者がどう切り崩すかという様相を呈していた。両チームともヒット性の当たりを見せ始めてはいるが、いまいち点までには繋がらず、歯がゆい展開と凌ぐ場面を行き来する。
ここで得能が一手、仕掛けに入った。得能の先ほどまでの持ち球はストレート系を除けばシュートのみだ。それにドロップなる変化球が加わった。当たり始めたバットを嫌い、得能もギアを上げたということなのだろう。長信達はただでさえ攻略出来ていない得能のチームに対して苦しい状況が続く。
五回、裏。ノーアウト。三番からの攻撃。点差は最初から変わらず、零対零。
「いよいよ香梨奈も本気になったって感じだね」
自チームのベンチにて、傍らの葵が呟き、長信は頷く。葵は元、得能の女房役だ。得能の変化球に関しては把握しており、あらかじめメンバーにも周知していた。なのでこのタイミングの変化球の追加は効果こそあったが、驚きこそ少ない。しかしひとつまたこちらが不利になったのは事実だ。
今は長信のチームの攻撃だ。女性陣はベンチ側から仲間の攻撃にぽつぽつと声援をかけている。だんまりでは浮いてしまうと考え、長信もたまに混じって声を出した。
「信ちゃんは香梨奈とは何繋がりちゃんなの?」
つい長信は上げていた声を止めてしまった。葵は人懐こく、それでいて活気があって調子のいいムードメーカーだ。話の達者な女性陣の中でも抜群に打ち解けるのが上手く、一時とはいえキャプテンを担っているのは伊達ではない。
「あ、もしかして、何かあれ?」
いいづらいこと? と暗に続くようだった。長信は善良な葵に気を遣わせることが少し申し訳なかったため、いいや、と返す。そして話さないことは葵の重石になりそうな気がした。
「そもそも、得能を野球に誘ったのはお――私なんです」
俺、と言いかけて、早口で言い直す。
「へえ、そうなの!?」
「ええ」
長信は幼少時代、物静かで大人しく、内向的といえる子供であった。親からすれば手間のかからない子ではあったが、子供らしい無茶や駄々をこねる愛嬌がなかった。反対に、長信の二つ上の姉、詩菜は快活で好奇心旺盛を絵にかいた少女だった。
何が欲しい? と両親から聞かれれば、姉は無限に口から言葉が出たので、笑う両親にひとつだけと窘められてしまう。逆に長信は、何もいらない、お母さんの料理とケーキがいいと返した。これでは姉と弟、どちらが年上なのか分からない。小田家は比較的裕福で、長信の両親は愛情をもって娘、息子達と接していた。だからこそ、長信の子供らしいとはいえない淡泊すぎる性格を不安に思っていたのかもしれない。
そんな時に、優が現れた。正しくは優とその親だ。なんでも幼い子供のいる家庭に少年野球クラブの誘いを行っているらしい。
「やろう! やろうやろうやろう!」
小さい頃の優はこんな奴だ。自分の我を通すために強引で、子供らしい無茶なわがままを平気で言う。優はもともと野球に触れていたようだが、長信は野球に興味はなく、乗り気ではなかった。しかし両親は長信に話を薦めた。人との繋がりが広がれば、長信のこの変に大人びた質は年相応なものに変わるのかもしれない――そのような思惑が読み取れた。また、長信は自己主張のない子供ではあったが、幼いながら両親の手伝いなどを積極的に行うような素直さ、善良さがあった。なので父、母の提案を断ることは悪い気がした。
かくして長信は優とともに少年野球チームに入団した。練習のある日にはグラウンドまでは両親が送り迎えすることとなり、小学一年生より長信の野球ライフが始まる。
長信は真面目だった。野球に興味はないが、両親はお金を払って自分をクラブに入れ、そして道具ももう買ってしまっている。であれば、適当にやってしまうのは勿体なく、金の無駄だ。長信の考えは両親の知るところではなかったが、こうして長信は優とともに野球の練習を熱心に行うようになった。
一年、二年、三年――月日をかけて長信の心境は変化する。丹念に費やした時間はかけがえのないものとなり、いつしか長信は野球に夢中になった。長信よりも前に野球に触れていた優とは、長信がピッチャー、優がキャッチャーを担い、気の置けない仲、親友と呼べる関係になった。こうして長信の両親の狙いは功を奏して、長信は根本的な性格こそ変わらなかったが、数年前と比べれば、こと野球の経験を経て熱中する質を得た。
こうして長信に熱が宿るが、ちょっとした問題があった。それは野球に触れる時間の少なさだ。何もクラブの練習は学校が終わって毎日開催されている訳ではない。優と練習が出来れば良かったのだが、お互いの家は少々遠く、子供の身では気軽にはいけない。
そんな時、長信は隣の家にて、一人の少女の姿が目に入った――
「野球が好きになった。けれど出来る時間が少なく、一人で壁当てをやるのも面白くない。そう思った時に、隣の家に同い年くらいの女の子を見つけました。いや、本当は以前から知ってはいたんです、同じ小学校の女の子だったんで」
「それ、もしかして」
「ええ、得能ですね。捕まえて泣かせて無理やりキャッチボールをやらせました」
「やばー!」
葵がケタケタと朗らかに笑う。
この事実は本当は少々語弊があった。幼い頃の得能は気弱で泣き虫だった。男子が軽くちょっかいをかければすぐにぐずり出すような女の子だった。長信が泣かせたと言われればそれは間違いないが、今の性格からはとても想像が出来ないほどに得能はとても打たれ弱かった。
当時の長信も頭の片隅に得能のことを覚えていたが、しかしそんなものを飛び越えて、長信の野球への熱意は彼女を矛先とした。
「最初はもう、そりゃ上手くいかなかった。グローブのつけ方が分からないから泣く。グローブが臭いから泣く。ボールが投げられないから泣く……子供の頃ながら、大人になった気分で大変でしたね」
しかし得能の両親は、愛娘を強引に付き合わせる長信を止めはしなかった。当時の長信には分からなかったが、今なら思うところがある。得能の両親は、得能に少しでもいいから気を強くして欲しかったのだろう。それは変化の内容こそ違うが、長信が両親から受けた野球の薦めと似ているように思う。
一週間、十日、二十日、一か月。長信はクラブの練習がない日、得能の家にいってキャッチボールに付き合わせた。得能は当然、嫌々だった。得能がやる前から泣くことなんてざらにあった。そんな彼女を子供ながら丁寧にフォローしたのは長信であり、そして長信と目的が一致した得能の両親だった。
