精霊の愛し子の恋
精霊の愛し子、と呼ばれる存在がいる。
意志を持った魔力の塊とされる精霊に愛され、その身を守護される特殊な存在だ。
──精霊は時に人間の基準で考えればやり過ぎと言われるような形であっても、愛し子のためを思って行動することがあった。
クロエ・アリーシュの婚約者フィン・スヴィルは、“精霊の愛し子”だ。
それは、クロエとフィンが幼い頃の話。
フィンとアリーシュ邸で遊ぶ約束をしていたクロエは、歌を歌いながら彼を待っていた。当時、歌を歌うことにはまっていたクロエは、新しく覚えた歌をフィンに聞かせてあげようと練習をしていたのだ。
その瞬間は、唐突に訪れた。
歌う口はそのままに、それ以外の体の力がふうっと抜けたのだ。
クロエの意志を置いてけぼりにして、体はどんどん透き通っていく。感覚も麻痺してきて、視界もにじんでぶれていった。思考も記憶も、熱い紅茶に落とした砂糖のように、瞬く間に溶けていく。
呆然と固まっていたクロエの耳をいくつもの囁きが通り抜けていった。ほとんど意味をなさない視界がかろうじて、様々な色の光の玉をとらえたような気がした。
“クロエ、フィンのお気に入り”
“クロエの歌、フィンが好き”
“フィンのものにしてあげよう”
“そうしたら、フィン、喜ぶ”
「クロエ!」
訳の分からぬまま流されていたクロエの名を誰かが呼ぶ。
「クロエ、駄目だ! 気をしっかり持って!」
薄れていくだけだった手を、誰かが握った。そこから血が通っていくように、じんわりとあたたかく、形作られていく。
誰かは、時々異国の歌のような旋律を唱えた。クロエはそれを聞きながら、ふふっと笑う。音痴な彼が紡ぐそれは、どこか辿々しい。彼もそれを気にしているのに、ついクロエは笑ってしまって──。
──彼?
彼とは、いったい誰だったか。
錆び付いていたクロエの頭が、答えを探して小さく軋んだ。
彼は、彼の名は、確か──。
彼の拙い旋律が進むにつれ、クロエの頭にかかったもやが晴れていく。
どこか遠くで、“怒られちゃった”と小さく囁かれたような気がした。
クロエの足元で、草ががさりと揺れた。途端にクロエの体の感覚が戻り、転びそうになったクロエはたたらを踏んでこらえる。
クロエは瞳を瞬かせると、目の前で汗だくになっている彼の名を呼んだ。
「フィン」
クロエが口を開くや否や彼──フィンはクロエを抱きしめた。
「クロエ、──クロエ、よかった、本当に」
「フィン、苦しいよ」
「ごめん」
クロエに腕を優しく叩かれ、慌ててフィンはクロエを離す。ひとまず落ち着いたフィンに、クロエは聞いた。
「フィン、今のは?」
クロエの問いに、フィンの表情は悲痛に歪んだ。おおよそ、子供らしくない表情だった。
「ごめん、僕のせいだ」
フィンが、クロエの歌を気に入っていたから。それを察した精霊が、クロエを魔法で歌を歌う人形のようにして、フィンへの贈り物にしようとしたらしい。
「そうなったら、私はどうなってたの?」
クロエがたずねると、フィンは難しい顔つきになった。
「君をそうしようとした精霊の位にもよるけど、下手したら一生歌しか歌えないものになっていたかもしれない。今回は、僕の言うことにも耳を傾けてくれる程度の精霊でよかった」
フィンの見立ての恐ろしさに、今更になって実感がわき、クロエは身震いした。そんなクロエの姿を見て、フィンは重い口を開く。
「……クロエは、僕の側にいない方が良いかもしれない」
「どうして!?」
急なフィンの言葉に、クロエは驚く。クロエの圧力に押され、フィンは俯いた。その耳が、僅かに赤くなっている。
「……だから」
「え?」
「……が……だから」
「何? 聞こえないよ?」
「僕がクロエを好きだから、だよ!」
フィンの告白に、クロエは目を丸くした。同時に、頭に精霊の囁きがよみがえる。
“クロエ、フィンのお気に入り”
「私はフィンのお気に入りってこと?」
「お気に入り、だけじゃすまないと思う」
気恥ずかしいのか、フィンは視線を決して合わせようとしない。
