第一章
だん、だん、だん。
断続的に、室内に長物を打ち付ける鈍い音が広がる。
その得物を振るう手際は素人のそれであり、当人の手練の拙さを露呈している。尤も、二十歳に届かない青年が行っている作業に慣れている人間は、果たしてこの世にどれだけいるだろうか。
「う、う、うう……」
青年が絶え間なく口から漏らす嗚咽もまた、辺り一帯にて響く騒音に埋もれ、誰の耳にも届かない。
そもそも、この場には青年一人しかいない。より経緯を正しく辿ると二人から一人になった、というのが正しい。
騒音の正体は幾人もの怒号であり、燃焼音であり、そして物が崩壊する音である。すでに外内には火の手が伝わっており、一部は音を立てて崩れ始めている。屋根も倒壊の兆しを見せており、寺がその様相を失くすのは時間の問題でしかない。とうに消化の間に合う状況ではないことは、文字通り火を見るよりも明らかであった。
森蘭丸は、主人の体を打ち刀で解体していた。そしてその工程ももうすぐ終わりを迎えようとしている。
蘭丸の傍らには、三方の上に置かれた主人の首があった。そのすぐ手前には胴体を中央に、左右を手や足などの部位が横一列に並べられており、全てが夥しいほどの赤黒い血に塗れている。
森蘭丸の身なりも似て酷いものであった。決して安くはないであろう肩衣姿は血と汗で台無しになっている。表情もおそらく散々に涙を流した後なのであろう、目元の潤みと赤さが未だに残っておる。事態を飲み込み切れずに、それでも親の厳しい言いつけを我慢して守る子供のように頑なであった。
その主人の首を落とし、人間から幾多の部位に分けたのも、他の誰でもない蘭丸本人であった。
――蘭丸よ、主命である。光秀なんぞにこの体を差し出すなぞ、到底受け入れられん。なれば、光秀の目に留まらんよう、切り落として捨てろ――
それが蘭丸の主人、織田信長の最後の言葉だった。
事態は緊迫している。信長に反旗を翻した逆賊、明智光秀に、蘭丸のいる本能寺はまるで蟻一匹通さんと言わんばかりに囲まれ、侵略されつつある。本能寺にて滞在している間、信長が従えている兵は寡兵であり、数百がいいところだ。対する光秀の軍勢は万を超えている。
織田の勇猛たる将達も、今は信長の天下布武――日ノ本統一事業の真っ最中であり、各地に散らばっている。救援など到底、間に合うものではなかった。
蘭丸は無念で仕方がなかった。それは自分が死ぬことではない。
この信長を必ず殺そうとする意志を模した光秀の包囲網から逃げられるはずもなく、蘭丸はすでにこの先の自分の死を受け入れている。
蘭丸の無念とは、織田家当主、織田信長がこのような最期を迎えることにあった。
「信長様、どうして、どうして……」
もうどうにもならないことは分かっている。しかしそう口にせざるをえない。例え信長の主命で、本人の首を切り落としたのが自分であってもだ。
一際、重く鈍い音がした。蘭丸が刀を打ち付けた末に、信長の膝が切り離された音だった。これで信長の体は幾つかの部位に分かれる。胴体などは切り分けが難しかったせいか、腹の切れ目から太い蚯蚓のような赤黒い臓物が転び出てしまっている。
平時であれば腰を抜かしていたかもしれない。しかしすでに蘭丸も正気ではなく、その惨さに吐き気を催す気持ちは麻痺していた。
蘭丸は主の胴体の横に手と足を分けて揃える。自分の死が近いことにも構わず、その手つきに急いだ様子はない。むしろ愛しい人の体に触れるかのように綿密であり、思いやりにあふれていた。
信長の首から見れば、自分の体が見下ろすように胴体を中心として、右に腕が、左に足が並べられている。これは蘭丸の信長御身を想った、せめてもの葬送であった。
深く深く地に額を擦りつけて礼をし、顔を上げる。事を終えた蘭丸は、ここに来て気持ちが感極まった。ひしと信長の首を抱きしめる。主のいないこの世は地獄と変わりはなく、そんな世界に自分は耐えられない――
あとはこの信長の体を分けて隠すだけ。主命を遂げたら、その跡を追おう。
「蘭も、貴方様の元へと向かいまする……」
ぐずる蘭丸の前に、ふっ、と何者かが姿を見せた。
轟音鳴りやまない世界であったというのに、音がなくなったかのようであった。まるで現実味のない人の現れ方であり、歩いてここまで来た様子も襖を開けた音すらもなかった。隙間風が吹いたからやってきたと言われれば、本当にそうかもしれなかった。
更に言えば、その様相も浮世から遠く離れている。白い着物に不自然に青白く流れた長髪、肌も血の気がまるでなく、角膜と瞳孔までもが障子のように黒が抜けている。男性なのか女性なのかも分からないような背丈と抽象的な顔立ちは、おおよそ蘭丸と同じ国の血が通っているとは思えない。
息をするのも困難な空間であるというのに、彼、または彼女は、この猛火をものともせずに微笑んでいる。
ああ、黄泉の向こう岸からの遣いが来たのだ。蘭丸はその人物を死神に見立てた。察する蘭丸を見て、その白い者は笑った。死を招く者とは真逆の、菩薩のような笑みだった。
一五八二年、六月。
この出来事は本能寺の変として史実に残る。
織田家家臣、明智光秀の謀反により、日本の天下統一に王手をかけた人物、織田信長は、こうして生涯の幕を閉じたとされている。
◆
戦国時代からおよそ四百年という月日を経た、現代、日本。四月四日。
ほんの一部の人間は、今日のような日を、わざわざゾロ目の日と呼ぶ。
「ああ、千円。それで俺の代返、頼むわ。授業内容も後でざっと教えてくれたら、もう千円出す」
分かった、と電話口の相手からの返事を最後に、小田長信は電話を切った。講義の代返を頼んでいた人物が休んだと連絡を受けた時は少し焦った。しかし代わりの人間に心当たりがあったので、無事に事なきを得て安心する。
スマフォの時計を見る。時刻は九時五十九分。開店まであと一分を切っていた。長信の後続に並んでいる人達は、平静を装いつつもどこか落ち着きがなく、浮足立つ様子を隠しきれていない。数百人ほどの見知らぬ人間がここにいるが、何故が皆、きっちりと一定の間隔を空けて並んでいた。それは店のルールを破れば自分達は遊技が出来なくなる恐れがあり、最悪、出入り禁止の報いを受けることに他ならないからである。
やがて時刻は十時となった。只今より入場を開始します、と店員が拡声器越しに声を出して、長信の目の前の扉が開く。途端、店内の大きすぎるBGMが長信の耳を痛いほどに圧迫するが、長年の経験上、次第にこの大音量には慣れてしまう。音の不快さを長信は耐え、一番の整理券を店員に渡して、代わりに台の確保券なるものと交換した。これを遊技台に置かないと、入場から間もない時間帯は空き台として整理――つまりは確保されていない台として解放される可能性がある。
