一目惚れ
江戸の、とある銭湯での出来事であった。
数日の商人修行はその苛烈さが驚くほどであった。自らのからだをこれ以上にないというほど鞭打ち、町中を走り回ったのは初めてだったからである。
(からだの彼方此方が痛んでかなわない……)
太腿をさすりながらにそう思うのであったが、張った脚は棒のようで思うようにはいかない。立ち上がり歩くのにもつらいというのは新鮮であったが、何よりも痛みが苦であった。
やっとの思いで銭湯に着くと、いまかと待っていた藤次郎に尻をはたかれる。
「こら兵衛三郎、おせぇぞ!」
「いっ……!!」
あまりにも痛かったものだから、俺はその場で飛び上がってしまっていた。そのようすにけらけらと笑う藤次郎には、それが己の兄貴分ながらも強い怒りがこみ上げた。
「何してんだよ!!」
叩かれて痛むのは尻ではなかった。酷使した脚の方がじんじんと痛むのであった。脱衣にも困るほど痛むものだから、これまた藤次郎の容赦ない平手が俺を襲う。さらにそれが笑われるのがとても腹立たしかったが、俺の諦める方が早かった。
藤次郎は俺をからかうのが飽きると、すぐさま風呂に行ってしまった。それも腹立たしかったが、いつもの事であるがゆえにすぐに気も冷めてしまった。
着物を脱いだ俺はついにとの思いで湯に向かう。銭湯に来るのはめったにないことだったが、今日の石榴口をくぐるのは以前までよりもはるかに億劫に感じられた。湯船に浸かるのにも腰を下ろすのだから当然脚が痛む。しかし、熱い湯に浸かることで痛みをこのひと時だけでも和らげられるのはとても良いものであた。
「ふう……、生き返るようだ」
「大げさな奴だ」
感嘆の声を上げる俺に、藤次郎が横で呆れたような顔をする。誰のせいであったろうかと口に出そうとして、すんでのところで飲み込んだ。これでいつも取っ組み合いになるのだから、場をわきまえなければいけない。
からだを洗いに行くのにも当然痛みが伴うが、先ほどよりも幾ばくかましになった。やはり俺に興味の失せた藤次郎はそそくさと湯から上がって湯女に背を流させていたのだった。自分もからだを洗うが、こわばっていたのは脚だけでなかったようで、腕がうまく背中を洗えていなかった。
垢すりに四苦八苦していると声をかけられた。
「垢すりしましょうか」
「すまないね、頼むよ」
そう言って背後を一瞥すると、幼い湯女のように見える。背に触れられている感覚からも、その手の小さいことがうかがえた。しかし、垢すりをする力は強い。幼いといっても背の高いのも分かった。
自分があまり好きな話ではなかったが、やはり湯女であればこの幼子も男の相手をいつかするのだろうと思うと、心苦しくなった。
「ありがとう。もう十分だよ」
そう言いながら振り向くと、そこには湯女であるのがもったいないほど可愛らしい少女がいた。年は十ほどだろうと見えた。髪は結い上げるわけでもないのに長い。垂らしているだけの髪だが、毛先は綺麗に切りそろえられていた。顔は細く、目は切れ長であった。
「……あの」
少女が口を開くと、その顔は困惑の色を見せていた。俺は知らぬ間に少女の髪に触れていたらしかった。すぐさま手を引くのだったが、そうしながらも己が何をしていたかおぼろげであった。
そして、やっと我に返り、何か弁明をとの思いにかられた。しかし、口をついて出たのは可愛らしいの一言であった。少女が恥ずかしそうにしていたのもあって、すぐに駄賃を渡してしまおうと財布を手にして戻ってきていた。
「じゃあ、これをあげよう。少ないかもしれないが……」
そうは言ったが、少女が嬉しそうに受け取ってくれたのは誇らしかった。
「ありがとうございます」
目の前の可愛らしい少女は、とても美しい笑顔を浮かべてくれたのであった。
その後の記憶が曖昧で、翌朝に藤次郎に聞かされた話には俺が長くうわの空であったことであった。
俺はこの銭湯での出来事を一目惚れであったろうと思った。




