【一三三】【理想】
【[理想を持ちながらも]みずからの理想にいたる道をみいだすことができないでいる者は、理想をもたない人間よりも軽薄で、厚かましい生き方をするものだ。】
「理想を抱く事は大切な事だよね? “こうなりたい”“ああ生きたい”って言う明確なビジョンがなければ、何処に歩いて行ったら良いかなんてわからないなわけだし。利人はちゃんと将来の目標とかある?」
「取りあえず、大学受験か?」
「なんて言うか、普通だね。受験って。ニーチェ全く関係ないし。もっと突飛な事を言ってよ」
「ほっとけ」
「でも、模試の成績とか普通に合格余裕ラインだし、目に見えない所で努力しているんだね。最近、部屋に並ぶ参考書増えているし。あ、でも毎日遅くまで部屋に灯がついているっておばさんが心配していたから程々にね」
「止めろ!! 俺が人知れず勉強している、みたいな風説の流布は止めてくれないか? 俺、産まれてから一度も努力とかした事ないから。天才だから。勉強とかしたことないから! 部屋の灯は瓶詰めの船を作っていたからだから」
「そんな地獄のミサワみたいな事を言わなくても」
「話を戻すぞ? 千恵の言う通りに理想は大切だ。だが、当たり前だが理想を持つだけじゃあ駄目だ」
「今回はわかりやすいね。普通に教訓って感じだね」
「理想を持っている人間を、【理想にいたる道】を見出すことができるかできないかでニーチェは別けて考えたわけだな。前者は理想に向かって努力をしている人間で、後者は理想を持っているが何をすればいいかわからな人だ」
「そして、道を見失っている人は、軽薄で厚かましい生き方をする、と。理想を持つだけじゃあ駄目って教訓なのかな?」
「初めて参加したライブのロックバンドに憧れて、ギターを買うだけじゃあ意味がないからな」
「ギタリストになりたいなら、ギター教室にでも通うべきだよね」
「ギター教室に通うロッカーって言うのもどうかと思うが、千恵の言う通りにまずは練習するべきだろう。教室でも良いし、先輩でも良いし、今ならネットとかでも弾き方は簡単に調べられるんじゃあないか?」
「かな。結局は弦を指で弾くだけだから、基礎の基礎だけなら簡単に覚えられるんじゃない? それを曲として連続させるのが難しいだろうし、さらに表現をしようと思うともっと熟練が必要だけどね」
「リコーダーも吹けない俺には指で弾くだけって言うのも難しそうだ」
「そもそも、致命的にリズム感がないよね」
「ほっとけ」
「で、理想を持ちながらも、道を知らない人はどうなるの?」
「ギタリストで話を続けると……そうだな、憧れのギタリストに関する情報を集めたり、ギターの蘊蓄に詳しくなったり、知った顔で流行りの音楽を否定する様になるんじゃあないか?」
「偶にいるよね、そう言う人。口先だけ達者で、技術が追いついていない人」
「眼高手低って奴だな」
「そんな四字熟語初めて聴くんだけど、造語じゃあないよね?」
「何を疑っているんだよ。評価は厳しいが、実際に実力がない人間の事を言う。或いは、高過ぎる目標に腕が追いついていない人間だ。志大才疎なんてのもあるな」
「志は大きいけど、才能は大した事がないって事だね。正にこのフォリズムじゃん。便利な日本語があるもんだね」
「そうだな。だが、ニーチェのアフォリズムは無駄に長いわけじゃない。もう一歩を踏み込んで考えることができると思わないか? いや、もう一歩距離を取って考えることができると言うべきかもしれないな」
「一歩引く?」
「このアフォリズムは【理想を持ちながらも】って前提があるんだが、それ以前の人間はどうだ? このアフォリズムに語られていない人種がいるだろう?」
「あ、そう言うこと。つまり“理想を持っていない人間”はどうなんだ? って利人は考えるわけだ」
「ああ。【理想を持たない人間よりも軽薄で、厚かましい】と道を見失った人間をニーチェは酷評しているが、これは【理想を持たない人間】を褒めていると思うか?」