長信は走っていると店員に見咎められない速さで店内を進んだ。合わせて黒く長い後ろ髪が大きく揺れる。後続の人達も長信に続くが、彼らも長信と同様に走ったりはしない。つまりは長信の前を行く人間は誰もいなかった。
そして予め目星をつけていた角の遊技台のレバーに、長信は確保券の穴の部分を通した。ここまで出来れば目的は成し遂げたにも等しい。ふう、と長信は一息ついた。だからといって長信の勝ちが確定した訳ではないが、だとしてもおよそ数百人の中では長信が一番有利と言える。これ以上は望みようがない。後は実際に金を入れてみて台の具合を確かめる必要があった。
幾人かが長信よりも後に、長信の確保した台を見た。長信と同じ魂胆の人なのだろう、既に確保されている台を見て彼らは足早に散っていった。第二、第三希望の台へと向かうのだろう。少しの優越感を胸に、長信は台の向かいの椅子へと着席し、メダルの貸出機に万札を飲み込ませた。
今からが本番である。長信と台、或いは店との金を賭けた勝負だ。長信も今まで数百、数千とこの不純な戦いを制してきている。負けた日も確かにあったが、勝ち得た金額の方が遥かに大きい。
長信は気持ちを鎮める。感情はスロットを遊技するにあたって全く必要ないからだ。視線を目の前の台に向けるが、未だに現金を入れた貸出機からはコインが出てこない。貸出機をよく見れば、何やら赤いランプが点滅している。おそらく機器に何らかのエラーが起こってしまったのだろう。こういう入店直後の機材トラブルはしばしば起こりうる。それが大きなイベントの日だと尚更だった。
幸先の悪さに軽く舌打ちしつつ、長信は台上の呼び出しボタンを押した。店員が不具合を解決してくれるのを待つしかない。周りを見渡せば既に遊技をしている人間もいて、長信の両隣にも人が着席し、遊技を開始している。未だに入口から人が等間隔で流れて来ており、止まる様子はない。店員はリアルタイムでハウスルールを守らない輩がいないかを目を皿のようにして見張っている。これでは長信の呼び出しの対応にはすぐに来そうもなかった。
そこへ、すっと店内の壁をすり抜けて人が入ってきた。
「はあ?」
長信の声は店内の騒音に埋もれる。自分の目がおかしくなったのかと長信は目をしかめてみたが、どうやら見間違いではないらしい。長信の瞳は異常な見た目の人物を捉えた。
身なりが全体的に白く、古い時代の着物のような衣服を身に着けている。着込んだ着物から髪の色、目の色までもが常人のものとは思えないほどに白さが際立っている。中性的な顔立ちから年齢、性別までもが見た目では判断がつかずにいた。多種多様な服装と年齢差もそれほど珍しくはないパチンコ屋においても、その人物の異様さは他を圧倒している。
白い人物はそのまま長信の方に歩いてくる。その最中に他の入場客と体が重なった。確かに二人は接触したはずなのだが、怪我どころかどちらも何の意にも介さなかった。長信の目がおかしくなければ、すり抜けたように見えた。
その白い人物が長信の座る座席の真後ろまで来たかと思うと、足を止めて口を開く。
「お久しぶりです、信長殿――もとい、初めまして、長信殿。私は果心居士と申します」
店内は騒音であふれ返っており、人の言葉など大きく耳元で張らないと聞こえたものではない。にもかかわらず、果心居士と名乗る白い人物の声は、何故か騒音を物ともせず、鮮明に耳へと入ってきた。声量が大きいわけではなく、かといって長信の耳元で話している訳でもない。声は不思議と長信以外には耳に入らないようで、長信の両隣の客は何の反応も示さない。
「つきましては、此度の催しものについて、ご説明させていただきます――」
なぜ自分の名前を知っているのか、信長とは誰のことなのか、お前は何者なのか。果心居士と名乗った者は、長信の疑問を解くかのように前置きをして、話し始めた。と同時に、長信の呼び出しに気づいた店員が駆け寄ってくる。
お待たせしました、と店員は喋りながら貸出機を手慣れた手付きでいじり、最後にリモコンのボタンを貸出機に向けて押した。すると点滅していたランプが緑に点灯した。かと思えば、スロットの下皿にコインが流れていくる。エラーの解除が終わったということなのだろう、店員は一礼して去っていった。丁寧で礼儀正しいというよりかは、効率を優先した作業的な動きだった。
長信は迷ったものの、自分の目的はこの果心居士とやらの妄言に付き合うことではない。ここには金を稼ぎにやって来たのだ。あるいは出ない低設定の台に座ってしまったと早めに見切りをつけることでもある。頭を切り替えて、目の前の台に集中する。台の音よりも、後ろの果心居士の声の方が澄んだように耳に入ってくるが、無視を決め込んで聞き流した。
「――戦国時代を生き抜いた英傑達、その一人である織田信長の血を継ぐ長信殿は、同じ武将を宿す子孫と戦うこととなります。見事勝ち残った武将、及び子孫の方々は、過去へと戻る権利が与えられる――というのが、この戦いの約束事になります」
話し終えたのであろう果心居士に対して、長信はおもむろに席を立った。合わせて盗難に遭わないよう、貸出機に挿入していたICカードを抜き取ることも忘れない。台の下皿に物があることを確認して、そのまま外に出る。なんとなく予想していたことだが、果心居士も長信の背中を追ってきた。
自動扉の向こうに出ると、途端に騒音が耳から離れる。まるで閉鎖された空間から抜け出したかのような爽快さがあった。
長信は予め決めていた言葉を果心居士に向ける。
「意味が分からない。どっかにいけ。邪魔だ」
荒唐無稽過ぎる話を、長信は最初から聞く耳を持っていなかった。果心居士の話は雑音として受け流しており、大して頭に入っていない。
「と言われれば、それは構いません。ですがご理解をされていないように見えますが……本当に大丈夫で?」
「その話を信じる方がどうかしてるだろ」
「本当に、本当によろしいのですね?」
ずいずいと果心居士が長信の胸に顔を寄せた。見上げてくる果心居士の瞳は常人のものとは思えない程に青白い。視線が長信に不安を植え付け、心をざわつかせる。しかし長信は気持ちを抑えつけて果心居士の視線を受け止める。果心居士に何も言わないことが長信の返事だった。
「……仕方がありません。私は念を押しましたからね? しかしまあ、嫌でも後々ご理解されると思います。それでは長信殿のご武運をお祈りしております」
果心居士は長信を拝んだ後、指先に持った鈴を揺らす。
りんりんと、控えめだが軽やかな音が鳴った。かと思えば、果心居士の姿は瞬きをする間に消えている。
目の当たりにした事態についていけず、長信はぎょっとして目を見開く。が、考えても仕方がないと、店へと体を向ける。
その時、ちらりと長信の視界に一人の少女が映った。表情が分かる程度の距離だった。長信の目が止まった理由は単純で、彼女がこの場に似つかわしくない服装だったからだ。少女の身なりは学生の制服のそれである。
