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【ニーチェ】利人と千恵が『善悪の彼岸』を読むようです。【哲学】  作者: 安藤ナツ


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【一三五】【ファリサイ派】

【ファリサイ派とは、善良な人間が退化して生まれるものではない。むしろ善良であるためには、かなりの程度までファリサイ派であることが条件となるのである。】




「タイトルの通り、ファリサイ派について皮肉的にキリスト教を揶揄している如何にもニーチェらしいアフォリズムだな。と、言うわけで、説明も終わったし釣り堀にでも行くか?」

「行かないよ。って言うか、終わってないよ! 説明に微塵もなってないから」

「ああ。お前の親父さんに連れて行って貰ってから、最近微妙にマイブームなんだよ、釣り。なんか、意外と回りに人がいても集中できるんだな、釣りって」

「いや。釣り掘に行く理由の説明じゃあなくて【ファリサイ派】って何? って、話し」

「ファリサイ派って言うのは聖書に偶に出て来るキリスト教に敵対的な人達の事だ。“パリサイ人”とも呼ばれるな。その語源は“分離”であるらしい」

「要するに、キリスト教じゃない人達って事?」

「そうそう。当時の“ユダヤ教”の主流な人々だ」

「えーっと、“ユダヤ教”は“キリスト教”の元ネタなんだっけ?」

「元ネタと言うか、“天”に対する“アカギ”みたいな感じだな。ユダヤ教から派生して、キリスト教とイスラム教が産まれる。語弊を恐れずに違いを表現するなら、予言に出て来る“救世主”を“イエス・キリストとするのがキリスト教”で、“ムハマンドを救世主とするのがイスラム教”だ」

「ユダヤ教は?」

「ユダヤ教はその二人を預言者として認めているが、救世主とは呼んでいない。要するに、この三つの宗教のポイントは誰を救世主とするか、だ。まあ、確かにモーセやダビデ、ソロモンと比べると、二人はちょっと格が落ちる感は拭えないな」

「狂信者に聴かれた殺されそうな事を平気で言うね」

「話しを戻せば、キリスト教が出来たばかりの頃、当然ユダヤ教と揉め事が起こる」

「そりゃあまあ、『勝手に救世主名乗るな!』ってなるよね」

「そう五月蠅く主張していたのが【ファリサイ派】ってわけだ。聖書では度々出て来てはイエスに論破されて引きさがると言うアニメのロケット団みたいな扱いをされている。有名な人物ならパウロと呼ばれる男がいて、このファリサイ派からキリスト教に改宗していたりもするぞ」

「自分を上げて、相手を落とす、印象操作の基本だね。敵を味方に改心させるとかも、今ではありきたりな展開だね」

「二〇〇〇年前の書物だからな、そりゃあ、手垢も付くさ。話が逸れ過ぎたかな? 兎に角、【ファリサイ派】って言うのは、元はキリスト教と同じ神を信じていたが、救世主を信じられなかった悪人と言うのが一般的な捉え方だ」

「【善良な人間が退化して生まれる】って言うのは、そう言う意味なんだね」

「だが、本当にそうか? 善良=キリスト教から退化した存在か?」

「途中まで一緒だった、そもそも根本が同一だったんだから、善良な人=キリスト教である為には、そりゃあ【かなりの程度までファリサイ派である】必要があると考える事も出来るよね」

「そう。そしてニーチェは旧約聖書こそ神々の力強さを記した作品だと感じていた。神と言うある種の“脅威”と共に歩く人間の姿に“力への意思”を感じていた。神が人間の為に罪を背負うなんて言う都合の良いジョークを嫌っていた。ファリサイ派はキリスト教から見れば退化した善良さかもしれないが、ニーチェにとってはファリサイ派の考えの方がまだ真の意味で善良であると訴えているわけだ」

「なるなる。“ファリサイ派を差別するけど、キリスト教も根本的には似たような物”って言う皮肉と、“ファリサイ派の方が健全だ”って言うニーチェの個人的なメッセージが詰まっているわけだね」