月日の経過に伴い、得能の様子も少しずつ変わっていった。涙を流しながら嫌そうな顔のまま、投げられたボールを逸らしてしまったので追いかける――そんな彼女の様子は時間をかけて次第に少なくなっていく。
いつしか得能が球を受けて返球出来る頃には、長信は得能の泣き顔を最近見ていないなと思うようになった。
「なので得能をクラブに誘いまして。結構迷った感じでしたが、来てくれましたね」
「それで、一緒に野球するようになったんだ、香梨奈」
得能と一緒に野球をしたかと言われれば、半々といった形だった。そもそも野球クラブは男女に分かれていたので、自然と集団が別になったのだ。なので練習も必然、性別毎のものになる。
得能は女の子の集まりの中でもだいぶ気弱な方だったので、打ち解けるのには時間がかかったようだった。だが周りに悪い子供はいなかったのだろう、いつしか長信の関係のないところでも得能に笑顔が見られ始めた。しかし合間を縫って、得能は長信を練習相手によく誘ってきた。
長信は、優との野球チーム、それに得能の相手をするようになった。
やがて年月が過ぎ、転機が訪れる。
「得能とはまあ家も近かったし、お互い受験とかもなかったので、同じ中学に入りました。だけど私は長く野球をやっていたからクラブで野球がしたくて、でも得能にはソフトボールをしてもらいたくて」
男女の性別を考えればそれは自然なことなのだが、長信はそこだけはぼかしつつ脚色する。葵からしてみれば長信は女性に映っているので、長信はなぜソフトボールをやらないのか、という話になってしまうからだ。
「へえ。香梨奈はそれ言われて、どうだったの?」
「結構、迷ったみたいですね。でも最終的にはソフトをやるって言ってくれました」
これが長信には嬉しかった。野球をする女子をマイノリティ、少数派と揶揄するわけではないが、やはり女子が行うスポーツとして、野球よりもソフトの方が一般的であり人口も多い。得能にはより多くの人に揉まれ、評価される経験をして欲しかった。これは得能が長信との野球関係ではなく、自分の進みたい道としてソフトを選んでくれたという事実に他ならない。
必然的に、長信と得能が交流する時間は減った。しかしそれは野球友達から野球の文字がなくなっただけのことであり、校内では仲の良い関係であったように思う。本当にたまに、時間が合えば小学生の時と同じようにボールを投げ合うこともあったし、何なら遊びに付き合わされた覚えもある。
しかし、中学二年の時。事件が起こった。長信を悲劇が襲った。その内のひとつが――
「ただ、私は中二の頃にちょっと肩をやっちゃってですね。野球、やめちゃいました。それから得能とも離れちゃいましたね」
ちょっと肩をやった、というのは微塵も適していない。球を投げられない。リハビリが必要。元通りになる保証はなく、どれだけ時間がかかるかも分からない――当時の医者の言葉は確か、そんなものだった。
全部、それは長信の自業自得だった。培ってきた野球への情熱はとどまるところを知らなかった。気持ちは練習の濃度、量として反映される。長信の熱量を受けてくれたのは、何を隠そう、長信を野球の道に誘ってくれた優だった。互いが互いを高め合い――そして長信の体だけが悲鳴を上げた。
これだけではなく、別の事件が長信を襲った。かくして長信は見る影もない陰鬱な姿に変わってしまった。今も思い返せば心の中に僅かな闇が生まれてくる。しかし長年の月日が、痛みや苦しみを曖昧にしてくれた。
だが、中学の頃の長信はそうではない。拠り所であった野球が出来なくなったのだ。長信にとって野球とは投手だ。投手が出来ないということは、野球は出来ないことと同じである。
当然、長信はリハビリを始めた。最初はいつか必ず元に戻すという前向きな気持ちもあった。優も足繁く長信の元へと通い、手伝ってくれた。だが、ひと月、ふた月と経過しても、長信の肩の痛みはなくならない。
綯い交ぜになった黒い感情が弾け、長信は人生で初めて癇癪を起こした。身の不幸を嘆き、呪った。八つ当たりに殺意が籠った。優はそんな長信を宥め、抑えてくれていたのだが、いつしか優の姿は見かけなくなった。手に負えないと優は思い至り、長信を見限って離れたのだろう。きっと自分は酷い言葉を優にかけたのだと思う。あの時に別れ、そして再会した優は今や優秀な野球選手だ。先輩と比較しても全く引けを取らず、プロ入りの声も上がっているという。むしろなぜあそこまで明らかに日本人離れした体つきをしているというのに、高校を卒業してそのまま球団に入れなかったのかが不思議でならない。
そして得能も優のように、長信のフォローをしてくれたのにも関わらず、当本人からどす黒い感情を向けられた。覚えている光景は、得能が長信の見舞いに来て、長信は得能を、今の得能よりも鋭く、殺意の籠った視線を向けて、得能を突き放す言葉を口にする。その後、得能が小学生の頃のような涙を流し、去っていく姿だった――
「……肩、今、どうなの?」
葵が長信の右肩を撫でるように触れる。まるで愛撫するかのような柔らかくて優しい手つきだ。だいぶ深刻さをなくし、上辺だけを話したつもりだったが、葵には内心を気取られてしまったのかもしれない。
「こんなんです」
ぐるんぐるんと長信は右肩を回す。あの頃、いっそ千切れてなくなってしまえとすら思った長信の右肩は、今はこの調子だった。リハビリは長期に渡り、高校生活にまで及んだが、完治したといって問題はなかった。思いっきり球を投げたとしても、肩に痛みは生まれない。医者からも太鼓判を押されている。
野球の情熱を失った長信は、昔の淡泊さを取り戻すに至った。若者らしくない性格を再び得た長信は、現実を見て勉強と、中学生からどうしても金銭を得たくてパチンコを学び、パチンコ屋に通うようになった。
良い大学に入りたいという渇望ではなく、それは漠然とした行動であり、もしかしたら手慰みに近い行動なのかもしれない。また、長らく坊主だった髪は、今までと反するように伸ばすようになった。
「なら、いいのかな?」
