【一二五】【見損ない】
【わたしたちがある人を見損なったと感じざるをえないとき、私達は自分が感じた不快な気持ちを、無情にもその人物のせいにするのである。】
「『では、人間とはいったい何という怪物だろう。何という新奇なもの、何という妖怪、何という混沌、何という矛盾の主体、 何という驚異であろう。あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず、真理の保管者であり、不確実と誤謬の掃きだめ。宇宙の栄光であり、屑』
」
「だから人類を滅ぼすって言うの! それこそ傲慢よ! 利人! 貴方は私が止める!」
「まさかそんな主人公みたいなリアクションが返って来るとは思わなかった! って言うかお前、演技うまっ! 無駄に多才!」
「無駄言うな。って言うか、私もそんな人類に絶望したラスボスみたいな事を喋り始めるとは思わなかったよ。で、突然何の話し?」
「今回のアフォリズム【一二五】【見損ない】はそう言う人間の傲慢さが滲み出ているアフォリズムだって話しのつもりだ」
「傲慢さ、ね。えっと、【わたしたちがある人を見損なったと感じざるをえないとき】ってのっけからかなりネガティブな話題だね。【見損なったと感じざるをえないとき】、か。見損なうって言うと大袈裟だけど、期待外れな気分になる時は結構あるよね。こないだ見に行った映画とか、噂程に面白いとは思わなかったな~」
「宣伝で面白そうなシーンを全て見せていたよな、アレ」
「そうそう。私が監督なら、一時間半の所を五分に出来たよ」
「あと、後ろの女三人組が馬鹿過ぎて腹立ったわ。『どう言う事?』『何で?』『意味わかんない』ってぶつぶつぶつぶつ五月蠅いんだよ! お前達その程度の教養で良く電車に乗れたな! ってブチ切れる所だったぞ。しかも最後に『でも、面白かったね!』だぞ? 人生楽しそうだな!」
「その気持ちは痛いほど共感するけど、もう映画関係ないじゃん」
「おっと。そうだった。俺達は二〇〇〇円位払ってCMでただで見る事が出来る映画に一時間半も拘束されて『うわっ、期待外れ』と感じたって話だったな」
「その言い方止めよう。惨めになって来たよ」
「さて、俺達は十分にあの映画を見損なった。と、第一条件はクリアだ。そしてアフォリズムの後半にはこうある。【私達は自分が感じた不快な気持ちを、無情にもその人物のせいにするのである。】とな」
「映画を退屈と思った原因を、映画のせいにする事が【無情】な事だって言うわけ?」
「そう言うわけ。これはニーチェの言う【遠近法】の話だ」
「自分の主観でしか物事を見る事が出来ないって話だよね」
「ああ。もっと正確に言うなら“三次元を二次元に落とし込む手法”と表現できるかもな」
「逆だったら、喜ぶ人は多いだろうね」
「案外、そうなったら興醒めすると思うがね。【遠近法】について続けると、これは行っちまえば子供騙しに過ぎない」
「まあ、どれだけ正確に描いても結局はキャンパスの上の話しで、実際に立体なわけじゃあないからね。滅茶苦茶精巧な絵を見て本物と間違う事もあるから、人を傷つけない嘘みたいなものかな? 子供騙しって言うと悪意があるけど、エンターテイメントってそんなもんだよね」
「その辺りにフィクションが軽んじられる理由があるのかもな。所詮は実態なき幻に過ぎないわけで、現実には劣ると。まあ、そもそも人間の視界は網膜と言う平面に写った映像を脳内で処理しているわけだから、俺達が普段見ている景色も遠近法と言えば遠近法だ。千恵の言う騙し絵に簡単に引っかかるのもそれが原因だ。現実だって所詮は脳味噌の中の出来事に過ぎない」
「身も蓋もない意見だなぁ」
「さて。“見る”と言う行為の時点で遠近法に支配されているわけだが、当然ながら“思索”もその影響下にある」
「脳味噌で考えているから、そりゃあそうだよね」
「意思なんて電気信号のやり取りでしかないって意味でもそうなんだが、物事を考える時には更に強い遠近法がかかってしまう事が殆どだ」
「ねえ、話が逸れるけど、じゃあクーラーとかテレビももしかしたら何か感じているのかな? 表現する方法がないだけ」