十八歳未満、及び高校生以下はパチンコ屋にて遊技が出来ない。つまりはここは縁のない場所のはずである。長信は十九歳なので入店に何の問題もないが、パチンコ屋自体には中学生の頃から世話になっている。つまりは年齢確認をされずにばれなければ遊技自体は出来るのだが、学生服となれば話は別だ。店員の目に留まらない訳がない。
少女のかけている眼鏡越しに、長信は目があった。しかしすぐにこちらから視線を切り、自動扉を開いて戻る。
長信には友人が少ない。開店前に電話をしていた人物とも仲が良い訳じゃなく、ただの講義代返の伝手みたいなものだ。その長信が、ましてや年下の少女と縁があるはずもなかった。
投資額は一万円、景品の金額は十一万五千円。差し引いた十万五千円が今日の収穫であり、申し分のない結果となった。
あの後、長信は高設定――出玉が出やすく、勝率の高い台であると確信を得るに至った。となればやることは一つであり、時間が許される限り遊技を続けるだけだ。時刻が二十二時を回った際に見切りをつけ、獲得したコインを景品に交換、そして景品を交換所に渡して現金化した。
専用の引き出しに置かれた現金を財布に収めて、筋肉の凝りを感じて腕を真上に伸ばす。単調な作業をおよそ十二時間行ったせいか、腕や肩がどうにも硬い。一日で十万円ほどの勝利は当然、嬉しい。しかしやっていたことは極めて単純な動作の繰り返しであり、それも今日が初めてという訳でもない。長信にとってパチンコ、スロットは仕事、労働と何ら変わらず、遊技ではなかった。
そのままパチンコ屋の敷地から歩いて離れていく。四月の春は日によっては肌寒い。かと思えば温かい日もあるような不安定な気候で、移り変わりが忙しない。今日は日も落ちていることもあり、風が吹けば冷たい心地を長信に与えた。夜風は長信の髪を度々、引っ張るようにして横に流す。
長信が歩き始めて数分といったところ。地下鉄までの道である大通りに差し掛かったところで、長信は異変を感じ取る。
「……なんだ、これ?」
その異変は感覚的なものだった。寒気ではないのにも関わらず、肌が何かのせいで震えてしまう。言葉を当てはめるのであれば悪寒である。
形容しがたい妙な感じがなぜ生まれ、そして長信の胸中を埋めたのかは分からない。しかし勘違いという気は、どうにもしなかった。
加えてその悪寒の先は、何やらどこかから来ている気がして、長信は思わず遠くを見た。長信を見下ろす建物、背景のように広くある山、視界の景色は夜の闇で黒く塗りつぶされており、そしてとても雑多にある。
「……光秀?」
何故そんな名前が出たのかは分からない。自分の知り合いにはそんな名前の人はいない。
意味の分からないことなのだが、自分の口が動いて出した言葉ではなかった。長信の口から出たにも関わらず、である。矛盾する二つの感覚が長信を戸惑わせる。
次に、頭に言葉が生まれた。
――何故、俺を討った。
頭の中にある脳が口を生やして話したような、狂気的な感覚だった。長信の言葉なのか、それとも何かよく分からない奴の言葉なのか、説明も判断もつかない。
言い難い気持ちを抱えたまま、長信が目をしかめていると、突如、長信の肩から下げているショルダーバッグが引っ張られるようにして揺れた。突然の衝撃に辺りを見渡すも、近くには誰もいない。ひったくりなどではなかった。
続いて、ぱち、と何やら粒が弾けるような物音が耳に入る。音の先は地面からであり、そう遠くはない。しかし夜目ではちゃんと捉えることは出来なかった。
今度は長信の耳元でも音が鳴る。何かが尋常ではない速度で通ったような風の音だ。聞こえたと頭で理解するよりも先に、地面からも最初にしたものと同じ音が聞こえてくる。
長信は目を顰めて自分のバッグを見る。嫌な予感がした。そして長信の現実味のない予感は的中する。
「穴がある……」
ショルダーバッグには何かが出て入ったような、数ミリ程度の小さい穴が生じていた。長信の額から、ぶわっと嫌な汗が滲み、頬を伝う。
「……銃の、弾か?」
フィクションのような出来事で、絵空事にしか思えないが、長信は自分が何者かから狙撃されているのではないかと考えるしかなかった。
長信は再び先ほど眺めた遠い場所を見つめる。頭の中で、警鐘が鳴り響いた気がした。すると、またしても地面から何か小さく弾けるような音が聞こえる。
財布の入ったバッグを守るようにして、長信は走り始めた。非日常的で実感は湧かないが、それでも脳が危機を告げて足を動かす。
長信は今、狙われている。
全身に力を込める。どこか安全な場所を求めて走り出すも、果たして、それはどのようなところなのだろうか。長信にはそこまで考える余裕はなかった。
「はっはっはっはっ――」
長信は入ったこともない住宅街、そのうちの一軒家の壁に背を預ける。ここまで必死に走り続けたのは、中学の野球クラブ以来かもしれない。
既に髪先から足の爪先までが汗で水っぽく不快感はあったが、何よりも自分の命が狙われている恐怖の方が強い。
ここまでくれば安全かと何度も足を止めた。しかしその度に足元の地面や住宅の壁が、小さい音を立てて弾けた。案の定、今も事態は変わらなかった。
「くそ、またかよ……!」
長信が少し止まったのを見越すかのように、銃弾で何かの欠ける音が耳に入るのだ。まるで動きを止めれば、すぐさま照準を正確に合わせると何者かが突きつけているかのようだった。
長信は体を動かすことにはそれなりに自信はある。しかし何者かに狙われる恐怖感と、走って止まることを繰り返すことに体力の限界を感じつつあった。
それでも走らなければ、自分は撃たれて死ぬ――
壁から背を離して再び走り出そうとした、その時、闇夜の中から誰かが長信の前に飛び出してきた。
それは、一人の少女であった。
女は、どこか遠くを見つめつつ、手を大の字に広げている。まるで自分の大切な誰かを守るかのような姿だった。長信はその制服に見覚えがある。確か、所謂いいところの女子高のものだ。
街灯に照らされた横顔は、年齢以上に見られる長信と比べれば、制服を着こむ年齢らしい青さが見える。反面、眼鏡の奥から凛々しくどこかを見つめる表情は、印象から感じる容姿とはかけ離れており、とても似つかわしくない。
髪は全体的に短く切りそろえたショートカットだ。学校の基準を十全に守るような配慮が見て取れる。年頃らしい女の子のような装飾はヘアースタイルや胸元などには何もなく、着崩しなども微塵もない。
長信は教室で一人、静かに小説を読む女生徒を思い描いた。そして彼女は今朝、遠目に見かけた少女でもある。
また何かを弾く音が聞こえた。つっ、と少女が口から声を漏らす。
撃たれた物が二転、三転と弾み、長信の近くに落ちてくる。少女のかけていた眼鏡だった。片方のつるが弾丸を受けて弾けたのか、どこかに消えてしまっている。