心配した顔を向ける葵に、長信は申し訳なく思う。聞かれたから話しただけで、もう過ぎたことだ。長信ももう一九歳であり、子供ではない。六年前のことを引きずっていないといえば嘘になるが、かといって昔の気持ちをぶり返して取り乱すほど、年月の経過は短くない。
「良いですよ、全然」
「……うん、じゃあ香梨奈ちゃん攻略だよ! 一緒に落とそうね!」
落としてしまうんだ、と長信は思ったが、おそらく言葉の綾なのだろう。長信は意味を無視して頷く。
「まあ、目下、香梨奈ちゃんから打てない理由は、ドロップとシュートのせいだねぇ。ドロップは投げないのかなって思って見てたんだけど、投げてきちゃったし」
「あの、知らなくって申し訳ないんですけど、ドロップってどんな球なんですか?」
シュートは分かる。おそらく野球と同じものなのだろう。何せ長信の投手時代の変化球は、シュート、フォークだ。スライダーも練習中だったが、モノになる前に野球を辞めてしまった。
えっとね、と葵は言葉を区切る。身振り手振りも交えて葵は説明してくれた。
「まあ、厳密にいえばドロップにもいくつか種類があるんだけど、一緒なのは下向きの変化球っていうとこだね。チェンジアップ的なものもあるけど、香梨奈ちゃんのはストレート寄りの、速度重視で最後にストンって落ちるタイプ」
野球でいえばフォークに近いよ、と葵は説明を締め括り、立ち上がる。打者が三振してしまい、ネクストバッターサークルに向かったのだ。
得能の球種はシュート、ドロップ。長信の投手時代の球種はシュートとフォーク。そしてソフトボールでいうドロップとは、野球で例えるとフォークであるらしい。
偶然かもしれない。しかし、そうじゃないかもしれない。思い当たる節もあり、そのまま遠くにある得能の横姿を見つめる。得能の巻かれた髪は帽子で潰されている。後ろは軽く結われていて、円を描くような投球の動きに合わせて馬の尾のように揺れた。
長信のチームの三番打者は得能の球を弱く打ち上げてしまう。難なく内野のグローブへと収まる。
葵と同じようにサークルへと足を進める。葵が打席に立ち、二回目の黄金バッテリー対決となり、今回の対決を制したのは葵だった。落ちる球を引っ張り、打球はレフト前へと鋭く刺さった。葵は拳を突き上げ、向日葵のような満面の笑みを見せる。香梨奈はやられた、と葵を見つめるが、悔しさよりも笑みが漏れてしまっている。だが、やはり長信が打席に立つと、その表情が別人のように引き締まった。
ワンアウト、ランナーは二塁。得点のチャンス。これをものにすれば一歩、勝利へと近づける。
得能はストレート主体だった一打席目とは異なり、シュートとドロップを織り交ぜてきた。あらかじめ多様していたストレートも頻度こそ減ったが、こないと思った時に限って放ってくる。慣れない軌道と投球角度は狙いを絞るのが難しい。葵のように上手くヒット性の当たりを生み出すのは困難に思えた。
ならばと長信は的を絞るように誘導させる。得能の放られた球を、長信はカットすることにした。ファールが増え、打球は前へと飛ばないが、打ち取ることも三振を奪えもしない。釣り球はある程度予測して見極める。時間をかける長信と得能の動きは、必然的に再び全てのカウントを埋めた。
六球目は内角低めのドロップ。これは当ててファールとなった。七球目はシュート、同じく内角低めだが、ボール球であったため見送る。直前の八球目はストレート、三度目の内角低めは再びカットして、次は九球目。
互いのチームの声援が耳に入る。適度な緊張感が、長信に打たなければと使命感を募らせ、腕とバットに力を込めさせる。変化球もストレートもカットした。得能は球を念入りに内角低めに集めている。外角高めに放れば一番虚を突けるであろうが、打者であればその程度は織り込み済みだ。むしろ腕の伸びやすい外角に放ってくれれば、打ちやすい位置で捉えられる可能性も大きい。
長信は得能との読み合いを次で終わらせる気でいた。自身の有利を自覚するが、何故だろうか、得能が笑ったように見えた。
得能が投球モーションに入る。その姿には打たれる緊張感がまるでない。自信、余裕、絶対感。球が得能の手から離れるまでに、長信は思わず呟いた。
「香梨奈、お前、スライダー投げたりしねえよな」
下の名前で呼んだのは無意識だった。長信は得能のことを中学二年生まで香梨奈と呼んでいたが、そのことを忘れている。いま自分で呟いた言葉も聞こえていない。
かくして球が放られた。回転音がどんどん近づいてくる。長信は迫る丸鋸を想像した。位置は外角高め、感覚の虚をつくものの、ミート自体はしやすいコース。迷いを抱いたが、狙い通りの位置に来た。
バットは十分なスイングスピードを帯びている。ストレート、シュートであればミート出来る。外角高めで得能は打ち取ろうとしているのだから、高さを生かすのであればドロップはない。
球は、ストライクゾーンから外れた。長信を嫌うように横へと曲がったのだ。
思ったよりもカーボンの鈍い音がグラウンドに響く。打球は鋭くセカンドの頭上を越えた。長信は読み合いで完全に敗北した。ドロップに引き続き、今試合初の変化球となるスライダーを、ストライクゾーンから逃れる軌道で放られたのだ。しかし本能、筋肉が空振りをどうしても認めなかった。長信はミートの直前、止められないバットを右手のみで振るった。
打球はレフトとセンターの間へと向かっている。ほぼ片手ながら、スライダーを上手く打ち流せたといっていい。長信の足は直ぐに一塁を目指して躍動した。外野は後方を見ており、つまり打球はフェンス近くまで運ばれている。長信はダブルベース――野球にはない、ソフトボールにのみ存在する一塁に隣接したベースを蹴った。蹴り上げた土が靴の隙間から僅かに入り込む。
やがて、どうやらライトが打球の捕球に至った。セカンドが中継として構えている。長信の足先には二塁があった。
――が、それも蹴る。守備陣の虚を突けたのかは分からないが、こういうのは迷った瞬間、もう終わりである。あとは三塁手の動きを見て状況を判断するしかない。
土を何度か蹴り上げた後、長信の足の動きが変わった。足先から滑り込むような動きで三塁に侵入する。サードがまだ捕球していないことから、長信は成功の確信を得た。