「興味深い意見だが、本当に話が逸れているし、確認のしようがないのでパス!」
「えぇー!? 哲学的じゃない!? ぶーぶー!」
「例えば『世界的に有名な脳外科医の元に、交通事故で脳に損傷を負った子共と父親がやって来た。名医はその患者を見て「私の夫だ」と呟いた』さて、二人の関係は?」
「え? 唐突にナゾナゾ? ちょっと考える時間をちょうだい」
「どれくらい?」
「一時間二〇分くらい」
「センター試験かよ! そんなに待てるか! 正解は、夫婦だ」
「へ? 夫婦? でも、夫だって…………あ、お医者さんは女の人ってこと?」
「そ。なんで医者が男だと思った?」
「有名外科医って聴いたら、普通に五〇代くらいのおじ様の顔が頭に浮かんだんだけど」
「まさに、だ。まさにその思い込みが遠近法。名医と聴くとついつい男を想像してしまう。別に悪い事じゃあない。経験則として俺達は名医と呼ばれる人間に男性が多い事を知っている。だが、その知識と経験が時に思考を邪魔する」
「なるほどね。固定観念って奴だ」
「この固定観念をニーチェは良く思っていない。もっとフラットな物の見方をするべきだと説いている。そして人の最後に辿り着くステージが、赤ん坊の精神だ」
「ばぶみ……おぎゃる……尊い……」
「そんな低俗な話をしているんじゃあないんだが」
「低俗とはなんだ! 低俗とは!」
「逆切れ!?」
「ったく。ちょっと学があって背が高いからって、回りを見下して」
「何で俺はそこまでディスられてんの!? 前にも説明したが赤ん坊には知識も経験もないから、先入観がないだろう? ニーチェはその心の状態こそが人類が真に辿り着くべき極地の一つだと考えていたわけだ。自分よりも歳下の女の子に甘えたいとか、そう言う話じゃあない」
「利人はもっと私を甘やかしても良いと思うけどね」
「お前には結構甘いと思うぞ、俺。と言うか、取り立てて他人に厳しい人間でもないしな」
「そうかなぁ。で? この遠近法がどう、あの退屈な映画のフォローになるわけ?」
「別にあの映画の肩を持つ為にこんな話をしているわけじゃあないんだが、ま、いいか。あの映画にはそもそも“面白い”も“退屈”もないんだよ。一時間半に及ぶ映像が収められたフィルムと言う物理的な存在であって、その内容をどう捉えるかは俺達次第なわけだ。実際、後ろの女子大生達は最終的に何故か面白いと言う評価を下している」
「彼女達は箸が落ちてもSNSに投稿する人種だと思うけど……」
「真実は一つしかなくても、解釈は人の数だけある。そう言う事だ」
「いや、でも、実際アレは滅茶苦茶つまらない作品だったでしょ」
「そうだとしても、それは俺達の精神が退屈だったと感じただけの話であって、映画そのものの持つ価値じゃあないんだ。俺達は自分の価値観を元に勝手に期待して、勝手に失望しただけのこと。俺達が何かを感じる時、それは自分の精神から浮かび上がって来た物で、自分の持ち物なんだ」
「じゃあ、あれを退屈だと思う私達の心が貧しくて、満足して席を立った彼女達の心の方が豊かって事?」
「それもお前の勝手な価値観での順位付けに過ぎない。あの程度で楽しめる彼女達は映画を見る目がないと評価する奴だって世の中にはいるだろうし」
「な、なるほど。見損なうのも、その前の期待も、私の中の出来事なのに、その原因を私以外に求める事は間違っているとニーチェは思ったのね。【無情にもその人物のせいにするのである。】釈然としないけど、物事は気の持ちよう一つで変わっちゃうし、そう言われればそうなのかも?」
「そう言う事だな。この辺りは仏教の思想にも似ているかもな」
「ふーん。あ、じゃあ、冒頭の長台詞は仏教の言葉なの?」
「いや、超がつく有名なフランス人だ。彼の言葉は【神は死んだ】よりも有名だろうな」
「って事は、私も知ってる人だよね?」
「ああ。『人間は考える葦である』のブレーズ・パスカルその人だ」
「え?」
「彼の遺稿がまとめられた『パンセ』が両方とも出典のはずだ」
「同じ本にこの二つの文章書いているの? どんな判断!? 葦なの? 怪物なの? みみずなの? 褒めてるの? 馬鹿にしてるの? そして屑で締めるの!?」
「よっぽど人間に対して絶望してたんじゃないか?」




