【一二八】【真理と感覚】
【君が教えようとする真理が抽象的なものであればあるほど、真理に近づくように感覚を誘惑しなければならない。】
「今回は比喩なく真理と字面に出ているな」
「何となく思うんだけどさ、女性に例える時は真理を嘲笑う時だけじゃない?」
「中々鋭い指摘だな。何度も話に出て来る真理だが、キリスト教やそれに根付いたヨーロッパの風習を指す時もあれば、ニーチェが信じる【超人】や【力への意思】を語る時も俺は真理と言っている事があるな」
「だよね。まあ、【力への意思】って考え方も、言ってしまえばキリスト教に変わる教えみたいな物だし、また違う真理ってだけな気もするしね」
「そして旧来の真理を西洋哲学は女性として扱って来た。だかそれを間違っていると指摘するニーチェが古い真理を語る時は、彼らへの皮肉が現れているんじゃあないか?」
「なるほど。じゃあ、今回はニーチェの哲学的な真理の話しで良いのかな?」
「それは読んでからのお楽しみだな」
「まず、ニーチェって言うか【君】が【真理】を教えようとしているみたいだけど、どんなシチュエーション? ヨーロッパじゃあ、割と良くある事なのかな?」
「多分、そうある事じゃあないと思うぜ? ただ、真理を教えるって言うのが直感的じゃあないのは確かだし、もっとわかりやすい物を代入して考えてみるか。数学とかわかりやすいな」
「って言うと、九九とか?」
「千恵が中々七の段を覚えない、って千恵の親に相談を受けた事があったな。そう言えば」
「あの辺りから、勉強の評価の対象として私の家族は利人を外したんだよ」
「って言うか、今も言えるのか? 大丈夫? 九九全部言えるか?」
「それがあんだけ苦労したのに、今は普通に言えるんだよね。不思議。多分、一生忘れないんじゃない、身体が覚えている感じ?」
「脳味噌が身体の一部である以上、それって普通の事だと思うんだよな、俺。で、数字って言うのは極めて概念的な学問だ」
「そうなの?」
「例えば、“一”って何だ?」
「…………“一”は“一”でしょ?」
「千恵が口にしたのは“一”と言う発音であって、日本語であるし、間違いなく数字だが、“一”その物ではない。そうだろう?」
「え? そうなの?」
「一と言う言葉は、一そのものじゃあない。あくまで一と言う概念をわかりやすく説明する為に記号として存在する物だ。そうだな“リンゴの絵”を見て“リンゴ”だと理解するのは正常な事だが、“リンゴの絵”は“リンゴ”じゃあないだろ? 数字って言うのは、俺達が数と言う概念を理解しやすいようにした記号に過ぎない」
「リンゴの例えで何となくわかったかな? でもさ、じゃあ“一”は何処にあるわけ? 本物の“一”みたいなのが、リンゴみたいにないと変じゃない?」
「奇妙かもしれんが、“一”の本物は何処にもない。姿形はないけど、俺達は“一”を認識できるし、それが沢山集まった膨大な数ですら理解し、計算できる」
「しゃ、釈然としねー」
「でも、“一その物”なんて見た事も聴いた事もないだろ?」
「うん」
「世の中には自分の目で見た物しか信じないなんて奴もいるが、そいつは想像力が足りないとしか言い様がないな。そう言う奴は、例え眼で見たとしても“見たと思い込んで”何も体験する事が出来ないに違いない」
「それで? この数字の話がどう、このアフォリズムに関係して来るわけ?」
「言葉や文字、或いはリンゴや小石、指や太陽、そう言った物がなければ、俺達は数と言う物を認識できない。逆に言えば、それらの物を使えば、俺達人間でも数と言う概念を自覚し、自由自在に扱うことができる。数式ってテンション上がるよな」
「まあ、私は数学嫌いだけどね」
「つまり、“数字と言う概念”を、俺達は三次元的な物にまで引き摺り下ろしているんだ。わかるか? 理解する為に概念を俺達に傍まで持って来るんだ」