ざさぁ、と長信がスライディングする。その後に上から三塁手の捕球音が鳴った。あと一歩遅ければ捕まっていたかもしれない。逆に言えば、迷いなく攻めた長信の勝利だった。
突然の三塁打と加点に歓声が湧く。長信は下半身の土を払い、立ち上がった。自チームのメンバーへ向けて、驚くほど自然にガッツポーズが出た。
葵と得能のバッテリーは高校三年生で終わっている。そして長信と得能は大学二年生であり、得能は部活動に入っている。つまり現役の選手だ。大学一年目の四月から数えたとして、それだけあれば変化球の一つくらい覚えたとしてもおかしくはない。
長信は得能の方を見つめる。ここで初めて長信は得能に笑って見せた。どうよ、とでも言うようであった。しかしやはりというか、得能の視線は相変わらず長信にだけ冷たく、睨みつけるようであった。いい加減、得能の本心を知る必要があるなと、長信は心に決めた。
だが長信は残塁に終わる。こればっかりは野球の常。誰が悪いわけでもないのでしょうがない。
攻守が再び巡り、七回表がやってきた。球種を更に増やした得能相手に、長信達は五回で一点をもぎ取ったものの、以降はついに六回を迎えても打ち崩すことは叶わなかった。それに対して得能のチームも挽回の気概を見せるが、こちらも健闘して相手陣営の攻撃をなんとか食い止めている。一点のリードを得ているものの、勢いは攻守共に得能のチームに分があるのが見て取れた。
ツーアウトの状態で九番の得能に打席が回る。ここまで得能は二本のヒットを放っている。元々好打者の気質があるのだろう。しかしただでさえ投手という華を持っているからか、他のメンバーに遠慮した形ゆえの打順なのかもしれない。
得能がバットを振るう。サード、ショート間を抜けそうな打球だったが、ショートの動きが光り、グローブで球を叩いて球威を殺した。捕球は叶わずとも上出来といえる。
長信の視界、左側から迫る人影があった。得能だ。ちらりと見た彼女の顔つきに、長信は鬼気迫るものを感じた。是が非でも、例え死んでも塁に出る。口にせずとも長信にはその意思が伝わった。
ショートが捕球を終え、こちらに送球してくる。受け取った球を掴んだグローブで得能に触れようとしたが、得能が頭から突っ込んできた。まじかよ、と口には出さずに呟く。
得能が橙色のダブルベースに触れるのと、長信が得能の体に触れるのはほぼ同時だった。審判役はセーフと声を上げる。
立ち上がった得能の前身は茶に塗れていた。ある程度は胸、腹、太腿の土を払って落とすものの、地の色が微妙に残ってしまっている。
チームを問わず、何人かが得能の周りに集まった。大丈夫、大丈夫、と得能は笑って彼女達を帰す。確かに目に見えるような怪我は見えないようだが、得能も女性だ。それを心配して人が寄ってきたのだろう。
人だかりが得能の言葉を聞いて散っていく。プレーが再開され、意を決して長信は得能に声をかける。
「大丈夫か?」
しかし得能は変わらずだんまりを決め込んだ。打者に視線を向けたまま、長信の方を見ようともしない。相も変わらず取り付く島もなかったが、それでは関係は変わらないままだ。幸いにも得能との距離は近く、ここまで並んでいられるのは試合中では今ぐらいなものだろう。
長信は得能の横顔、ついで視線を下げていく。昔の棒のような体形と比べれば、格段に女性らしく、凹凸の顕著さが見て取れる。それでいて張りが見えるのは内包した筋肉によるものだろうか。部活とモデルをやっているだけのことはあり、しなやかな肢体にはか弱さが見られない。
困った長信は最終手段に出た。柄ではないし、興味もないが、得能のリアクションがない今のままでは埒が明かない。
長信は得能の後ろに構える。ソフトではいわゆる野球でいうリードが許されない。なのでランナーは必然、塁を踏んだまま動けないことになる。ちらりと得能の膨らんだ胸を見た。
長信の思いつくその手段とは、セクハラだった。
「揉むぞ」
「ヴん!?」
得能が飛び上がった。今日初めて見る反応だ。なんというか、おっさんのような奇声だった。思ってもいなかった声が得能から出たので、長信の方もびっくりした。
なにー? と幾人かが遠くから声を出すが、なんでもないー、と得能は手を振った。しかし長信の前では猫を被らず、声色を元に戻す。
「あ、あ、あ、あ、あんたねえ……」
「どこをとはいってない。腰かもしれないぞ?」
「いや、腰でも駄目に決まってんでしょ!」
「ってことは、お前は胸で考えてたんだな。エロくなったな、お前」
「誰が――!」
「ようやくちゃんと話してくれた」
はっと得能は顔を引き攣らせた。驚き、怒りが混ざり合っているのだろう、視線を多方向へと動かし、首を左右に頻りに曲げた。やがて観念した、とでもいうかのように、長い溜め息をついた。
「で、何?」
で、何。得能はようやく、長信の言葉に耳を傾ける気になったということだ。この機会を不意にするわけにはいかない。長信は頭を捻った。一塁にいる得能の時間はそこまで長くはない。進塁するかもしれないし、攻撃が終わるかもしれない。
要点は、これだと思った。思い上がりかもしれないが、勇気を出して告げる。
「中二の頃、お前を突き放して、拒否したこと」
得能の目が近い。大きく眼力のある瞳に飲み込まれそうな錯覚を覚える。
「ごめん」
長信は得能から目を離さなかった。緊張はしていない。しかし、得能の瞳から彼女の考えは読めなかった。
やがて、得能の口が開く。
「十点」
え? と長信は声が出た。言葉の意味が分からなった。疑問を長信が口にする前に、先に長信の意図を得能が汲み取り、口にする。
「百点が満点だったら、今のは十点」
きいん、と音が響く。二人は反射的に打球音の方を向き、次いで守備の顔の向きを辿って打球を目で追う。打球は左方向へと飛んでおり、レフト前に落ちるようだった。長信よりも先に得能が反応して走り出す。
待て、と言おうとするが、この場面で待つ選手はこの世にいない。得能の進塁に合わせて長信の隣には別の女性がやってきた。
消化不良のまま、得能への謎は更に深まった。中学生の頃の拒絶、その謝罪が十点。長信はこれが答えだと思った。人生でここまでの赤点を食らったのは初めてかもしれない。一歩前進したかと思えば二歩押し戻されたような気分だ。相も変わらず、長信には得能の意思、意図が読めないままだった。