「ともかく、僕と一緒にいたら、またさっきみたいなことが起こるかもしれない。だから」
「嫌よ」
即答したクロエに反論しようとしたフィンの口を塞いで、クロエは問いかけた。
「たとえ私が離れたって、フィンが私を好きなら、どうせまた同じことが起こるんじゃないの?」
「…………それは」
フィンはしばらく口ごもっていたが、頷いた。
「じゃあ、やっぱり一緒にいましょう、フィン」
クロエがにっこり笑うと、フィンの両手を握った。フィンははっとクロエを見る。泣きそうに顔を歪めながらも、フィンは口を開いた。
「ごめん、僕なんかが君を……その、…………す、好きになっちゃったから、君を危険な目にあわせて」
フィンの謝罪に、クロエは首を振る。
「そうね、少しは怖い目にあうかもしれない。でも、今日みたいにフィンが守ってくれるでしょう? ……それに」
クロエはフィンを手招いて、耳打ちする。
それは、ほんのついさっき掴んだばかりの思いだった。
彼の手のあたたかさと必死さは、クロエにも充分伝わっていた。
とっておきの秘密を伝えるように、クロエは言った。
「私もフィンのこと、大好きだよ。だから一緒にいて?」
クロエが本心を口にすると、フィンは真っ赤になった。フィンは痛くならないように細心の注意をはらって、それでもしっかりとクロエの手を握る。
「約束する、クロエ。僕は必ず、精霊を手懐けて、君が何の心配もいらないようにするから」
あれから、10年。
久方ぶりに訪れたスヴィル邸は、慌ただしい雰囲気に満ちていた。それもそのはず、フィンが過労で倒れ臥しているのだから。
「クロエ様? いつお越しに……」
「フィンは、どこ?」
まさかこんなに早くスヴィルに到着するとは思っていなかったのだろう、クロエを目にするなり驚いた執事に、クロエはフィンの所在を問う。不躾である、という自覚はあったが、今はフィンの容態の方が心配だ。
「自室で横になっておられます」
「ありがとう」
簡潔に礼を述べ、踵を返す。
何度も行き慣れた廊下を足早に通り抜け、クロエはフィンの自室の扉を開いた。
フィンは、寝台で上半身だけ起こしていた。彼の暗い色の瞳が、クロエの姿を映す。
「……クロエ、来たのか」
「ええ。精霊が教えてくれたわ」
「あいつら……」
フィンは苦虫を噛み潰した顔になる。想像より元気そうだと安心しながら、クロエは寝台の横に置かれた椅子に腰かけた。クロエと同い年だというのに、フィンの目元を縁取る隈は、一生とれないかもしれないほど深く、彼のくたびれた印象を加速させていた。
「……君の迷惑にはなりたくない。帰ってくれ」
「倒れたのでしょう? きちんと寝ているあなたを見届けてからじゃないと安心して帰れないわ」
一理あると思ったのか、フィンはむっつりと黙り込む。クロエはフィンの骨張った指に己のものを重ねた。
「精霊も、あなたが心配なのよ……もちろん、私もよ」
「君が精霊を庇うのか……」
「少なくとも今は、あなたが倒れたことを教えてくれて、感謝しているわ」
クロエはフィンを見つめながら、自分の無防備な喉元に彼の指を導く。急所をさらしているのに身動ぎひとつしないクロエとは裏腹に、フィンの指はぴくりと震えた。
「だから、ねえ、フィン。……私に歌わせて?」
クロエが懇願するように覗き込むと、フィンは吐息を溢した。かさついた唇が、渋々といった調子で動き出す。
異国の歌のようにも例えられる魔法の詠唱は、フィンが魔法使いとして頭角を現してきた今となっても、音痴の彼のものは拙かった。噂によると、魔法使いとしての彼は詠唱ではなく魔法陣などを使って魔法をかけるらしい。
クロエの喉元からキィンと高い音が鳴る。封印が、一時的に解かれたのだ。ぶわ、と産毛を逆立てるような痺れが一瞬体を伝って、クロエはすうっと息を吸いこんだ。
クロエは、彼に向かって微笑む。
「それじゃあ、……お休み、フィン」
クロエが穏やかな旋律を奏ではじめ、ようやくフィンは疲れた体を寝台に横たえた。
