【一三二】【美徳の罰】
【人は自分の美徳故に罰せられることがもっとも多い物だ。】
「超有名ゲーム『ファイナルファンタジー』の外伝に『タクティクスシリーズ』ってのがあるんだが、その一作目に登場するキャラクターが正にこのアフォリズムの体現だった」
「ネタバレ防止に名前は伏せるけど、兎に角、滅茶苦茶強いよね、アイツ」
「他のキャラの必要性に疑問が浮ぶ程にその強さは圧倒的で、それはもう『なろう小説のチート主人公かな?』と思わずにはいられない程だ」
「ゲームが簡単になり過ぎるから、あえて使用しないって攻略をした人も少なくないとか」
「アイツには余りにも理不尽な話だが『使え過ぎて使えない』ってわけだ」
「なんて言うか、西洋哲学と言うより、禅問答みたいな台詞だね。でも長所であるが故に弱点になるって言うのは往々にして有りがちなパターンかも」
「ゲームを例えにして出すとアレだから、もう少し真面目な例を探すとしたら、そうだな日本の馬車とかどうだ?」
「馬車? あの馬が牽く奴?」
「それ以外に何があるんだよ。時代劇とか教科書の挿絵でさ、江戸時代に馬車を見た事があるか?」
「ん? そう言えば――ないかも? 技術がなかったのかな?」
「平安時代に牛車はあるから、技術はあった。街道も整備されていた。だけど、便利過ぎるから使用が幕府に禁止されていたんだよ」
「便利過ぎるから禁止?」
「ああ。馬車を使って一度に大量の物資を運搬できる様になると、人力車や駕籠、飛脚や船頭と言った以前から存在する職業がなくなってしまうから、わざわざ幕府によって制限していたんだ。まあ、武器を一度に大量に素早く運べるという、防衛的な意味もあったんだろうけど」
「なるほど。馬車はその利点があるが故に、使えなかったって事だね。良ければ良いと言う問題じゃあないと」
「まあ、良い方が良いに決まっているんだけどな。価値の逆転がここでも発生している事をニーチェは見つけたみたいだ」
「“良い”筈なのに“罰”が与えられるなんて、確かにあべこべだね」
「もう何度話題に上ったかもわからないが【奴隷の道徳】だな。これはその中でも最も身近かもしれないな。何故だか、人間は人の良さを認める事が素直に出来ない事が多い。ニーチェはこの事について思う所があったらしく、似たようなアフォリズムを他にも幾つか残している」
「ここまで色々と利人に教えてもらったけど、結構被っている内容多いよね」
「まあ。ニーチェの問題と言うか、単純に俺の解釈に依る所が大きいからな。諸説色々あるけど、俺は自分が好きな考えしか話してないし。多様性よりも、俺の考えと言う一貫性を優先していると思ってくれ」
「だから、ニーチェに罪はないと?」
「ああ。それにこの【善悪の彼岸】その物が【ツァラトゥストラはかく語りき】の補足として書かれた面が強いからな。特に覚えて欲しいと思った所をアフォリズムとして強調しているんじゃあないか?」
「なるほど。って言うか、補足なんだ、この本」
「ああ。【ツァラトゥストラはかく語りき】がまったく売れなかったからな」
「最後の辺になると、出版社が相手してくれなかったんだっけ?」
「悲しい事にな。で、ニーチェは思ったわけだ『ちょっと難しかったかもしれん』と」
「その通りなんだろうけど、それだけじゃないと思うんだけど、キリスト教批判とかさ!」
「多分、この時のニーチェは正にこのアフォリズムに勇気づけられていたと思う」
「【人は自分の美徳故に罰せられることがもっとも多い物だ。】に勇気づけられる?」
「『自分が理解されないのは、自分の考えが最先端だからだ』『出る杭が打たれる様に、一般人はこの考えを受け入れられない』みたいな事を思っていたんじゃないかな? と俺は思っている」
「えーっと? 『理解されないのは自分が優秀過ぎるからだ』みたいなこと?」
「ああ。ニーチェの著書を読んでいると、ちょくちょく自信過剰に受け取れる所があるんだよな。多分、自分が正しいと彼は疑ってなかったと思う。少なくとも、文章は常に強気だ」
「ポジティブ……なのかな? やっぱり、一時代を築くにはそれ位の自信が必要って事?」
「さあ? ちなみにこの【善悪の彼岸】は【ツァラトゥストラはかく語りき】が力強く朗らかに生を肯定する聖書のパロディ作品なのに対して、強く批判的で議論を求める様な作りになっているのが特徴だな。それがまた、自信過剰さをより印象強くしていると言うか……」
「な、なるほど」
