1話 そして、王女は身を投げた
わたくしは、階段を駆け上っていました。なぜ踵の高い靴など、履いてしまったのでしょう。
早く逃げなければ、捕まってしまいます。あの人に。
「ジャンヌ、戻ってこい!」
下から、怒ったあの人の声が聞こえます。
ドレスが裾が邪魔でたまりません。
「ジャンヌ、聞こえないのか? 儀式の最中だ、戻ってこい!」
イライラした、あの人の声。わたくしの心を凍らせる、台詞。
わたくしは塔の最上階に付くと、急いで部屋に飛び込みました。扉に鍵をかけます。
この物見の塔は、わたくしのために、改造させた場所です。
自由に城下に出られないわたくしは、この部屋から父の治める城下を、眺めるのが楽しみの一つでした。
激しく叩かれる扉の向こうで、あの人の声が聞こえます。
「王女が、何をしている。王族なら、王族らしく、義務を果たせ!」
「嫌です、嫌です。なぜ、王女として生まれただけで、すべてを決められなければならないのですか?」
「黙れ。自分の身の上をわきまえろ。王族に、自由意志など存在しない。あるのは、義務だけだ」
「兄上は、自分で婚約者を決めたではありませんか」
「あれは、お前とできが違う。きちんと王子の義務を果たした。血筋を残すことが、王家の役割だ」
ああ、この人は知らないのですね。
わたくしは知っております。双子の兄が、青い瞳を持つ侯爵令嬢の手を、とても嬉しそうに取ったことを。
武官の娘でありながら、文の天賦の才を持った、才色兼備の姫君です。
誰が麗しの姫君の心を射止めるのか、上位貴族たちが噂しておりました。
まさか、年下である兄が、姫君の心を手に入れるとは思いませんでしたが。
「さっさと会場に戻れ。手を煩わせるな。扉を開けろ!」
ひときわ大きく扉を叩きながら、あの人は、怒鳴りました。
ぼうっとしている場合では、ありませんでしたね。
どこかに逃げませんと。
「……扉を壊してくれ。王女を連れ戻す」
どうやら、しびれを切らしたようです。扉が軋みをあげ始めました。
きっと兵士たちが、命令に応えているのでしょう。
ほどなくして、扉は壊されてしまいました。
無力なわたくしは、震えるしかできません。扉から最も遠い、窓際に逃げます。
「近づかないでください。それ以上、近づけば、ここから飛び降ります」
「なら、飛び降りたらどうだ? お前には、できないだろう。諦めて、さっさとこっちに来い!」
とうとう、ベランダに追い詰められてしまいました。わたくしのありったけの勇気は、この人に通じないようです。
伸ばされる手が、とても恐ろしく感じました。今、捕まれば、わたくしは一生不幸になります。
「さっさと来い、何度も言わせるな。儀式に戻って、婚約の契約書に署名しろ!」
目の前の人は、鋭い眼光で、わたくしを睨みます。
あの輝きの前では、すべての人はひれ伏すしかありません。
けれど、わたくしは負けません。
「想い人と添い遂げられないなら、死んだほうがマシです」
わたくしは、心から叫び、ベランダを乗り越えました。
――――ジャンヌ!
わたくしの名を呼ぶ、想い人の声が、どこか遠くで聞こえました。