魔法使いとなったフィンは、精霊の制御方法を研究している。そのきっかけは、クロエの歌だ。10年前のあの時から、フィンがクロエの側にいるときを除いて、精霊は執拗にクロエに魔法を施そうと近寄るようになっていた。そんなクロエを精霊から守るため、フィンはクロエの歌声を封印した。彼は日夜研究に励み、精霊に“クロエに手出ししないよう”命じているが、成果は芳しくない。フィンが無理をし過ぎて倒れることもしばしばあった。その度に、精霊に呼ばれ、クロエはフィンの元を訪れていた。クロエの歌がフィンの疲労を癒すと精霊は思っているようだった。
クロエは子守唄をいくつか歌ったあと、じっとフィンを見下ろす。幼い頃にはなかった隈をなぞるように、指の腹で彼の頬を撫でた。フィンが幼い頃の約束を守ろうとしてくれるのは嬉しい。しかし自分のことを二の次にして体を壊してしまわないか、クロエは不安だった。
心を痛めるクロエの耳に、精霊が囁く。
“クロエ、まだ”
「え?」
“フィン、まだ起きてる”
「あら、そうなの?」
精霊に指摘されたが、フィンのまぶたは下がったままだ。精霊は嘘をつかない。そもそも精霊の声がクロエに聞こえているなら、フィンに聞こえていない筈がなかった。
──優しいフィンのことだ。大方、クロエの迷惑になると思って早々に寝入ったふりをしているのだろう。そんな気遣い、クロエには無用だというのに。
“だからまだ歌わなきゃ”
“もっと聞いたら、フィン、元気出る”
「そうね」
クロエは歌おうと口を開きかけて、悪戯っぽく笑った。クロエが彼のことを好きでたまらないことを知っているくせに、変な遠慮をするフィンにちょっとした意趣返しがしたくなったのだ。クロエはそっとフィンに近付く。
「フィン、いつもお疲れさま……大好きよ」
クロエはフィンに口付けた。途端にかっとフィンの目が開き、起き上がる。病的なほど白かった頬が真っ赤に染まっていた。口元を押さえながら、フィンは叫ぶ。
「クロエ、急にいきなり、何を!」
クロエが何か答える前に、精霊がさざめいた。
“フィン、喜んでる”
“フィン、嬉しそう”
「うるさい!」
フィンは周囲に集まってきた光の玉を散らすように腕をふった。その様子を見ながら、ふとクロエは疑問をこぼす。
「それにしても、今日は精霊の声がいつもより聞こえる気がするわね」
クロエの問いに答えるように、精霊たちはさざめいた。
“フィン、疲れてる”
“それでフィンの結界、緩んでる”
“いつもはフィンの結界で、もうちょっと遠い”
“だから、クロエには聞こえない”
“でも、クロエがキスしたら、フィンちょっと元気になった”
「頼むから黙ってくれ!」
フィンが悲鳴を上げたのと同時に、精霊の姿は消し飛んだ。どうやら、結界を張り直したようだ。予想外の魔力を消耗して息を荒げているフィンを見て、クロエは言った。
「キスくらいなら、何度でもするわよ」
「……君、ほんっとうに唐突すぎる」
「歌声だってキスだって、あなたにだけよ?」
フィンはぱくぱくと口を開閉した。言葉が見つからないらしい。そんな彼を見て、クロエは閃いた。
「精霊をそう説得したら、もう手出しされないかも」
「……精霊がそう物分かりがよかったら、僕は今こんなに苦労してない」
「あら、やったことあるの?」
何気ない問いだったが、フィンは視線をそらした。おや、とクロエは目を見張る。
「したことがあるのね?」
「……………………………………ある」
か細い声で肯定したフィンに、クロエはくすくすと笑った。どうやら、クロエの気持ちはフィンもきちんと理解しているようだ。
「その答えが聞けて、何よりだわ」
「クロエ、僕は」
フィンは、クロエの手を握る。そのあつさに、クロエの頬が染められる。
「君が本当に好きだから……あいつらの言葉じゃなくって、自分の言葉で伝えたい」
「もう何度も聞いているけど……」
「何度だって言うさ。こういうことは、部外者じゃなくて僕自身が言うことが大切だろう」
「そうね」
クロエは同意すると、瞳を閉じた。その背に、フィンの手がまわる。
二人の距離が、再び近付いていった。
少し遠い場所で、精霊が笑っているような気がした。