少女の額から血がつつ、と流れていた。怯んだ様子を見せた彼女だったが、それでももう一度、弾丸の射出先であろう方向を睨みつける。
どの程度、少女と長信はそうしていただろうか。
そういえばと、長信は動きを止めていた頭を働かせる。先程はここまで長信が止まったままであれば、再び銃弾が長信を襲っただろう。しかし塀や地面が欠ける音は、随分としていないように思える。
遠くを見つめる少女は長信へと視線を変えた。
「長信さん、こっちです!」
少女は長信に告げると、手を握って走り始めた。
「あ、おいっ」
咄嗟に戸惑いながら声をかけるものの、長信の手を握る少女が先に駆け出すので、釣られて足を再び動かし始める。
程なくして、長信と少女は足を止めた。
それなりの距離を遮蔽物なり駆使して走ったので、もし誰かが追いかけているのであれば巻けただろう――とは長信は思えなかった。それは長信は一人でもやっていたからだ。しかし実際問題、銃撃は止んだように見える。
一人じゃないから、二人だからか? と、長信は少女の横姿を見る。それなりに運動が得意な男性である長信と併走したにも関わらず、少女は軽く息を整えただけで、特に何ともない様子だった。汗はかいているようだが、表情から疲労の色は見えない。
少女の体つきからは運動部的な張った筋肉を感じない。体格もこれといって特徴的なものもない。背も当然、長信から見れば見下ろす形となるのだが、少女の背は平均的な年齢のそれと大差ないだろう。
凡そ快活な動きは得意ではなさそうな華奢な線の細さが、長信とともに走り続けて何ともない振る舞いをする姿と矛盾する。
少女が長信の視線に気づき、二人の目が合う。
「あ、あの、えっと、その……」
先ほどまでは勇ましいような面持ちをしていた少女が、急に狼狽え出した。すっと少女は視線を反らし、自分の手を空いた手で揉んでは困ったように俯く。
まるで急に別人になったかのように見えて、長信は彼女のことを素直に受け止めることが出来なかった。
なんというか、おかしいことが多すぎる――
だとしても、だ。全てを放り出して見なかったことにするような状況ではないことは、長信にも分かる。
二人のいる場所は商店街通り。長信も何度か何の気なしに通った覚えがある。色んな店が構えられているうちの一つにファミレスを見つけた。他に店並びを見渡すが、二人で話が出来るような場所は目に映らない。
「あそこ、ちょっと入ろうか」
「は、はひ」
返事を噛んでしまった少女の姿を見て、長信はこの少女のことが、時間が経つほど幼さを増してくように見えた。
長信達の入ったファミレスは、特に珍しくもない全国チェーン店だ。老若男女、性別、年齢を問わずに見かけるような店構えとなっている。しかし流石に夜分だからか、店内はどちらかといえば空き席が目立ち、閑散としていた。
時刻は既に二十三時を回っている。窓から眺める外の景色は、商店街通りを墨で塗りつぶしたかのように黒く染まっていた。街灯はあるにはあるが、光同士の間隔が広いせいで、少し心もとない。
既に注文していたコーラを長信は口に含む。まず舌の先から、続いて口内に炭酸が染み渡った。更に喉奥に入れることで刺激が体を活気づける。本当はこのような無駄遣いをしたくはなかったが、潤いを欲しがる気持ちを優先した。
長信を連れ回した少女が御手洗いから戻って来る。
「すいません、遅くなってしまって……」
「いや、別に」
汗の匂いなどを気にしてなのか、少し甘い制汗剤、それにシャンプーの匂いが長信の鼻へと僅かに流れ込んだ。それに額辺りの傷も止血が済んでおり、一応は平気に見える。
少女は手洗いに向かう前に、前もって頼んでいた紅茶を口へと運ぶ。一口つくのを待ってから、長信は本題を切り出した。
「さて、聞きたいことは山程ある。お前は誰だ?」
単刀直入に長信は切り出す。長信としては要領を得ないことが山積みだった。片っ端から片付けたい気持ちが、長信の脳内に溜まっている。
「わ、わたしは……金城。金城潤です。おじいちゃん……あ、豊臣秀吉の子孫、です」
自己紹介になんで先祖の紹介を? と口に出そうになったが、豊臣秀吉の子孫というよく分からない言葉から連想する言葉があった。
――戦国時代を生き抜いた英傑達、その一人である織田信長の血を継ぐ長信殿は、同じ武将を宿す子孫と戦うこととなります。見事勝ち残った武将、及び子孫の方々は、過去へと戻る権利が与えられる――というのが、この戦いの約束事になります――
それは得体の知れない果心居士とやらが喋っていたものだ。長信としては、あの話、というかあの人物に関わった全てが、自分へ向けられた悪趣味な悪戯としか思えない。
「ていうことは何だ……果心居士? が喋っていた、戦い? みたいなことがいま起こっている、ってことなのか?」
「えー、っと……そう、です」
「馬鹿らしい」
長信はソファの背もたれに両腕を投げ出すようにして回す。呆れた気持ちが態度に出ていた。
「……えーっと?」
「到底信じらんないってことだよ、そんなの」
長信の考えは、金城の返答を聞く前と何ら変わらなかった。
確かにその戦いとやらが今起こっていると説明づけるものはある。例えば果心居士という聞きなれないワードを長信と金城が知っている点だ。他にも長信が銃弾で狙われた事実などもそれを裏付けるようなものに思える。
しかしそれでも、内容に現実味がなさすぎる。長信はその先祖を宿して戦うことになる――なんてふざけた話を信じる方がどうかしていた。
再び長信は飲み物を口へと運ぶ。それに合わせるかのように、金城という少女もまた、口元へと紅茶のカップを寄せた。金城の表情は、まるで肉食獣を前にした小動物のような怯えが見える。
長信は、自分の外見が周囲からどう思われているかを自分で理解している。自分のような外見の人間はそう多くはないだろう。
長く流れるように伸びた艶のある黒髪。釣り眼で三白眼気味の大きい目。男性特有の硬さが物足りず、逆に少し丸みがあり、年齢以上に大人びた顔立ち。男としては比較的高めの百七十後半程度の背丈に加えて、長く伸びた手足は歩くと目立ち、人の目に入りやすい。
端的に言えば、長信は背の高い女性のように見えた。そしてそれはたまたま親がこの顔、この体躯に産んだからではあるが、特に髪に関しては長信の手が意図的に加えられている。
そんな長信の仏頂面は、相手が幼ければ幼いほど恐ろしく、自然と体を萎縮させてしまうのも無理はない。そして目の前の金城は見るからに気が弱そうな女子高生だ。長信の自然と発する圧を前にして、平然としているような肝があるようには思えなかった。それを長信も分かってはいるが、見ず知らずの少女に配慮する気は起きなかった。
ここで一つ長信の頭に疑問がよぎる。
「って、待てよ、金城っつったっけ、お前。なんで俺の名前を知ってるんだ?」
――長信さん、こっちです!
