社交界の花形男装令嬢に婚約破棄を申し込んでも、もう遅かった
「すまない。君との婚約を解消させてもらいたい」
丁度ダンスの為の音楽が止まった瞬間。
彼の口から、その言葉が発せられる。
彼女は一瞬目を見張った。
それはスケルツォ侯爵邸で行われていたパーティーもたけなわの頃。
広間から少し離れた露台で、バート――バーソロミュー・オールグッド伯爵は、婚約者であるマクリーン子爵令嬢、フランシスに10年に渡る婚約の解消を願い出たのだ。
二人とも今年20歳、彼らの母親が仲の良い従姉妹同士であったため、幼い頃よりよく会う機会があった。
なので婚約もその延長で決まっており、バートが大学を卒業したら結婚しようということになっていたのだが。
「……それは一体、どういうこと?」
あくまでも落ち着いたアルトで、フランが問いかける。
彼女はそれほど取り乱してはいないように、バートには見えた。
フランはいつもそうだ。
昔から頼りになるのは彼女のほうであり、パーティーの花となるのも彼女だ。
男女共に目線をくぎ付けにするのがフランシス・マクリーンという人間だった。
そもそもマクリーン家は実に進歩的で自由闊達な家柄だ。
男や女と言った規範にはめることなく、子供らを伸び伸びと育てている。
その結果、フランシスには両性具有的と言うべき魅力が生まれていた。
すらりと背が高く、今夜は少し赤みが勝った独特の鳶色の髪を、結わずに首の後ろで一つに結んでいる。
顔立ちも整ってはいるが、どこか中性的な印象があった。
今宵は男装しており、こうして躰に合わせつつも女性的な線を隠す様に仕立てさせた夜会服を身に纏っていると、その辺の男では到底かなわない魅力があった。
歓声を上げ、熱いまなざしを向ける令嬢たちのダンスのお相手で、一晩中忙しくフロアを動き回るのだ。
ドレスを身に纏うことは滅多にないが、その時は勿論非常に美しい女性となる。
その気になれば幾らでも淑やかで可憐に振舞う様を見せられるのだ。
まさに完璧な存在ともいえる。
そしてバートは至って平凡な青年だ。
茶色い髪に茶色い瞳。
学校の成績も、身長も、顔立ちも、悪くはないが目立つものもない。
穏やかで誠実な気質であるのが、一番の美点と言える。
オールグッド家は実に普通の貴族であり、数年前に母が他界して以来、社交界とも縁が薄い。
しかも先日父親が急死したため、家を継ぐために忙しかった、そのために今日もさっきついたばかりだ。
実に数か月ぶりに婚約者との逢瀬である、今は。
そんなときにこんなことを告げるような男では本来ないはずだった。
「どういうこともなにも、僕は君との婚約を解消したいんだ。……僕らは相応しくないからね」
唇をゆがませ、こんな時でなければ笑っているように見える顔にバートはなる。
「なぜそんなことを言うんだい?」
フランは全く表情を変えようとはしない。
いつもの中性的な口調のままに更に問う。
「なぜって、今夜も君は令嬢がたからのお誘いで凄かったじゃないか。令嬢がただけじゃない、紳士たちも君を見ているよ、君だって気付いているだろう?」
ゆっくりと目を伏せ、悲しげに彼は言う。
それを見ながら婚約者は飄々と肩をすくめた。
「そりゃあね。でも、そんなこと気にするまでもないだろう?今までだってそうだった」
いつだって、バートは優しくフランを見守ってくれていて、ラストダンスだけは守ってくれとしか言わなかった。
「今まではね。……僕はもう限界なんだよフラン。君がそうして男装しているのを見るのも、何もかもが」
実に淡々とした口調で、バートは告げる。
フランの目を真っすぐに見ていても、その茶色い瞳には何も映っていないかのようだ。
どこか遠くを、定まらない何かを見ているようだった。
「私が嫌になったということ?」
「――ああ。君とはもう、一緒に何ていられない、居たくもない」
さようなら。
そう言い残し、バートは露台から去っていく。
そのままパーティーからも立ち去るつもりなのだろう。
フランはただその背中を見つめていた。
バートは待たせていた馬車に乗り込んだ。
中には従僕が一人、旅装で待っている。
「全て済んだよ、行こう。……寒いんだっけねえ、その湖東地方ってやつは」
「暖かいところではないそうですね。……毛皮の付いたコートは一枚だけは残しておきました」
「それならよかった。贅沢は言えないのはわかるけど、寒いのはきついからねえ」
――父親が投資に失敗していたのが分かったのは、つい先日のことだった。
母が亡くなって以来、父は少々どころでなく、自暴自棄になっていたのはバートも知っていたが、まさかこれまでとは思いもせず。
財産は一切合切持っていかれて、残ったのは母方から受け継いだ田舎の僅かな領地のみ。
それでも食うに困らないだけでもありがたいと、バートは思い、行くことにした。
ただ旅立つ前にどうしてもやらなければいけなかったのは、フランを解放することだ。
湖東は都とは違い、未だ古い習慣に囚われ、不自由も多いと聞く。
彼女は彼女に相応しい場所にいなければならない。
あの自由さは田舎では受け入れられず、きっと萎れてしまうだろう。
いつだって彼女は彼女らしくいて欲しい、彼女が己の思うが儘生きられないなら傍に居る資格などない。
輝く彼女の思い出さえあればいいと、そう、バートは思っていた。
「……旦那様、」
「なんだい?」
「……蒸留酒入りの熱いお茶がありますので、飲まれたいときは仰ってください」
「ああ、ありがとう。今夜は当分明けなさそうだねえ」
数日後。
尻の皮がむけそうになりつつも、無事に湖東地方に辿り着いたバートを出迎えたのは、現地の使用人と――。
「やあ、思ったより早かったね」
「ふ、フラン?!」
地味なドレスに身を包んだ一応元婚約者だった。
こじんまりとしたコテージの女主人と言った風情であり、とてもかの麗人とは思えない。
「な、き、こ」
「なんで君がここにって?うちの母上がここを知らないと思うかね?」
そう言えばそうだと、呆然としながらバートは思うも、それがフランがいる理由にはなっていないことにも気づく。
しかし言葉が付いて行かないまま口をはくはくさせると、彼女は微笑んで言った。
「君が二頭立ての馬車で来るところを、私が駿馬に乗って来ただけだ。荷物は4頭立てで運んだからもう届いているよ、部屋の方も多少なりとも片づけてみた」
そうか、それなら納得――ではない。
「そもそも僕と君は婚約を解消したろう?!」
「君、私は一言だって承諾してはないよ。君が一方的に告げてきただけだ」
ちっちっちと指を横に振られ、そう言えば確かに、と頷かざるを得なかった。
「私はね、社交界なんて全然未練はないんだよ。好きな人の傍に居たいんだ。それに」
「そ、れに?」
「窮屈な田舎を思うが儘に変えていくのも、楽しいとは思わないかい、我が君?」
実に綺麗に微笑まれ、バートは頷く以外の返事はもう与えられていなかった。
フランがここまで覚悟していて返すのはもう、不可能と言って良かった。
そして湖東地方に新たなムーブメントが起こっていくのは、又数年先の話である。