第六話 恐怖と憎しみ
翼があるっていうのはなかなかどうして快適だな。まぁ飛ぶだけならいらないらしいが。
これがふわふわな羽なら寝床にもできそうだったんだが、俺の翼は黒い霧だからな。それすら叶わない。
大よそ飛び続ける事十数分、眼下に忌々しい魔王城を見つけた。
滑空し、門の前に降り立てば魔王討伐直前のやりとりを思い出す。
あの時は、緊張こそしていたが楽しかった。仲間と共に強大な敵に挑むのはいつだって燃えるものだ。
フリクトなんかはこの気持ちに深く共感してくれたものだが、それも全て俺を油断させるためだったのだろう。おかげで俺の背中はまったくの無防備を晒すことになった。
傷は癒えているはずだが、幾らかまだ背中には痛みが残っているような感覚がする。
「翼は……よかった、出し入れ可能なんだな」
背中の翼を収めるイメージをすれば黒い霧は虚空へと飛散した。
「ミカ魔王城なんて初めて見たよ。すっごく大きいんだね」
「その割に中はすかすかだったけどな」
突入時には階段なども登ったりはしたがほとんど道なりだった。
「それじゃあ早く行こうよお兄ちゃん!」
「そうだな」
今回の門は開いてくれそうにないので、自らの手で押し込む。
重厚な音と共に門が開くと、吹き抜けのホールが出迎えてくれた。
だが、最初に来た時とは幾らか様子が違う。
なんというか全体的に薄暗く、一番最奥が暗くて目視出来ない。
「お兄ちゃん、この先なんかいるよ」
ミカが言うと、唸り声と共に三つの頭を持った俺より一回り大きな獣が暗闇から姿を現す。
刹那、三つの頭がこちらへと猛進。俺は咄嗟に後ろへ跳ねると、元々いたところは醜悪なギザギザの歯に噛みちぎられていた。
「さしずめ番犬といったところか」
「魔獣ケルベロスかー。これくらいなら余裕だねお兄ちゃん」
「よく言ってくれる」
勇者の勉強中に学んだが、確かこいつは毒攻撃をしてくるはずだ。今の俺の心強い味方は【天秤】だが、たぶん毒は力じゃないから意味ないんだよな。
攻めあぐねていると、こちらが怯んでるものと思ったのか、三つの頭は立て続けに紫の玉を放出してくる。恐らくあれは毒の塊。
跳ねながら避けるも、毒の弾丸はテンポよく放たれ俺に近づく暇を与えさせない。
「ねぇお兄ちゃん。どうしてそんなに怖がってるの? 攻めなよ」
ギャラリーと化したミカが少し離れたところで退屈そうに言う。
「そうは言っても毒って強さの度合いじゃ即回って動けなくなるんだぞ!」
それはつまり自己治癒できない事を意味する。サポーターさえ無事なら治癒してくれるため気にせず突撃できるんだが。
ふとフィリアの姿が脳裏をよぎりすぐさま振り払う。
今の俺は一人だ。仲間はいない。パーティー行動ばっかりだったから慣れないとな。
「なぁミカ。お前ひょっとして状態異常治す魔法とか持ってたりしないか?」
「まぁあるにはあるけど、別にそんなの無くたって大丈夫だよ?」
「どういうことだ?」
「だって天使に状態異常は効かないもん。天使の依り代であるお兄ちゃんもそれは同じだよ? それにお兄ちゃんが毒で動けなくなったらミカも動けなくなるから意味ないし」
「なに?」
つい立ち止ってしまうと、紫の玉が顔面に被弾する。
「あぁ……」
目に入った。最悪だ。しかも臭い。
だが、一向に毒が回る気配は無かった。どうやらミカの言ってる事は嘘じゃないらしい。
「そういう事ならこちらから行かせてもらうか」
俺は踏み込み、ケルベロスとの間合いを詰める。毒の玉の迎撃を受けるが、気にせず剣をひと薙ぎ。散った液体はむき出しの上半身に散るが、傷一つつかない。
予想外だったのか、ケルベロスが硬直している隙に懐へと潜り込む。刃を滑り込ませようとするが、醜悪な歯が俺を噛みちぎらんと接近。俺は咄嗟に跳ね上に逃れると、がら空きの真ん中の脳天に聖剣を突き刺す。
薄暗い城内に断末魔が響いた。ケルベロスが俺を振り落とさんと暴れる。
俺は剣を残し、飛翔。とどめに【ファイアーボールⅢ】をそれぞれの左右の頭に叩き込んだ。
焦げ付いた匂いが鼻につくと、静止した獣は地面に崩れ落ちる。
「すごいすごい! 流石勇者やってだけの事はあるね。鮮やかな身のこなしだったよ」
「そりゃどうも」
今となっちゃ勇者なんて言葉は忌々しいが、そいつをやってたおかげで勝てたんだから皮肉な話だよなまったく。
複雑な心境の中、勇者のトレードマークである聖剣を抜くと、ふと薄暗かった視界が明瞭になる。
反射的に振りむくと、大階段の踊り場には忌まわしい白髪女の姿があった。
「一体何の騒……」
あちらもこちらに気付いたのか、不意に言葉を止める。
「あらあら、あらあらあら……これは夢でも見ているのかしらぁ?」
驚いた様子でこちらを見下ろす女は、俺を好き勝手弄んだ魔王だった。
喉元から笑いがこみ上げてくる。
「さっきぶりにしては少し経ちすぎてるかもしれないが、随分と世話になったな?」
「まぁ! やっぱりそうなのね? アスト君なのねぇ?」