「ああ。ついでだし、聖書からファリサイ派の出番を少し紹介してやろう」

「聖書なんて、見た事もないけど、どんな話が入っているわけ?」

「説教だよ。さて、紹介するのは【ヨハネによる福音書第八章】。ネットのコピペで少し有名かもしれないし知ってるかもな」

「その○○による福音書ってのは?」

「キリスト教も一枚岩じゃないからな、沢山の人がそれぞれの解釈で書いた本が幾つかあるんだ。これはヨハネって人の一派が書いた聖書ですよ、って意味だ。ちなみに、派閥で言うと一枚岩じゃないって言うか、砂利みたいにある」

「砂利って……」

「で、ヨハネによる福音書第八章の最初の十行程度の話はこうだ。

 ある日、姦通の罪で女がファリサイ派の人々に捕まってイエスの前に引っ張って来られた。モーセって言う昔の預言者によれば、姦通の罰は投石であるから、イエスにどうするべきか訊ねる。石を投げて殺すか、彼女を許すか、を。イエスが石を投げるなら彼のカリスマは地に落ちるし、ユダヤ教に従うって事になる。彼女を許すなら、イエスが教えに背いたわけだから訴える事ができる。

 イエスは地面に文字を書きながら答えた。

『罪のない人だけが石を投げなさい』

 そうすると、誰も石を投げる人間がいなくなる。“石を投げるな”とは言ってないから、モーセに背くわけでもないし、自分が罪人だと言えば次に石をぶつけられるのは自分だ何も言えるわけがない」

「あ、それ知ってる。だから、罪なき人であるイエス・キリストだけが女に石を投げて罰を与えるんだよね」

「皮肉が利いていてそのオチは好きだが、聖書では罪に問うファリサイ派が消えた後、イエスはもう二度と罪を犯さない様に言ってその場を去る」

「ふーん。所でさ、イエス・キリストは地面に何を書いていたの?」

「多分、その場にいるファリサイ派達の罪だろうな。神の前では嘘を吐く事も許されない。全然聖書とは関係ないが、ギリシャ人の親子の話しにこんな物がある。『大衆に真実を喋れば人々に嫌われ、嘘を喋れば神に嫌われる。大衆の前では喋っては駄目だよ』ってな。神様はどんな嘘も知っている」

「そりゃ、去ってくしかないよ、半分脅迫じゃん。人間、沈黙が金だね」

「さっきの話の落ちは『大衆には本当でも嘘でもない事しか喋らないから』だけどな。お喋りな俺にはそっちの方が良い。雄弁の銀も捨てたもんじゃあないしな」

「本当でも嘘でもない事、ね。だから政治家達はあんな役に立たない話し合いを続けているのかな?」

「かもな」

「で、さっきのファリサイ派の話だけど、どんな教訓があるわけ?」

「思いつく限りなら、“人を裁けるのは神だけ”“罪を犯していない人間はいない”“キリストは裁きではなく救いを目的としている”とかじゃないのか?」

「なるほど」

「あと、この時のファリサイ派はイエスを試す為だけに姦通した女を連れて来た、ずる賢い人間として描かれているわけだ」

「ふーん。なんて言うか、普通にファリサイ派が悪者じゃん」

「そう言う風に描かれているからな。俺としては、幼いながらに『いや、こいつが罪人には変わりないだろ』って思って納得行かなかったけど」

「そりゃあそうだけど、キリスト教的にそこはどうなの?」

「イエスが許すと言えば許されるに決まってるだろ」

「えぇ……流石に嘘だよね?」

「俺だって別にキリスト教に精通しているわけじゃあないから詳しい事は知らんけど、“キリスト=神”の言う事だから絶対だろ。女が最後まで残ったのも、要するにキリストの“許し”の偉大さの表現の為だろうし」

「宗教ってよくわかんないな」

「まあ、最初の方にも言ったけど、所詮は二〇〇〇年前のお話しだからな。スポーツだって五年も経てばルールが変わる事は珍しくないんだ、今の常識に過去の定石を照らし合わせて考えても意味がないだろうな」

「いや、二〇〇〇年前のルールで二〇〇〇年前のルールを解釈しても現代には少しも意味ないんじゃ……」

「所詮、人の考えた物語だからな。日本人みたいに都合の良い所だけを利用するスタンスが、これからの社会で一番楽だと思うんだけどなぁ」

「その日本だって別に楽園ってわけじゃあないのが難しい所だけどね」


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