あの時、長信の手を引いた金城は確かに長信を下の名前で呼んでいた。いうまでもないが、長信は金城とは初対面だ。少なくとも長信は彼女の顔にはてんで覚えがない。仮に実は長信は金城と何らかの縁があったとしても、大して深い関係ではないはず。それに普通であれば苗字で呼ぶものだ。それなのに何故、長信を苗字ではなく名前で呼んだのか。
「えーっと、それは、その……言えません」
「はあ?」
長信の咄嗟の言葉に驚いたのか、金城が咄嗟に体を震わせる。手にした紅茶が零れそうなほどの反応だった。
「言えないってどういうことだよ。そんなわけないだろ」
「す、すいません、言えないんです。本当に……すいません」
腑に落ちない長信ではあったが、かといって脅して無理に聞き出そうとする強引さは長信にはない。
ふと長信は思い出す。金城の姿を長信はパチンコ屋の近くで見かけている。その金城と長信はこうして出会うに至った。そこから導かれた発想を、長信は金城に向けて言葉にする。
「……わかった、じゃあ付け加える。例えば、だ。俺は金城のことを知らない。でもお前は俺の名前を知っている。ストーカーとかな。でも俺はそれに関して何も言わない。警察にも連絡しない。だから言って欲しい」
傍から見れば妙な譲歩の仕方であったが、長信としては別になんてことはなかった。長信の見た目は目を惹く。それは良い意味でも悪い意味でもだ。それが起因して揉め事になったこともある。
「ス、ストーカーとかじゃないです……でも、言えません。ごめんなさい」
「謝ってばっかだな、お前」
「い、いえ……その……」
はあ、と長信は思わず溜め息を吐いた。
金城には申し訳ないが、長信としては戦いのことも、目の前の少女のことも、話せば話すほど不信感が募るようであった。金城が手を引いて長信と共に走った行為は、長信を銃弾から助けるような動きに思える。しかしそれにしたって彼女の素性が分からないにも程があった。裏を疑わずにはいられない。
互いに注文した飲み物を啜る時間となる。そこに言葉はなく、長信はこの少女にもう用事はなかった。何も話すことがないのであれば、それまでだ。
飲み干したら帰ろうか、と長信は考えていたのだが、気まずい沈黙を破ろうと勇気を出したのか、金城が口を開く。
「そういえば、長信さん、あ……小田さんは、どこに向かおうとしていたんです?」
世間話をして気を別の方に向けようとしたのか、金城の配慮に長信は一応、合わせることにする。
「寮に帰ろうとしてたんだよ」
「ああ、ということは、今日は実家の方ではなく、ですか?」
「……そうだよ」
その金城の合点がいったかのような言葉に、長信は眉間に皺を寄せた。金城のおそらく何の意図もない今の話は、長信が実家ではなく、寮住まいであることを知っている必要がある。金城がどこまで自分のことを知っているかが長信には分からず、警戒心が段々と湧いてきた。このか弱そうな金城の姿も、長信には何だか金城の正体を勘ぐらせないための隠れ蓑のようなものも見える。
「なるほど……お姉さんは元気ですか?」
長信の腕が上がった。かと思えば、テーブルに拳が叩きつけられる。大きすぎる音に、数少ない店内の何人かが長信に集まった。
嫌でも長信の頭の中に悲惨な過去の光景が蘇る。燃える家、頼りになった父、大好きだった母、愛おしい姉――
そして長信にとって、姉、詩菜のことは、非常に神経質な話題であり、ましてや先ほど出会ったばかりの得体の知れない少女がそれを知っていることは、長信の琴線に触れた。
何度したか分からない金城の怯えるような身震いに、長信は配慮する気のない声色で話しかける。
「俺に姉がいることは、高校の頃から誰にも話していない。そして中学の知り合いだったらまず、俺に姉の話はしない。いいか、これが最後だ。お前が俺の知っていることを全部いってくれ」
これでも長信は威圧感を抑えた方だった。素性は知れないが、一応、普通の少女に見える相手に対して、自分の気持ちとしては一応の譲歩をしたつもりである。
震える金城を助けるような人物はここにはいない。その金城は、精一杯といったように言葉を呟いた。
「いえま、せん……」
「そうか」
長信は結論を出した――金城は信用出来ない。
飲み物の代金を置いて席を立ち上がる長信を、金城は見上げた。何かを言いたげであったが、引き止める言葉が見つからない、そんな表情だった。金城の顔色を意に介さず、長信は背を向ける。
「ついてくんなよ。お前を信じろなんて言う奴の方が、どうかしている」
テーブルに置いた金額は二百五十円。長信が頼んだドリンクバーと同じ金額である。金城の分も払う気など、長信は毛頭なかった。年下の、しかもお嬢様であろう少女の分も支払うなんて、長信からしてみれば意味が分からない。なぜ金に困っていない人の分まで払わなくてはならないのか。年長者の度量なんてものは、長信にはなかった。
長信は寮の帰路をその足で辿る。ここまで時間が遅いと、地下鉄、電車の類は既に通っていない。しかしタクシーは金がかかってしまう。長信の節制癖、貧乏性は徒歩を選んだ。
体を寒気が包む。風が吹けば肌寒さは一層深まり、今の季節を冬だと錯覚しそうになった。
今日は散々な日だった。得体の知れない銃弾に狙われるわ、知らない少女に連れ回されるわと、おおよそいつもの日常のものとはかけ離れていた。華やかな学生生活を送っているとは言い難い長信だったが、本人は別段、彩りや刺激に満ちた生活を求めてもいない。
銃弾というとヤクザぐらいしか思いつかないが、長信はその手の輩と関わり合いはない。警察を頼るという発想が頭を過ぎるが、だとしてもどう話せというのか。警官の白い目を想像して、長信はどうしようもないと頭を動かすのをやめた。
ファミレスのあった商店街通りを離れ、住宅街へと入る。自販機や公園に備え付けられた灯りなどが目立つ。閑散とした外の世界は長信の足音しか音がなく、それが一層、長信が一人であるという孤独感を増長させた。
かに思えたが、長信は遠目に見知らぬ男性を捉える。
紺のスーツで眼鏡をかけた男だ。長信よりも年上だろうが、しかし僅かな明かりから見える年齢は、三十代まで歳を重ねてはいないだろう。いかにも仕事帰りといった社会人の風貌をしていた
だというのに、長信がその男から違和感を得た理由は、長信の直線上に向かい合うように立つ男が、長信から視線を外さずに突っ立っていたからだった。普通ならばそんなことはしない。
その男の目の据わりように、長信はほんのわずかな警戒心を胸に、女性が見知らぬ男との距離が近いから体を守る――そんな程度に身構えつつ、平静を崩さずに男を避け、隣を通る。
しかし、長信が通り過ぎるよりも先に、その男が呟いた。
「似ている。あの忌々しい男に。もしやお前、織田信長、か?」
「は?」
不躾な声を無視してもよかったが、今日、何度か耳にした言葉だ。長信は思わずといったふうに足を止めてしまう。
「それ、よく分からない白いのにも言われましたけど、違います――」
長信は振り返った。そして反射的に体が何かを避ける。
胸に細く裂かれたような痛みを覚え、よくよく自分の胸元に視線を落とす。シャツが一線を描いたように横に裂けており、僅かな赤みが滲み出ていた。自分の血が薄っすらと浮いていることを意識すればするほど、線状の痛みを自覚する。
スーツの男の手に長信は目を向けると、男は想像を超えたものを手にしていた。