空を見上げる。日差しの眩しさは気づけばそんなに強くはない。長信達の頭上には雲が差し掛かろうとしていた。
ツーアウトの状態ながら、得能は後続が援護を成して本塁へと帰還した。これで一対一の同点。それ以上の追加点は何とか阻止し、再び攻守を交替する。配置についた際に、空からそっと小雨が降ってきた。周りもそれに気づいたようだ。
得能と葵が互いに駆け寄り、話し合っている。一言、二言、言葉を交わしただろうか、やり取りを終えた葵がチームの方に走って戻ってきた。
「まあ、今日もしかしたら降るかもっていう話でもあったし、無理いって集まってもらったから、後に予定のある子もいると思う。だから雨が酷くなったら残念だけど、どんな状態でも途中終了、延長ナシってことで。よろしくね!」
はーい、と声が重なって葵に返事をする。長信も合わせた。
打順の近い者の準備が機敏になる。それは長信も他人事ではなかった。打順の始まりは二番からだ。五番の長信に回ってくる可能性は、得能が相手とはいえ十分にある。
二番は打球を引っかけてしまいサードゴロ、三番は三振。そして四番の葵に打順が回ってきた。
三度目のバッテリー対決。得能が球を放り、葵の金属が呻りを上げる。
葵の口から気合の入った声が聞こえた気がした。おそらく聞き間違いではない。打球は流し打ちの形となって、センター、ライト間を強襲する。
葵が回すように足を動かす。一塁、そして二塁を何気なく蹴った。長信は身震いを隠せなかった。雨のせいではなく、葵の心臓の強さにだ。状況はツーアウトである。二塁打でも十分なのに、より勝利へと近い道を、葵はリスクを抱えて狙った。
葵は三塁へと到達した。送球は際どく、しかし確実に葵が三塁に触れた後に届いた。葵のチームメンバーが声を上げない訳がない。長信も同じだった。
ということは、だ。長信は首の骨を鳴らし、バットを持ってサークルから出てボックスに入る。今日一番の打ちどころが訪れた。
得能の顔を見る。いつになく真剣な表情で、怒っているようには見えない。長信を睨む余裕がないのだろう。私怨の色はなりを潜めている気がした。ここで邪魔な感情を投球に込める投手であれば、おそらくインターハイで優勝など出来はしない。
長信は空に向けて斜めにバットを向け、腕を地面と平行にしっかりと伸ばす。初めて出会った女性ばかりだ。男の長信がこの場にいることは本来おかしなことなのだが、チームという括りは長信に一体感を抱かせる。おそらく長信は、彼女達と話す機会は今日をもってないのだろう。だとしても、葵や彼女達のために自分が決めたい――想いがグリップを強く締め付けさせる。
しかし得能が投球フォームに入ることはなかった。得能は空を見上げる。
バケツをひっくり返したような、とはこのことだ。太く隙間を感じさせない雨粒が全員を襲う。しっかりと真上を見上げるのは目に雨粒が入るので難しい。長信達は以後の展開を察しつつも、一旦はベンチに戻る。やがて傘を差した香梨奈がこちらのベンチへとやってきた。
「まあ、こんな結果になっちゃったけど。ここで終了。みんな、本当にありがとうね、集まってくれて」
「香梨奈~!」
得能と葵がひしっと抱きしめ合った。大袈裟な気がしないでもないが、長信には女性の気持ちが分からないので何も言わなかった。得能は他メンバーとも最後の別れのように抱きしめ合う。
何とも歯がゆい場面で中止となってしまったが、あらかじめ決めていたことだ。長信も特に文句はなかった。むしろ今日、誘ってくれた得能に感謝したいくらいだった。
「あ、それと。あんたは残ってて」
長信は得能に指を指される。思ってもいない展開だったが、得能の表情は何時になく真剣なものだった。
「おう」
短く返事をする。事が進みそうな、そんな予感がした。
得能は再び傘を差し、自身のチームのベンチへと戻っていった。遠くからは先ほどと同じく、抱きしめ合う光景が見える。
「香梨奈、何する気なんだろうね、長信君?」
「うん……うん!?」
いつしか周りから物音が消え失せていた。葵を除き、撤収作業をもう終えたのだろう。しかし身の回りの私物だけである。ベースなどはそのままだった。
呆けたように長信は葵を見つめる。葵はしし、とにやけていた。その笑みは愛らしくもどこか嫌らしい。
「気づいていないと思った?」
隠し通せたつもり? とでも言いたげだった。長信はもう頷くしかない。
「まあ、ぶっちゃけ気づいたのは途中からで、最初は分からなかったしね。まさかこんな、女の子にしか見えない子が長信君だなんて。変わったよね、なんか全部。でもま、同じ高校だしね」
「そりゃ、まあ、そうだよな」
「とかいうけど、ウチらと同じ高校のソフト部の子、いたけど気づいてなかったよ?」
「どっちなんだよ」
ははは、と葵は長信の隣に音を立てずに腰を下ろした。水気に交じって葵の匂いが鼻先をくすぐる。
「香梨奈ちゃんね、ソフト部やめるみたい」
は? と短い声が出た。葵はちらりと長信を見て、続ける。
「香梨奈ちゃん、芸能科の勉強とかモデルのお仕事で大変なんだって。それでソフト部もやっているんでしょう? スポーツ科じゃなくて、芸能科に入ったまま。だから授業も受けて、スポーツ科じゃないのに、でもなまじインターハイ二連覇とかしちゃって期待されているから、それも頑張って、んでモデルの仕事もやってるって、ちょっとヤバくない? 寝てないんだろうな、とか思っちゃったり」
改めて耳にすると凄まじい。長信はせいぜい講義と自由業で終わりだ。確かに朝から晩まで動く時は少なからずあるものの、得能と比べればどれだけゆとりがあるだろうか、比べるまでもない。長信の担う負担を、得能が軽く超えていることは間違いなかった。
「それで、この中で一番、興味ないのがソフト部なんだって。今まであれだけ打ち込んでいたのに? 興味ないことあれだけやってたの? あんまりイくない気持ち、出ちゃったけど……香梨奈ちゃん、泣いてたから何も言えなくなっちゃった」
本当は、香梨奈ちゃん、別にソフトやめたくなんてないんだと思う。今でも別に、全然ソフト、好きなんだと思う。でもそれ以上に好きになったこと、やりたくなったことが出来ちゃったのかな――
葵の言葉は悲しみを帯びていた。濡れた姿に紛れているが、目に浮かんだものは長信の見間違いではない。