魔王が胸元で自らの手を握りしめいやらしい笑みを浮かべる。
「でもおかしいわねぇ? あんな傷、【ブラッドヒール】でもない限り治せないと思うのだけれど、どうしてそんなにきれいな姿で一人立っているのかしら。しかもケルベロスちゃんまで殺して」
魔王は心底驚いている様子だが、無理もない。捨てたはずのボロキレがその日のうちに綺麗になって戻って来るんだもんな。俺なら何かのドッキリかと疑うね。
だがそれよりもこの魔王少し気になる事を言っていたなと、ケルベロスの頭をつついている天使の方を見る。
「ミカはお兄ちゃんにしか見えて無いよ。さっきも言ったけどミカはゴーストみたいな存在だからね。あっちはこっちに干渉できないし、こっちもお兄ちゃんを介してじゃないとあっちに干渉できない」
「なるほどな」
「私の質問に答えず自分が殺した相手に何を話しかけているのかしらね? まったく奇妙な子」
魔王は少し不機嫌そうに言う。
本当にミカの事は見えてないんだな。おかげで魔王には俺がケルベロスの死体と話すような異常者に見えているらしい。
「それじゃ、ミカは適当なところで見とくからいっぱい楽しませてね、お兄ちゃん」
そう言って飛び立つと、ミカはシャンデリアの上にちょこんと座る。完全に観戦体勢だな。
「悪いな魔王。どうにもお前と話すよりは楽しそうだったもんでな」
「あらあら? それで、物言わぬ肉塊とは何か建設的なお話ができたのかしら?」
「ああそれはもう色々なやり取りをな。だがこいつはどうやら人見知りらしい。お前が来てからというのもずっと黙りこくってやがる」
「まぁいいわ」
肩をすくめて見せると、魔王が踊り場からこちらへと降り立つ。
その姿を間近で見ると、不意にあの部屋での出来事が頭の中を駆け巡った。
「うっ……」
胃の奥から不快な液体がこみ上げ、つい膝をついてしまう。
脳裏には愉悦に満たされた魔王の邪悪な笑い声が反芻していた。
思ったより、身体は正直だったってわけか。情けないなまったく。
「あ~らあらあら、大丈夫かしらぁ? 長旅で疲れたでしょう? とりあえず私の部屋で……」
「黙れッ!」
差し出され頬に触れた冷たい手を振り払う。
「うーん、この調子だとまたすぐ壊れちゃいそうだけど仕方ないわね。どうしてかは分からないけれど、すっかり綺麗になっているのだから存分に楽しまなくちゃ勿体ないわぁ」
魔王の中で既に俺を弄ぶことは規定事項らしい。
ふざけやがって……ふざけやがって……。俺をなんだと思ってやがる……!
怒りが臓の奥からこみあげる。しかし溢れ出る怒りとは裏腹に、身体はなかなか動いてくれようとしなかった。
それは偏に怒りと同時に恐怖の感情がドクドク湧き上がっているからに他ならなない。
ああクソ、なんて情けないんだ。俺はどうしてこんなに弱いんだ。
頭の中で魔王の笑い声で満たされる。魔王の声で満たされる。痛み、苦しみ、悲しみ、全てが俺の心をへし折らんと畳みかけてきた。
――大丈夫だよお兄ちゃん。
ふと、頭の中に透き通った声が聞こえる。
――お兄ちゃんはもう一人じゃない。お兄ちゃんにはミカがいるよ。
まさに天啓だった。恐怖や苦しみがほんの少し和らぐ心持ちがする。
俺は、うまくできるだろうか。
口では復讐だのなんだと大言壮語を吐きつつ、いざその対象を前にしたらこれだ。襲い来る恐怖に呑まれ身動きがとれなくなっている。
――もちろんだよ。だってお兄ちゃんはそれだけの力を得たでしょ?
ユニーク魔法【天秤】。他にも色々と力は授かった。そう、俺はついさっきのボロキレの俺とはまるで違う力を得たのだ。
だが、それを以ってしても俺の中には恐怖が居座る。
――ねぇお兄ちゃん。その感情は本当に恐怖なのかな?
本当に恐怖かどうかだって? こんな暗いもの、恐怖以外の何者でも……。
――違うよ。それはね、憎しみだよ。
憎しみ?
――そう。その暗いものはお兄ちゃんを押しとどめるものじゃない。お兄ちゃんの背中を押してくれる感情。
俺の背中を押してくれる感情……。
――確かにそこには恐怖もあるかもしれない。でもね、いっぱいある憎しみは、それすらも変容させる。
恐怖を、憎しみに。
相手が怖い。ならばその怖いものを消せばいい?
暗く冷たかったはずの感情が、だんだん熱を帯びていく。
――さぁ行こうよ。お兄ちゃんの復讐はまだ始まったばかりだからさ!
ミカの声が脳に響く。
くすぶっていた黒い感情が、真っ暗な感情と混ざり合い、やがて烈火のごとく煮えたぎる。
「……【天秤】」
「なっ……!」
魔王が後ずさろうとするのが、胸倉をつかみ引き寄せる。
「さっき何故ここで立っているか聞いたな? それはお前を殺すためだ」
魔王を突き放すと、その鳩尾を思い切り蹴り上げる。
「あッ……!」
派手に吹き飛ぶと、魔王の肢体は奥の花瓶にぶち当たる。破片が盛大に飛び散った。
まったく俺は何を怖がっていたんだろうな。少し蹴ればあんなにも飛んでいくヒトに、恐れるものは何一つなかった。