長信が刃物と言われて想像するのは、カッターや包丁といった、およそ日常でしか使われないものだ。だが男が手に持っているものは、そんなせいぜい十数センチ程度の刃渡りの物ではない。長信はそれを博物館の映像としてテレビ、映画で流れたものでしか見たことがない。
自分の目がおかしくなければ、その得物は包丁などには存在しない、持ち手と刃物の間に鍔を携えた日本刀だった。
夕方頃に嫌というほど味わった感覚が再び長信に芽生え、鼓動が激しくなるのを意識する。長信の血を僅かに垂らした大それた凶器が目の前にあることもまた、異常事態が再び訪れていることを嫌でも痛感させた。
「ははは! まさかこんなに早く出会えるとは。再び会えて嬉しいぞ、信長よ。お前を負かすことをどれだけ思い描いたことか」
男は大げさなまでに身を振りつつ、演技がかった仕草で口を開く。なぜだろうか、演技のように成り切った男の振る舞いは、妙に様になって見える。
「誰だよ、お前。というか俺は長信。信長だなんて名前じゃねえぞ」
「確かに。私が誰か知らないままでは、過去の恨みを晴らすにしても味気ないものよな」
くっくと男は笑う。不快な笑みだ。相手を見下し、貶す感情を向けられ、長信は僅かに苛立った。
「私は室町幕府十五代将軍、足利義昭だ。お前から受けた行い、忘れたとはいわせんぞ、信長」
足利義昭という名前に、さっと頭を巡らせる。長信はそれなりに青春の時間を勉強に費やした人間だ。現に通う大学もトップのものと比較すれば流石にレベルは落ちるかもしれないが、学力の評判は概ね良いといってもいい。
しかし長信は歴史を専門にしているわけでも何でもない。足利と言われて思い返すのは、足利尊氏といった人物名だ。義昭という名前にピンとはこない。大学受験のために勉強に蓄えた知識は、既に不必要なものから少しずつ薄れていた。
「しらねえよ、足利、えっと、よしあき? なんて奴は」
長信の返事は正直で素直なものだった。
だからこそ、義昭なる人物を刺激した。義昭からしてみれば怒りが体中に駆け巡るような言葉だったのだろう。笑みは崩さず、しかし興奮を抑えきれずに肩を震わしている。
「ふ、ふふ、ははははは! 覚えていないのではなく、知らない? どれだけ私をこけにすればいいのか、貴様は!」
高笑いに激情を孕ませて、義昭は持っている刀を一振りして、滴る血を住宅の塀に飛ばした。
「――死んで詫びろ、この悪党が!」
両手持ちに構え直し、義昭は半歩、長信に向かって踏み込んだ。同時に日本刀を高く持ち上げ、長信へと振り下ろす。
「うおっ!?」
大振りの凶器の存在に長信の体は思わずといった形で、再び大げさなまでに体を動かして得物を避けた。と空気を裂く音が長信の耳に入ってきて、それが嫌でも危機感を煽らせる。
咄嗟の身のこなしで義昭の一撃を躱した長信だったが、その動きは自然と公園へと入る形となった。しまったと長信は心の中で舌打ちする。
公園は狭く、色とりどりの遊具がある程度の、おそらく住宅街で子供を養う親のために建てられたものだ。周囲は縦並ぶ家を仕切るようにフェンスで囲われており、その気になれば登れはするのだろう。だがそれを義昭がむざむざ眺めているとは思えない。
加えて、公園への出入り口は一つしかなく、そこには日本刀を構えた義昭なる男が立っている。長信の逃げ場はどこにもなかった。
再び義昭が長信に迫る。
しかし不思議と凶器への恐怖で身が竦んだりはしなかった。長信はまたしても反射的に足を動かしつつ、体を反らして義昭の刃を避ける。長信はこれで三度、致命傷を避けたことになる。
かつ、長信は公園から抜け出せはしないものの、限られた敷地内で無意識に義昭と距離を取り、義昭の太刀がすぐさま振られることを防いでいた。
あの刀は避けられる。距離も空けられる。ならば長信が公園の出入り口に近づいたときに逃げ出せれば、安全は確保できるかもしれない。
冷や汗が額から浮き出て頬へと流れていくものの、長信はことのほか冷静だった。理解が及ばないながらも、非日常すぎる危機的状況を前にして、それは少し異常なのかもしれない。
焦りもある。驚きもある。恐怖もある。それでいて、余裕はない。荒事の経験はなくもないが、長信は別に暴力に慣れているわけではない。現実主義的な思考が、長信を危機から脱するために体を動かしたといえる。幸い長信は運動がそれなりに得意である。妙な冷静さも日々の生活から培われたものといってもいい。
しかし徐々に考える余裕を持ったことが、感覚で体を動かすことの邪魔をした――長信は躓き、尻もちをつく。
失態。痛恨のミス。自分の命の瀬戸際であるというのに。やってしまったという長信の顔が見て取れたのだろう、距離をとっていた義昭は邪悪な笑みを浮かべ、長信へと駆け寄る。
長信はクソと心の中で呟き、咄嗟に目を閉じた。
耳に複数の足音が段々と近づいてくる――
鋭い痛みが自分を襲うかと思った。だが依然として、刃を思わせる痛みは長信にはない。
自分が感じるものは、まるで重い衣服が自分を纏うようなものであり、長信は目を開く。
そこには刀を振り下ろしたであろう義昭と――
「……お、おい!」
先ほどファミレスにて同席していた金城が、長信を守るように抱き締めていた。
長信は金城の気を確かめるようにして、金城の肩を掴んで顔を見る。眠る一歩手前のような生気を感じさせない面持ちだ。表情に気を遣う余裕がないのだ。先ほどまでころころと顔色を変えていた金城とはまるで違う。
金城は長信の胸に埋まるように体を預けている。金城の背中が長信から見えた。衣服を超えて肉が一線を描くように引き裂かれており、背中は赤一色に染まっている。彼女がいなければ、長信の前身がこうなっていたのだろう。
「なが、のぶ、さん……」
「喋るな、金城、しっかりしろ!」
金城の意識は既に朦朧としており、瞼に力が入らないのか、目は今にも閉じようとしている。いつの間にか、長信は手に熱い滑りを感じていた。それは金城の血であり、金城の体から失われた生き血が、既に辺り一面へと広がっていた。医学の心得なんてない長信でも分かる。金城は助からない。
「ながのぶさん……ぶじで、よかった……」
少女の小さくて柔らかい手が長信の頬に触れる。頬越しに感じる手からはまるで力を感じない。しかし血に浸った金城の手は尋常ではない程に熱い。
義昭の刀が再び金城を襲った。確実に殺すという二度目の袈裟斬り。交差するように金城の背中には傷が走る。飛び散る血と衣服の生地が、僅かな明かりに照らされて長信の目に映った。
金城はその言葉を最後に目を閉じる。閉じて、しまった。瞳を瞑った金城の顔は、痛みに苦しんだ表情ではない。まるで使命を成し遂げたもののような、穏やかなものに見えた。
「か、かな――あ、ああ……」
俺を助けて――人が死んだ。
言いようのない感情の激流が、長信の胸中で暴れ狂う。合わせてそれは長信の過去を刺激した。
燃えて倒壊する家。悲痛な叫び声。父。母。姉――
昔の出来事と感情が綯い交ぜになり、赤黒い怒りが込み上げてくる。
熱を孕んだ怒気と合わせて、何かが腹の奥から昇り上がり、同時に長信という存在を体の内へと引き込んだ。
自分の意識を体の中へと追いやられた長信は、不思議な感覚を得る。自意識を半歩後ろから眺めているような状態。抱きしめる金城の体温も血の熱も感じるが、どこか遠い夢のように思えてしまう。自分の体は思い通りに動く。しかし謎の同調、連動感があった。仮に今、本当に長信の意識が内にあるのだとしたら、長信の体を表で動かしているのは、果たして誰なのだろうか?