「あ、わかった。【真理に近づくように感覚を誘惑しなければならない。】真理に人間が近寄って行けって意味なら、数字はその逆って事?」
「そう。概念と言う曖昧模糊とした物を理解する為に、人間はわかりやすくしようと、概念を人間の感性へと近づける。“擬人化”と言うのは正にその典型で、理解できない物を自分の立場で考えているわけだ。他人の気持ちなんて逆立ちしてもわからないが、自分の考えならいくらでもわかるからな」
「擬人化にそんな高度な意味が込められているとは思わないけど」
「自然現象や疫病とか、脅威に人格を与えて神格化させた初期の神話の話をしているんだが?」
「あ、そうなの」
「あ! 言っとくが、俺は人間にネコミミや尻尾をつけたような擬人化は認めないからな。擬人化は何と言うか、不気味で近寄り難くて、そこに怖れがなければ駄目なんだ」
「そんな事を熱く語られても……」
「兎に角、理解する為に身近な物で例えたり、代用したりする方法が世の中には氾濫しているのはわかったか?」
「まあ、だいたい? 数学が嫌いになったけど」
「それは元々だろ。って言うか、今更だけど『数学』って言った俺に対する相槌が『九九』っておかしくないか? 仮にも高校生の回答か? 小学二年生だぞ、九九って!」
「ま、まあ。それはさて置いておくとして、今回のこのアフォリズムと真逆な事を私達は当たり前に行っているわけだよね」
「いや、後でちょっと確認するぞ。普通にお前の将来が心配なんだが。それでだ、この方法に問題はあると思うか?」
「問題はないんじゃない? わかりやすくて良いじゃん」
「そのわかりやすさが問題なんだ。千恵が勘違いしていたように、誰もが勘違いしてしまう」
「数字こそが数その物だって? それの何が問題なの?」
「数字なら大きな問題はない。だが、もっと神聖な物、それこそ抽象的な物だったら?」
「真理の場合、問題があるって事ね」
「例えばニーチェの言う【力への意思】これを説明するにはニーチェの著書を読むのが手っ取り早いだろう」
「何冊あるのよ。全然手っ取り早くないよ。利人がここで教えてくれればいいでしょ?」
「それもそうだな。確か、千恵はドイツ語だと日常会話くらいしか読めないんだっけ?」
「原文読ませるつもりだったの!? ドイツ語その物がわからないって! って言うか、一番マシな英語でも買い物出来るか怪しいよ!」
「なら、日本語で伝える事になるな。ニーチェが思想を綴って本にし、俺が読み、日本語に翻訳して千恵に伝える。最初のニーチェの感じた物は、ドイツ語、俺の解釈、と二度もわかりやすいように引き摺り落とされている。多分、俺の解釈は当たり前として、原文ですらニーチェの言いたい事を完全には記し切れていないだろう。思想は最初から言語と言う形で存在するわけじゃあないからな」
「一そのものが何処にも存在しないように?」
「そう。俺達は気持ちその物を誰かに伝える事は出来ない。文章にしたり、言葉にしたりする過程で、最初の形から劣化し欠落してしまう」
「壊れるくらい愛しても、三割三分三厘も伝わらないからね。じゃあ、どうするの?」
「真理を伝えようとして、言葉にする事で真理を伝えられないと言うのなら、言葉にしなければいい」
「つまり?」
「言葉でないと理解できない俺達の下らない感性の方を、真理に近づけるしかないだろ?」
「【真理に近づくように感覚を誘惑しなければならない。】なるほど。逆転の発想って奴だね」
「そ。ま、長々と説明したが、お前になら手っ取り早い説明が実はある」
「ドイツ語じゃあない?」
「多分、イタリア語だな」
「じゃあ、わかんないよ」
「“プロシュート兄貴とペッシ”」
「なるほど! “言葉ではなく心で理解できた”!」