「だから今日は、香梨奈ちゃんの引退試合なの。中途半端に終わっちゃったけどね」
葵の言葉でようやく長信は得能達の抱擁の意味を理解した。他の女子はそれを知っていたのだ。香梨奈が人を集めた二か月以上前から。人を集めるのに苦労したとも聞いた。であるならば、雨が降るかもしれない今日から予定をずらせるはずもなかった。むしろ最初から降っていなくて良かったとすら思う。
葵の話は一区切りついた。なんと答えればいいか、長信は迷った。雨音がやけに大きく感じる。
「葵」
気づけば、得能がこちらのベンチに戻ってきていた。遠くのベンチを見てみれば、誰の姿もない。あちらは既に解散したということだろう。
「香梨奈ちゃん」
「あり――」
「ありがと、今日は誘ってくれて」
得能の感謝を、葵が感謝で遮った。そのまま静かに葵は得能に歩み寄り、胸に顔を埋めて腕を背中に回す。
「……臭い」
「そりゃ、土塗れで、この雨だしね」
「でも、香梨奈ちゃんの匂いがする」
「なにそれ、きもちわるっ」
くすり、と得能が笑った。まるで姉と妹のようだった。長信は遠い昔の姉の姿を思い出した。甘えた覚えはなかったが、姉に抱きしめられた記憶はある。
すっと葵が離れた。どこか寂しく、しかし吹っ切れたような笑顔だった。葵の何かが一つ、結末を迎えたのかもしれない。
「じゃあね、香梨奈ちゃん、長信君」
手を振り、ばさっと葵は傘を差し、グラウンドの出入り口の階段を上っていった。豪雨が葵の足音と背中姿を簡単に隠す。
大して間を置かず、得能と長信は二人っきりになった。得能は立ったまま、ベンチの長信を見下ろしている。
「グラウンドの備品、そのままでいいのかよ」
「大した物も残ってないし、大丈夫よ。それに、受付係の人も気がいいもの。片付けは手伝ってくれるわ」
何気ない話を長信は切り出したつもりだったが、得能は軽快に答えてくれた。だんまりはもう終わりにしてくれたらしい。
「そう」
「……あんた、葵にバレてたのね」
「ああ、さっき言われた。途中で気づいたって」
「なるほどね。まあ拡散して貶めるような子じゃないし、何てことないでしょ。こっちにも二人、男の子いたし」
「まじかよ、全然気づかなかった」
再び、沈黙が支配する。長信は意を決して本題に入ろうとした。
「なあ、得能――」
唐突だった。得能の両手があの時と同じように光った。やがて光は収まり、得能の手元には扇が握られていた。いや、正しく言えばそれは鉄扇だ。雨に濡れ、鉄の銀色が鈍く光る。
得能は鉄扇を振り被る。二の腕を鼻先に持ってくるような形だ。しゅっと音を立てて閉じた鉄扇が振るわれる。その先は長信の眼前にあった。鉄扇が伸びた、というよりかは巨大化した。さながらそれは、細いバットだった。
「一対一、七回裏、ツーアウト、走者三塁。カウントなし」
それは中止直前の、長信の攻撃状況だ。
「勝負よ、長信」
得能は傘を閉じ、ベンチ席の屋根から出た。瞬間、全身が水びだしになるも、何も厭わないという態度だった。
「あんたが勝ったら、なんでもあんたの思い通りにしていい。あんたの仲間にもなる。あんたの分からないことにも答えてあげる。全部が全部、あんたの好きにしたらいい」
「俺が負けたら?」
「あたしが勝ったらって聞くのよ、そういうのは。自分が負けたらなんて考えてボックスに立つような男だったの、あんた? あきれた」
「……いいぜ」
長信は立ち上がる。決着の全てがつけられることに長信は喜んだ。得能の話も。徳川家康のことも、それに、この試合も。
武将の気配がしたからか、潤が再びやってきた。長信は問題のない旨、それから得能は敵ではないから帰って大丈夫と告げる。潤は何度か食い下がる様子を見せたが、やがて理解を示してくれた。
長信も得能と同様、グラウンドに出る。髪が一気に重くなったが、衣類はそうでもない。水を弾きやすい服装をして正解だった。
得能の持ち物から、長信はバットを借りる。先ほどまで使用していたものとは意匠が違うが、振ってみて特に違和感を感じない。打てなくてもバットの所為にはならないだろう。
先ほどは叶わなかったバッターボックスに立ち、長信は構える。雨足が体を打ち付けるが、それは得能も同じ条件だ。片方だけが不利な理由にはならなかった。
得能はシャツとタイツを脱いで傍らに置いた。ぱっと見は下着姿のように映ったが、要はサポーターだ。何せこの豪雨だ。嵩張って煩わしく思ったのだろう。
得能の腹部が露になる。左腹部には拳大の花柄のタトゥーのようなものが浮かんでおり、長信にも絵柄こそ違うが左胸に似たようなものがある。潤いわく、これは子孫が武将を宿した際に表れる証のようなものであるらしい。家紋の意匠をしており、つまるところ長信は織田信長の、得能は徳川家康を由来としたものが身に彫られているということだ。
互いの準備を終え、得能はグローブの手で球を持つ手を隠したまま、上にあげた。次に膝を曲げて左足を土から離す。いつの間にか両手は得能の後頭部辺りに隠れたと思えば、上がった左足が踏み込まれた。合わせるかのように重なっていた両手が離れ、右腕を振って球が放られる。
何事かと思った。長信はバットを振る意思なんてものを、完全にどこかになくしてしまっていた。かろうじて今の球がストライクであることに気づく。彼女がスライダーを投げたことよりも驚いた。
ソフトではなく、野球のフォーム。それも、間違いなく長信と全く同じフォームだった。ありえない想像だが、一瞬、得能の姿に自分の姿を空目してしまう。
「球、それしかないのよ。投げて!」
やや距離があるからか、得能が声を張ってくる。返事の仕方を長信は忘れていたが、言葉の意味は分かった。長信はボールを得能に投げて渡す。
でも冷静になれば、得能のフォームはそれだけだった。得能は長信の全盛期と同じ姿勢を再び見せて、球を放る。雨音が球の回転音を掻き消すが、今度もストライクに入った。
「ツーストライク、ね!」
得能は事実だけを長信に告げる。長信は何も言わなかった。追い込まれたが、長信には追い込まれた自覚はない。
三球目。これが決まれば長信の負けとなる。
得能が構える。長信と同じ足の動き、同じ腕の上げ方、同じ手の位置、同じリリースポイント――
生き写しと表現して遜色ない長信の投球姿勢。完璧だった。だがそれは、あくまで真似として完璧なだけなのである。