「一般人であれば申し訳ないことをしたと思ったが――なんだ、其奴も子孫であったか、なれば仕方がない」
「……なんだと?」
酷くドスの効いた声。内の長信と表の誰かが同じ言葉を喋った。しかし長信だけであれば、ここまでの凄みは出ない。
同時にぱちりと何かが弾けた。火花だ。長信の周囲を幾つかの灯りが生まれては散っていく。しかし当の長信はこの現象には気づいていない。
「ああ、そうだ。これは戦いだ。生き残った者のみが勝者だ。お前だってすでに知っているだろう、信長?」
返事はしない。意味がないからだ。
今の長信には言葉を返す余裕などなく、一つの感情が頭を埋め尽くしている。
長信は金城の体をゆっくりと地面に下ろし、義昭と相対する。体中の血が沸騰しているかと錯覚した。全身が熱く燃え上がっているように感じる。体の震えが止まらないのは、義昭の刀が怖いのではなく、高まった怒りの所為だ。
視線で射殺すような長信の面持ちに、義昭はひ、と小さく怯えて一歩下がった。しかしすぐに唇を引き締め、再び刀を構える。
義昭との距離が空いたので、刀はすぐには届かなくなった。この間を使って長信は立ち上がる。
一拍置いて、二人を夜の肌寒い風が包む。
先に動いたのは長信だった。ただ憎い敵を倒す気持ちを胸に、一直線に走って義昭の元へと向かう。
鬼のような形相の長信に対して、義昭は真上に刀を振り上げる。長信の前身を袈裟斬りにする構えであったが、何もこれで戦いが決まるとは義昭も思っていない。相手の様子を伺い、どう行動して来るのかを見るための一太刀だった。
地面を蹴り上げる長信は、義昭の目の前まで迫る。機を見計らっていた義昭の刀が振り下ろされる。
――さあ、どう来る信長。義昭としてはこの一太刀を長信がどうするか、それが肝心であった。どこに武器すら持たない人間が、刀を持つ相手に一直線に向かってくるというのか。
しかし、義昭の思惑を外す動きを長信は見せる。
左腕で頭を守るように上へと伸ばし、義昭の刀を受け止めた。なっ、と義昭の口から声が漏れる。
長信はただ咄嗟に体がそのように動いただけであった。考えた上での行動ではない。何かが来たから咄嗟に手が伸びたといった反射的な動き。事実、数百年前の凶器が長信の腕を襲う。
しかし義昭の一撃は筋肉を割るように長信の腕へと切り込んだが、骨を断つには至らなかった。義昭の振り上げる刀と長信の腕が近づき過ぎた所為だ。
長信の腕が幾分か長かったからか、腕の位置が高くなり、義昭の刀の振り被りを弱めたのかもしれない。それでも長信にまともな冷静さがあれば、過去、経験したことのない肉を直に切り分けられる痛みに悲鳴を上げている。だが長信の頭の中は、眼の前の男に対する怒りと殺意で満たされていた。
義昭が驚くのと同時に、長信の無事な右腕の拳が義昭の顎をかち上げ、義昭に空を見上げさせる。
「がっ!」
骨と骨が肉越しに接触する感触。
義昭が痛みに嘆くよりも先に、長信の拳が再度、今度は義昭の腹を襲う。
「ふぐっ!」
うめき声と共に義昭は体を折り曲げた。そこに三度目の長信の赤い拳が義昭の顔を殴りつける。
ガラン、と鈍い音と共に、義昭の刀が地に落ちた。
地面を背中に付け、義昭はそのまま倒れ込んでしまった。長信はそのまま義昭の腹を潰すように座り、右拳を握り締めて肘を引く。
「お、おい、ま、待て――」
「うるさい」
長信の拳が、義昭の顔へと打ち付けられる。かと思えば、今度は切られた左腕を引き、そちらの拳を握りしめて再び義昭の顔を殴る。
右、左、右、左と。
指の皮が義昭の歯とぶつかり、裂けて血に滲もうとも。
長信は激情に任せて義昭の顔を潰す機械となった。
りん、という音が耳に入る。
「信長殿、そこまでにしましょう」
それは果心居士の持つ鈴の音だ。これは彼、あるいは彼女がその場に現れたことを示すのだが、長信は声をかけられるまで気づきはしなかった。
「ああ?」
長信の隣には、果心居士がいつの間にか立っている。パチンコ屋で出会った時と同じ服装で、薄い笑みを浮かべていた。
「すでに義昭様は負けを認め、それを申し上げようとしている御様子。しかしながら、信長殿が拳を振るい続けている所為で、言葉を出せないようです。加えて、それ以上の行いは、もはや人の所業ではないと見受けられますが、いかがでしょうか?」
長信は義昭の顔にようやく目を向ける。その顔はまさしく原型をとどめていなかった。至るところが赤く腫れ、血に塗れている。惨い有様といえた。かろうじて開く口からは、たどたどしく何か言葉を口にしているようだが、どうにも聞き取れない。長信自身がしたことではあったが、義昭の歯が数本なくなっている所為で、聞き取りにくくあった。
「うわっ!」
自分の上げた驚きの声とともに、意識が吸い上げられるようにして表へと出てきた。先ほどの夢心地のような、それでいて誰かが長信に代わっていたものとは違う、普段通りの自分へと戻る。なんとなく長信は自分の顔を両手で触った。頬で手の平の肉の弾力と熱い血液の滑りを感じて、自分の体が本当に自分のものであることを実感する。
自然と長信の目には、見るに堪えないものに成り果てた義昭の顔が映った。酷い状態ではあったが、しかし義昭が金城にしたことを思い返すと、再び沸々と怒りが腹の中に生まれてくる。
「長信殿、それなら大丈夫です」
長信の心を読んだように、果心居士がそう告げた。
「は?」
「……はあ。最初お話したことに聞く耳をお持ちにならないから分からないのです。まあ、見ていてください」
呆れ顔の果心居士の言葉を最後に、義昭の体が白くなり始める。
「うお、なんだ?」
急に発した気味の悪さに、数分の間、マウントポジションをとっていた義昭の腹から離れる。
不自然な白さを帯びる義昭の体からは、白い雪のような光が体中から放出し始めている。段々と光が辺りに放たれては消えていき、それに比例するように義昭の全身の白さが濃くなっていった。
ちくしょう、ちくしょう、と、義昭は嘆いており、その右腕が空へと伸びる。かと思えば、その手には巻物が握られていた。長信がこの現象を不思議に思うよりも先に、どこからともなく何かが飛んできては巻物を掴む。
鳥――鷹だ。鷹はそのまま輪郭がぶれたように見え、その拍子に巻物を掴む鷹の姿が何羽、何十羽にも膨れ上がった。長信は忍者の影分身を思い浮かべる。鷹達は至るところへと飛んでいき、羽音も立てずに夜の闇へと消えていく。
「なんだ、今のは……」
「知り、たいか?」
既に体の輪郭も見えなくなるほどまで白くなりつつある義昭は、手から先程と同じ巻物を生み出すと、長信に放り投げる。
受け取った巻物を長信は紐解いて開いた。中は筆で文字が描かれており、こう書かれている。
――怨敵、織田信長は東京都、京ノ上にいる。子孫の名は小田長信。我、足利義昭は生前の悔いを晴らせずして散ることとなった。志を同じものとする将は、奴を討ち、我の無念を晴らして欲しい――
「私の能力は、現存する全武将に対して、私の意図を届けることだ……お前の持つ巻物と同じ内容のものをな」
「なんだと……?」
「お前を私自身の手で討てなかったことが、無念を塗り重ねるようで仕方がない……が、私を慕う将に願いを託し、この世から去ることとしよう。せいぜい寝首を欠かれる日を過ごし、震えて生きることだな」
息も絶え絶えな様子の義昭だったが、恨み言を無理やりにでも言いたかったのだろう。その言葉には憎しみの色が宿っていた。
長信はようやく言葉の意味を理解した。最後の悪あがきというやつを受けてしまった。それは長信を以後、苦境に追いやり苦しめるのだろう。
「お前はせっかく生まれ直せたというのに、また人の手を借りんと何も出来んのだな」