「んー。どうだろ。そう言われてみれば“理想を持たない人間は軽薄じゃあなく、厚かましくもない”とは言ってないよね。もっと言えば“そうなる位なら理想なんて持つな”とも言ってないわけだし。って言うか、ニーチェだったら間違いなく“理想を持て”って言うよね」
「そうだな。“精神的に向上心のない奴は馬鹿だ”とも日本人も言うしな」
「二葉亭四迷!」
「……夏目漱石の“こころ”だ。中学生でも知っているぞ? 時々、俺はもうちょっとだけ、お前に勉強する様に言うべきだったと反省する時がある」
「私の親か。利人パパって呼ぼうか?」
「お前の頭が本格的に心配だよ!」
「それで? 理想を持っても図々しい愚か者になるかもしれないのに、それでも理想は持った方が良いの?」
「理想がない人間って言うのは、どんな人間だろうな? 千恵はああ言ったが、多分慎重で、控えめで、真面目で、堅実な人間だとは思わないか?」
「まあ、ギタリストになるって言うよりも、公務員になりたいって言う人間の方が理想を持ってない様に見えるよね」
「それは公務員差別だ。それが理想で、努力するなら俺は文句をつけようとは思わない。ニーチェの言う理想を持たない人間の例はこうだ『中流の市民で、病気になることと疑うことを罪と考えている。互いに摩擦を起こさないようにゆっくりと歩く。貧しくもなく金持ちでもない』」
「公務員かどうかはわからないけど、利人がさっき言った感じの人間だね。当たり障りのない、大きな幸福も不幸も必要としない生き方だ」
「こいつをニーチェは【末人】と呼んだ。前にも言ったが超人の反対で、理想を信じられなくなった、支配を望まない平等を求める人間。創造性を欠いた安寧を求める連中の事だな」
「現代日本人の殆どを敵に回してない?」
「俺も海外の事情なんて知らないが、一〇〇年も前のドイツ人が言っているわけだから、世界的にこういう人間が増えているんだろうな。理想よりも現実を重要視する人間が。そう考えると、眼高手低のアフォリズムにも見えた文章が違った意味が出て来る」
「そんな人間になるくらいなら、理想を持って周りに迷惑をかけろってこと?」
「うーん。進むべき道が見つからない理想を得る為には、無謀にも思える行動をしなくてはならない、って方がニュアンス的には近いかな。例えば、ニーチェ。ヨーロッパに蔓延するキリスト教的な価値観や、それに準ずる旧来の哲学。それらからの脱却を目指してニーチェは執筆していたわけだが、まあ、結果は散々だった。普通に失敗だったと言えるかもしれない。ニーチェは徐々に孤立していく。だが、今まで誰も成し遂げた事がない事に挑戦する時に、人の顔色を窺ってられるか? 傷付くことに怯えて縮こまっている余裕があるか? 周囲との調和に気を取られている場合か? 我武者羅にやるしかねーんじゃねーの? と俺は思うわけだ」
「周囲に迷惑をかけるのは、一生懸命だからってこと?」
「進むべき道がわからねーなら、山道に突っ込む必要もあるかもしれない。池に飛び込まなきゃ見えて来ない物があるかもしれない」
「そう言えば小学生男子って、どうして田植え前の田圃に入りたくなるんだろうね?」
「今の話しに全然関係なくない!?」
「でも、ニーチェと言うか、利人の言いたい事はわかったよ。人間にはみっともなくても追い求めるべき理想が必要なんだね」
「ああ。安全、安定、安寧。世の中はどんどん進むべき道がわかりやすくなっていて、理想もどんどん現実に近づいて来ている。夢見る時代が終わり始めている。もしかしたら【神は死んだ】って言うのもそう言う意味もあるかもな」
「現実的の対義語の夢想の比喩としての神ってこと?」
「そう。どんどん尊い理想は失われ、目に見える現実が人々の心を支配し始める。神への信仰が薄れ、科学的な再現性のある文化への依存が強くなっていく。ニーチェや俺達が生きるのはそう言う時代ってことさ」
「神を信じる人を笑う様に、夢追い人を哂うなんて、嫌な時代だね」