心の中で長信は呟いた。ソフトの時のお前の方が、よっぽど手ごわかった――
雨を、長信のバットが劈く。空へと勝利の証が飛んで行った。遠く遠くまで駆ける球は、流星の光のように見えて、雨雲を照らす星とすら思えた。やがて光は、草木の中へと落ちていく。
長信はバットを放ってヘルメットを地面に置く。ベースを踏むなんて冗長的なことはせず、得能に近寄る。
得能は打球の行く先を見たままだった。
「……話してくれ、得能」
得能が振り返った。そして帽子を捨てた。手に光が宿り、鉄扇が宿る。次いでその大きさが、再びバット程になった。
反射的に長信は両腕を交差させた。手首に鈍器の衝撃を味わう。鈍い痛みに体が一瞬、震えたが、同時に刺さるような感触も覚えた。鉄扇は何やら刃のようなものが仕込まれている。
「ぐ――!」
刃の痛みはまだ耐えられたが、鉄扇の打撲は無視出来そうにもない。露骨に手首の動きが鈍くなった。
「まず、あんたが! あたしを拒絶したこと! あんときのあんた、怖すぎ!」
得能の二撃目を長信は受ける。鉄扇は今度は横に薙ぐように振るわれた。左腕を盾にする。無論、腕は薄いタイツを纏っただけの、ほぼ生身同然だ。裂かれたタイツからは肌色ではなく長信の血が飛び散った。
「次に、あんたはあたしに頼らなかった! あんたはあたしに何かするばっかりで、あたしはなんにもしてあげられないまま終わった! なんかさせろ! 依存しろ、あたしに! ダメになれ!」
今度は逆。返す刀の要領で、右腕に鉄扇を食らう。
「ソフトを薦めんな、別に興味なんかない! あんたがいりゃそれでよかったっていうのに! あんたがソフトやって欲しそうだったからやったのよ!」
得能の攻撃は長信の上半身や腕、下半身よりも上の部位に集中した。理由はおそらく単純で、ただ殴りやすいからだ。
「それでせっかくやってやってるっていうのに、一緒の変化球を使ってるのに、何もいわない! こっちがどんだけ苦労してると思ってんだ、あんたの後からピッチャーやってんだぞ!」
得能の言い分は、長信の罪悪感を直接、握りしめた。心臓を鷲掴みにされた気分が胸を満たす。
「高校、大学と、わざわざ好きでもない勉強して追いかけてるのに、ほったらかしやがって! 六年だぞ、六年、経ちすぎだろ! おかしいと思うだろ普通、察しろ!」
得能の言葉には理不尽に思えるものもあった。理路整然としているかといわれれば、そうではないのかもしれない。しかし彼女の感情が全てを肯定するし、長信も得能の気持ちを受けて、否定された気分になる。
「自分磨きをしまくってモデルになったっていうのに、誉めろよ! 誰のためになったと思ってんだ! 勉強、モデル、ソフトの三足草鞋を履いてんの、こちとら。労われや!」
側頭部を鉄扇が襲った。衝撃に頭が持っていかれる。まずい。受けた左側を重ねて攻撃されないよう、咄嗟に腕で守る。
「葵と仲良くしすぎ! 彼氏持ちだそあの子。いくらなんでもチョロすぎるだろお前! 知らない女の子も隣にいるし! あたしの場所だろ、そこ!」
それは理不尽だろ、と余裕のない頭で思った。
「あとセクハラ! あんた下ネタとかいう奴じゃなかったでしょ! キモイ!」
それはそうだった。余裕のない長信の頭を、得能は右から鉄扇で殴る。これ以上は本当にいけない。意識の根っこが不安定になり、次の行動に移れなくなってしまう。
しかし、次の得能は直ぐには攻撃をせずに間を置いた。得能から再び能力の反応があった。得能の手には鉄扇と、それに雨で見間違えてなければ、錠剤を手にしている。手で口を覆うようにして、得能は雨を飲み水替わりに使って薬を飲み込む。
「彼女を作らなかった! 作ればあたしは諦めがついたのに、なんで作らないの? 逆に女みたいになってるし、ふざけんなよ、この童貞が、ホモ!」
得能は鉄扇を上に振り被った。丁度、野球投手の振り被りの態勢だった。その振り下ろしを長信は避ける。次の攻撃を得能がすぐにしなかったことと、足にまともに鉄扇を受けていないのが幸いした。そこまで動ける猶予があった。
だが事情が変わる。得能の鉄扇は地面に叩きつけられた。バットで地面を殴る程度のものと高を括ったのだが、そうはならない。叩きつけられた地面が衝撃でえぐれたのだ。いくらグラウンドの表面が柔らかい土であったとしても、明らかに先ほどまでと威力が違い過ぎる。えぐれた衝撃は下から長信の足元を掬う。左足の動きがとられてしまった。かろうじて尻を地に着くのだけは逃れる。
薬の効果か、と長信は合点がいく。よくよく見れば鉄扇の大きさも変わっており、得能の両手には収まりきっていない。長信は頭に丸太が思い浮かんだ。が、形勢の不利はもう極まっている。今、あの鉄扇を頭に食らいでもしたら、間違いなく頭から脳漿が漏れる。しかし、動けそうにもない。
長信の目に色が混じり、緩やかな立ち眩みを覚える。義昭と対峙した時と同じ感覚。体の内の信長が、長信の頭や目を意思で侵食する――
「そして、あんた、あんたが――」
避けられないと思いすらしなかった。長信の意識が落ちたからだ。しかしすぐに復活する。長信の意識は間違いなく、再びその身に宿っていた。目や頭に感じた妙な違和感は消え失せていた。
長信は得能の鉄扇の先を見る。というか、目の前に鉄扇があった。厳密にいえば、鉄扇は長信の視界の右側、右肩を前にして止まった。
――右肩。長信が一度、壊してしまった部位。
鉄扇が光りに包まれる。得能の手にあった鉄塊は、瞬きの間に消滅してしまっていた。
胸に何かが振れた。得能の頭だ。
「あんたの気持ち、つらさを分かっていながら……一度拒否られて、それでも諦められなくて、でもビビってなんにもしてあげられない。ずっと眺めてストーカーまがいの事している、弱くて情けないあたし。あたしは……あたしはあたしが、許せない」
「……なるほど。一個十点だから、計十個で百点ってことね。いえよ、最初から配点式って」
「あたしのこと、苗字で呼んだ。昔は名前で呼んでたくせに」
今から点数が増えるのか。なんで満点のきりが良くないんだ。TOEICかよ。
長信は傍近くの得能――香梨奈のつむじを見る。そのまま顔を押し付けた。長信の鼻と唇が埋まり、水気に混じって品のある匂いがすっと香ってくる。