「話を戻せば美徳が故に罰せられるのは、価値の転覆が起きた結果だ。これは民族の様な大きい枠組みに根付くルサンチマンの果てと言うよりは、もっと個人的な感情が原因だろうな。人って言うのは、中々他人の成功や成長を認める事が難しい」
「何でだろうね」
「うーん。ニーチェの意見は後々のアフォリズムで説明するとして、俺の意見としては、批判するって言うのが正しいからだろうな。いや、自分の正しさを証明できると言うべきか」
「正しい? 批判が? いや、まあ、そりゃあ、間違っている事を批判するのは正しいけれど、この場合は良い事を批判するんでしょ? それの何処が正しいわけ?」
「まず、間違っているのを正すのは正しいだろ?」
「そう――なのかな? うーん。うん。正すのは正しいよ。間違いをそのままにしていちゃ駄目だもん。それは正しい」
「そう。根本的に批判する人間はその“正しい”を求めている。正しいことは、良い。互いに意見を批判しあって、まったく批判の出ない物を創造するのは大切な事だ。だが、その最終工程を忘れて、ただ間違いを否定する為だけの批判で終わっちまう事がある。これが厄介だ。間違いを否定することその物は間違いじゃあない。しかしそこで人は満足を覚えてしまった。批判して間違いを証明する事で、そうした自分が正しいとまで思っちまう。批判が好きな奴は、批判する事で自分の正当性を主張しているわけだ。そうやった、自分が正しいと思い込みたいわけだ」
「自分が間違っていない事に安心するってことだよね? テストの答案に記入するならその気持ちはすっごくわかるけど。間違いを否定するだけで、答えを書きこまなきゃ意味ないよね」
「言い得て妙だな。他人の成功や成長も、テストの答案なんだよ。他人が成功しているのを見て、意識的にあるいは無意識的にこう考えはしないか? 『あの子はあんなに成功して凄いな。だと言うのに私は……』って」
「私は素直に『凄いな』でストップしちゃう人かな。でも、自分と比較しちゃう人の気持ちもわからなくはないかも」
「ああ。そして、大抵の人間は成功者じゃあない。そんな人間が、人生と言う問題に対して成功と言う答えを出した人間を肯定するとどうなる?」
「……自分の人生のしょぼさを肯定する事になるのかな? 自分だって成功できたかもしれないのに! って言う嫉妬が目を出しちゃうかも」
「そうだ。嫉妬深い疾しい良心の持ち主に取って、成功者を肯定する事は自分の人生の惨めさを肯定する事になる。だから、そいつは批判をする。相手の間違いを指摘する事で、自分の正しさを逆説的に証明しようとしているんだ。だから、批判は止められない。経験則でしかないが、批判的な人間と言うのは何にでも口を挟む癖に、相手の答えは聴いていない事が多い気がするんだよな。既に批判するだけで目的を達しているからだと俺は考えるわけだ」
「利人って、そんな事考えて生きているんだね。禿げるよ?」
「あ! それが批判だぞ!」
「あ! 確かに!」
「ちょっとしたことでも、人間は他人の正しさを否定する事で、自分の正しさを肯定しようとしがちだってわかっただろ」
「なるほどね。つまりさ、このアフォリズムは逆に言えば『批判なんて気にするな。負け犬の遠吠えだ』みたいな応援歌にも取れるよね」
「まあ、後半は言い過ぎかもしれんが、そうやってポジティブに捉える方がニーチェも喜ぶかもな」
「…………今思うと、利人って最初に私の言葉を『惜しいが』とか『若干語弊があるが』とかやんわりと批判しても、直ぐに肯定的な言葉で返す時が偶にあるよね。アレってこのアフォリズムを意識しての行動なわけ?」
「んー。どうだろうな? 自覚的にやっている事じゃあないからわからん」
「そっか。じゃあさ、利人は自分では長所だと思っていたのに、人に批判された事ってある? 私は裁縫の授業の時に、凝り過ぎだって先生に怒られた事があるけど」
「教師って本当に勝手だよな。俺も教師に言われた酷い台詞があるぜ」
「へぇ。なになに?」
「生活指導の女教師なんだが、ちょっとした口論になった時の台詞だ」
「教師相手に口論している時に出た台詞の時点で、美点も何もない様な気がするんだけど」
「いや、正直って美点だろ? 論理的な思考は必要だろ? 冷静に筋道立てて反論する俺に、アイツは激昂しながらこう言ったんだ『貴方は正しい事しか言わないから嫌いです!』ってな」
「ああ、利人が言われそうな台詞だ」