長信の口から出た言葉だったが、長信の頭で考えたものではなかった。誰かの意思が長信の口を使って喋ったかのようだった。
てんで言葉の意味が長信には分からなかったが、義昭の崩れた顔が苦渋に染まる。ひと際大きく口を開けて何かを言おうとした。だが完全に白くなった義昭の体から、光の放出が止まる方が先であった。
段々と白さが薄まり夜の景色へと馴染んで行く。義昭はいなくなっていた。いつの間にか受け取った巻物も消えている。
「さあ、次は潤様です」
「潤……金城っ、――そうだ!」
急いで金城の元へと駆け寄った長信は、そのまま金城の体を抱き寄せる。
「おい、金城、金城! おい!」
情けない声色だった。復讐を終えた長信の心は、怒りが消え失せた分、悲しみが洪水のように押し寄せてくる。
しかし、果心居士はさも当たり前のように、長信に告げた。
「大丈夫ですよ、潤殿は。傷はもう癒えています」
「……はあ?」
「子孫の起こした傷跡は、子孫が消滅することで癒えるのです。最初にご説明致しましたよ、長信殿」
呆れたように話す果心居士の言葉を聞いて、長信は金城の背中に触れる。確かに金城の背中には切り傷がない。衣服が斜め十字に裂けているだけだ。
気づけば長信自身の左腕の傷も、殴りすぎて指の皮が擦り剥けた痕も、何もかもが嘘ように存在しなかった。血溜まりと化していた金城の周りも、よく見てみれば画一的で無機質なコンクリートが露になっている。目を凝らしても血の一滴すら見当たらない。
「潤殿が亡くなられたのなら、既に光に包まれています。今は痛みで気を失っただけでしょう」
「そ、そうか……よかった……」
安堵する長信の腕の中で、ううん、と金城が呻く。
「なが、のぶ、さん……?」
「金城……!」
もう目を開けることはないと思った金城が、目を開いた。その事実に、長信は堪えきれなくなったものが目の端から湧き出て頬を伝う。
あの時は死が近づく両親を、そして姉を助けることが出来なかった。しかし今、長信は目の前の命を救うことが出来た。その事実に、長信は金城の胸元に顔を埋め、力いっぱいに体を抱きしめる。
「本当に、本当によかった……」
「もう、いた、痛いです……ながのぶ――あ、小田さん……」
「馬鹿、呼び方なんてどうでもいい。好きに呼んでくれ」
「……では、長信さん。わたしも長信さんが無事で、本当に、本当によかった……」
長信が抱き締める金城という少女は、長信のことを一方的に知っており、なおかつその理由を明かさない、素性の知れない少女である。不信感を抱くなという方が無理な話だ。
しかしその少女は身を挺して長信のことを助けてくれた。それこそ致命傷を受けながらも。そんな少女を、長信は見捨てることが出来ない。助けたい、自分の所為で死なないで欲しい、生きていて欲しい――
長信は自分の気持ちが落ち着くまで、金城の体を抱きしめ続けた。
長脳は身悶えするような心地だった。
何しろあの時は場の流れで自然なように見えたかも知れないが、女の子、それも自分より年下の胸に顔を埋めていたのだ。涙を流して自分よりも若い子を抱きしめるという情けない姿を露呈してしまい、顔から火が出そうな程に額や頬が熱を帯びている。これは夜風を浴びるぐらいではとても治まりそうにもない。
なので今、近くの自販機まで向かっているのは、顔の火照りを覚ます間が欲しかったからだ。金城と、そして何故か果心居士もついてきており、長信と金城はそれぞれ自販機で飲み物を買う。
ここにきて長信の貧乏性、甲斐性のなさが出た。命の恩人だというのに、金城の飲み物の代金を出し損ねた自分をしまったと恥じた。金城はもう飲み物を口にし始めている。ここまで来て後から数百円を渡すのは、何というか、こう、ださい。
考えてもこの小さな後悔は埋まらない。長信は無理矢理に果心居士へと話を振った。
「んで、つまるところ、果心居士……お前のいうことが本当っていうことか」
「ようやくご理解いただけてなによりです、長信殿」
異常事態の連続だったが、今日起こった出来事が全て事実であることから、もう今更驚きはしない。
「加えて、信長殿を宿した当日から災難ではありますね、長信殿は」
にやついた果心居士のその言葉は、義昭の最期の行いを思い起こさせる。隣の金城は先程から顔を青褪めさせたままだった。
長信は巻物に書かれていた内容を頭で反芻する。
――怨敵、織田信長は東京都、京ノ上にいる。子孫の名は小田長信。我、足利義昭は生前の悔いを晴らせずして散ることとなった。志を同じものとする将は、奴を討ち、我の無念を晴らして欲しい――
「……今いる武将全員に長信さんの居場所がバレたなんて……それってつまり、長信さんを子孫達がいつでも狙うことが出来るってことに……」
金城から先行きへの危機感が口から洩れる。しかしようやく顔の熱も冷めた当本人の長信は、どちらかといえば平常通りの心境であった。
「やべえな、それは」
「やばいなんて――そんな、そんな気楽なものじゃないです! 長信さん、というか、織田信長に恨みを抱く武将はいくらでもいるんです! それってつまりは、子孫である長信さんを狙いに、色んなところから武将がやってくるってことなんです!」
思わずといったように声を出す金城。今日一番の彼女の大声が、夜の住宅街に響いた。
「あー……」
悲痛なまでの金城の声色に、それが状況の危うさを物語らないでもない。が、長信は何というか、言葉に詰まった。
そもそも長信は、武将の知識をあまり持ち合わせていない。辛うじて学校の教科書に乗っている有名所が何をしたとか、その程度である。
かといって義昭との死闘を終えたのだ。頭の中には金城の背中を襲った刃渡りのある刀の脅威がこべりついて離れない。というのに長信は金城ほど焦ってはいなかった。それは金城が助かった喜びが、まだ胸の内を締めているのが理由かもしれない。しかしそれだけではない。
「でも、お前も一緒にいてくれるんだろう?」
長信のその言葉に、金城ははっと顔を引き締める。
一度は信用ならない、不審者としてこの少女を突き放した長信だった。今ではそんな彼女のことが、出会ってまだ一日も経っていないというのに大切な存在となった。
「はい、長信さんは、わたしが命に代えてもお守りいたします」
二度も守られているのだ。加えてまた守られるなんて、そんな情けないことは出来ない。そんな本音が長信の脳裏を過るが、金城の真剣な眼差しへの返答としては無粋だと思い、言葉を合わせる。
「そうかい。じゃあ、これからよろしくな――潤」
なぜ金城が長信を名前で呼ぶかは分からないが、片方だけそのように呼ぶのはおかしい。信頼を込めて長信は呼び方を変えた。同時に飲み物の缶を潤に向ける。
金城あらため、潤も何か言いたげではったが、その顔には笑みが浮かんでおり、両手に持った紅茶の缶を向けて来る。少々、若い男のノリが過ぎたかもしれないと思ったが、潤は長信に合わせてくれた。こん、と缶同士が当たって音が鳴った。
二人の仲の様子に果心居士は笑みを深め、ふふ、と声を漏らす。
果心居士の眼前には英傑を宿す人物が佇んでいる。
片方は日本をその武力を持って平定しようと試みたものの、道半ばにて謀反を受けて亡くなった人物、織田信長。
もう片方は、信長亡き後、信長の築いた下地を引継ぎ、天下統一を果たした豊臣秀吉。
戦国時代の中でも大きく名を知らしめた武将の意志を宿すこの子らが、様々な思惑のひしめく日常をどう過ごしていくのか――行く末が楽しみで仕方がないといった風に、果心居士は想いを馳せる。
それを最後に、二人の空気をこれ以上邪魔するのは風情を崩すと、人知れずに夜の闇へと姿を消していくのであった。