次いで、香梨奈の体を寄せた。互いの衣類が薄いものばかりだからか、二人の体が溶けて一つになったかのような一体感があった。お互い異性に触れられたくない部分が相手に引っ付いてしまったが、長信は意に介さない。
香梨奈は謝ってほしいのではない。香梨奈の今までのことを知り、頑張ったと褒めてほしいのだ。そして、長信に謝りたがっているのだ。
「今まで本当、良くやってきたな。すごいよ、香梨奈は」
腕を背中に回し、あやす様に声をかけた。香梨奈も腕を回してくる。力が強すぎて、もう一生、逃がさないという意思を感じた。香梨奈は鼻を長信の胸に擦らせる。まるで長信の胸中にこのまま入りこもうとする動きに見えた。
「ごめん、長信。ごめん、ごめん、ごめんね……」
「いい、いいよ。全部いい」
長信はこの豪雨がやむまでこうしているつもりだ。泣きじゃくる香梨奈の姿は、何年も前の小学生の頃と、何も変わらなかった。
雨は止みそうになかったので、長信の意思は挫けた。
一旦、自分たちの荷物を集め、残りの気力で貸し出しのグラウンドの備品を片付ける。それが終わり、香梨奈と二人して再びベンチへと避難した。
香梨奈が先ほど口に含んだ錠剤を長信は渡される。飲み込むと、すぐさま体に活力が宿り、あちこちの痛みが鈍くなった。傷跡に目をやれば、切れた跡こそあるものの、出血は収まっている。
色々と効力のある薬を作れるの、自分以外だと少し弱いんだけど、と香梨奈は能力の説明をしてくれる。弱いとはいうが、長信は見た目こそ傷、怪我まみれに見れるが、走れと言われれば走れるくらい体力を取り戻した。そこまで体は回復したように思える。
「いいのか、香梨奈、本当に」
長信は念を押した。話は仲間になるといった件に関してだ。
「負けたら仲間になるっていったでしょ?」
あたしの願いは叶ったようなものだしね、と香梨奈は続けた。
「得能香梨奈は、小田長信と同盟を結びます」
香梨奈は仲間――同盟締結の言葉を唱えた。同盟とは戦いにおける仕様、ルールの一つだ。信頼関係のある武将の距離察知能力を、同盟を結んだ者同士に宿らせる。長信と潤はファミレスにて同盟を結んでいるので、そこに今回、香梨奈が加わった。これにより三者は一定の距離にいれば、互いを気配で感じ取ることが出来る。
そして、仮に同盟を結んだ者のみが戦いに勝ち残ったときには、それで戦いは終わりとなる。しかし勝者は一人のみであり、長信が戦いに勝ち残ったとしても、潤と豊臣秀吉、香梨奈と徳川家康が過去に戻ることはない。
得能の左腹の模様が渦を巻くようにうねり出す。緑色の三つの花弁の絵がグラデーションを描くような変化を見せ、最後には長信と同じ赤い五枚の花となった。これで香梨奈は長信を当主とした同盟に入ったことになる。
「ソフト、本当にやめるのか?」
香梨奈とのわだかまりは解消したので、長信は別の件に切り込んだ。
「うん、やめる。一年やってて目途はついたしね。騙し騙しやってきたけど、二年目は多分無理。抜かされちゃう」
「でもそれは……それは、ソフトをやめる理由じゃなくないか? 勝てないから、負けるからやめるなんて、ないだろ」
うーん、と香梨奈は悩んでいるようだった。
「ソフトが好きじゃないっていうのは――」
「ああ、あれは流石に、違う違う、うそうそ」
長信の言葉に、香梨奈は、あ~、と再び悩んだ。どうにも要領を得ない。
「単純にね、ソフトに身が入らなくなっちゃったの。ソフトは最初、子供の頃は好きじゃなかった。でも長信がいたから好きになった。長信は野球をやめちゃって、でも長信はあたしもソフトをやめたら嫌だろうなって思ったから、続けてた、頑張った。中学、高校、大学も一年まではね。でもありがたいことにモデルの話が来て、スポーツじゃない、女として華やかな世界もいいなって思ったの。やれるならやってみたい、成功しなくったって別にいい」
香梨奈の言葉は独白のようだった。自分を見つめて、白状するかのような、全てを正直に語る空気感がある。
「葵や他のスポーツ科の子を見ているとね、熱量が違うなってなったの。一生懸命にやる、結果は伴えばいいけど、二の次! みたいなひたむきな感じがね。まっすぐで、すごく胸を打たれた。そしてこの気持ちは、あたしにとってはモデルな気がして、それでソフトはなんというか、こう、いろんなあたしの気持ちが入り混じってて、表現しづらい」
「……純粋な気持ちだけでスポーツをやり続けている奴の方が、少ないんじゃないのか?」
勝てない相手に気持ちが行き過ぎてしまって殺意が湧く。スポーツにおいて黒い感情は自然と湧き上がるもので、無視は出来ない。熱心にやっている人間ほど、必ず向き合うことにある。
意地が悪いわね、長信は、と香梨奈は苦笑いを見せた。そのまま遠くを見つめる。曇天が空を覆ったままだが、雨音は弱まってきた。雲の色も先程と比べれば濁ってはいない。
「もしかしたら、消去法なのかもしれないけどね。あたしにとって、ソフトは一言ではまとめられない思いがある。好きと聞かれれば、そう。でも、嫌いと聞かれても、そう。そこにキラキラしたものが突然、降って湧いてきた。すごい惹かれた。すごい惹かれたって自覚した瞬間、分かっちゃったの。ああ、あたしにとって、ソフトはこの程度の軽さのものなんだなって、だからね」
得能の顔が再び長信に向く。今日、真正面から初めて見る柔らかい笑顔だ。他の人に向けられていたものが、ようやく自分に向いてくれる。
「ありがとう、長信。あたしを野球に誘ってくれて。ソフトに入れてくれて」
そんな風に言われてしまえば、長信にはもう口を挟む余地はなかった。どういたしまして、とぽつりと告げる。ふふ、と香梨奈は口を閉じたまま笑った。
あ、と香梨奈が空を見上げる。いつしか雨雲は辺りから消え、日が差し込んできていた。声をかけずに自然と二人は立ち上がる。
ひどい有様になっていた泥まみれのグラウンドを通り越し、会場外へと続く階段を上がっていく。二人の距離は遠い昔と同じものになっていた。取り戻した、といってもいい。
長信は思う。香梨奈との関係を元通りにすることが出来た。であれば、優との仲を直すことも出来るのではないか――と。
柄にもなく、長信は雲を突き抜けて差し込む陽光が、希望の光のようなものに見えた。