【一一七】【情動の意志】
【ある情動を克服しようとする意志も、一つまたは複数の他の情動の意思の現れにすぎない。】
「【情動】って言うのは、感情の動きをあらわす日本語の中でも、特に激しくて、刹那的で、そしてその感情が思わず身体に出てしまうような行動だ。ちょっとした一言に我慢できずに叫んでみたり、一口食べただけで料理の美味さに涙したり、葬式の途中になんか無性に笑いが込み上げて来たりな」
「最後のはどうなの?」
「いや。なんか、笑っちゃあいけないと思うと、笑えて来るんだよ」
「しちゃあいけない! と思うと、逆にやりたくなっちゃうって奴?」
「かもな。ちなみに、そう言う心理的な効果を“カリギュラ効果”って言うみたいだぞ」
「カリギュラ? 日本語ではなさそうだね」
「ローマ帝国大三代皇帝である、ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスの略称なんだが、カリギュラ効果自体は、狂気に犯されていたと言う彼を題材にしたエログロ映画があまりにも残忍だった為に、絶対に見ない方が良いと噂された結果、多くの人間が映画館に足を運んだ事に由来する。まあ、所謂“ボストンでは禁止”って奴だな」
「なんじゃそりゃ」
「まあ、俺も映画自体は見た事ないから詳しくは知らないが、“禁忌”と言うのは人々を遠ざける為の物なんだが、それと同時に人々を惹き付ける効果もあるみたいだな」
「君子は危ない所に近づかないと言うけど、虎児を得る為には虎の穴に入らないと駄目だしね」
「若干話がそれてしまったが、内から湧き出る【情動】って言うのは厄介だ」
「お喋りを抑えられないように?」
「そう。楽しいとついつい喋り過ぎてしまう。これが雑談ならまだ良いが、例えば楽しいからと言ってゲームばかりしていたら本業が疎かになっちまうし、SRのカードが欲しいと言う欲求のままに動いたら、来月のカード請求が凄い事になる。ひょっとしたら、愛のままに行動してストーカー同然の行為をする奴がいるかもしれない」
「それはまあ、よくある話と言えば、そうなのかな? 偶に思うんだけど、動物とかはどうなの? あいつ等はやりすぎちゃう事はないの?」
「飼い犬とか猫は太り過ぎたりとか、高血圧だったりとか、人間と同じ様な生活習慣病になるみたいだけど、これも動物の“食える時に喰っとけ”って言う【情動】なんじゃないか? 野生の場合は少しでも調子こいたら簡単に死ぬからな。欲望のままに行動する個体から淘汰されていって、結果バランスが取れてるんじゃあないか?」
「なるほどね」
「じゃあ、何故に人間界では過ぎた【情動】がまかり通るのか」
「恵まれているから、だよね。それが許される環境にあるから、人は無茶ができる」
「そ。狩猟から農耕に切り替えた結果、人間は他の動物以上に蓄える事に成功した。その結果、過ぎた【情動】が許されるようになった」
「でも、さっきの生活習慣病じゃあないけど、それにも限界があるわけでしょ? 思うが儘に我が儘に無限に行動できる人なんていない」
「そうだな。皇帝カリグラもそうだった。皇帝の権力と狂気と言う組み合わせの結果、彼は最終的に暗殺されその生涯を終える。感情に任せただけの行動と言うのは、結局いずれ破綻してしまう。だから人間は【情動を克服】しようとしたわけだ」
「やっと話が戻って来たね。【情動】の【克服】か。犬だったら躾されるよね。あ、人間もか。最近は怒らない躾とか流行っているみたいだけど、どうなんだろ」
「高校生がそんな子育て事情に口を挟めるかよ。まあ、俺は割と怒られて育って来たからな」
「ちなみに、なんて怒られたの?」
「『屁理屈言うな』」
「知ってた」
「そう言われると俺は『じゃあ、感情論なく論理的に否定してみてください』と返した」
「クソガキっ! そりゃあキレるよ! 下手したらぶん殴られるよ!」
「そう言う千恵は?」
「まあ、私外面いいから。それなりに器用で、空気読めるもん」
「自分で言っちゃった!」
「兎に角、言われてみれば、自分の感情を出して周囲に迷惑をかけない訓練って言うか躾って言うかを、子供の頃に受けた覚えはあるね。小学校の低学年の頃は授業中に叫んだり立ち歩いていたりした子も、三年生にもなれば大抵は落ち着いて来るし」
「だな。つまり、俺達の社会は【ある情動を克服しようとする意志】によって形成されていると言っても過言ではない。日本人の場合は“天網恢恢疎にして漏らさず”とか“お天道様に顔向けできない”とか、周囲の人間、或いは社会その物に対して見られていると言う【克服】の方法がメジャーか。海外ではキリスト教を代表する様な天国だったり、シャーマニズム信仰であれば先祖代々の霊とかの場合もある」
「てんもーかいかいそ?」
「空には悪人を捉える網が張られていて、天罰が絶対に下るって考え。『日頃の行いが良かった』『悪い事は必ずばれる』って言うだろ? 罪には罰と言う考え方を徹底する事によって【情動】を抑え込もうとしたんだ」
「思いっきり怒る躾の仕方だね、それ」
「ん? ああ。人類そのものは“罰”に躾られて来たな。その辺りは前にも話したけど」
「具体的には【一〇四】【人間愛の無力】だね」
「俺の財布に深刻なダメージを受けた頃の話だな」
「酷い事件だったよ」
「まあ、そんな前のアフォリズムと関係なく話を進めよう」
「はいさ」
「人間は【情動】を【克服】する為に戦ってきた。その歴史を見て、ニーチェは言うわけだ。【ある情動を克服しようとする意志も、一つまたは複数の他の情動の意思の現れにすぎない。】ってな」
「うーん。こう、同じ言葉を繰り返し使ってる所から見ると、これは深い言葉だね」
「推考が浅過ぎる!」
「いや。何かトートロジーで誤魔化している感じがするって言うか、だからこそ意見が難しいと言うか」
「簡単に言ってしまえば、“【情動】を【克服】したいと言う【情動】がある”って事だ」
「そんな1+1=2見たいに言われても」
「【情動】に任せては駄目だ! って言う考え方もまた、【情動】なんだよ」
「戦争は駄目だ! って言いながら武力介入する様なもん?」
「それは違うような気もするが、捉え方としては近いのか? なんとも微妙な表現だな」
「ま、私はこの解釈で聴くから、続きをどうぞ?」
「さいですか。ま、要するに【情動】を【克服】した所で、結局は【情動】から逃れる事は出来ないってことだ。躾や常識も【情動】を抑え込む手段であるが、それは支配者階級に都合のよいルールを教え込まれたと言う事であり、【克服】しろと言う【意志】は支配者達の【意志】でしかない。そして、その【意思】もまた、支配者達が過剰な欲望を抑え、自らの破滅を避けたいが為の物だ」
「えっと、上流階級に対する批判って事?」
「そうとも取れるし、物事には何事も裏があるってメッセージも感じられるな。今までの話とは少しそれてしまうけど」
「って言うと?」
「例えば、ダイエット。痩せようって決意するだろ? それは何故?」
「健康とか? 或いは、好きな人が出来たとか?」
「と、言う感じに、何かの【意思】には必ず他の【意志】が付随する。物事を考える上で、それは非常に重要な事だ」
「ま、人間腹の中では何考えているからわかんないもんね。利人とかは特に」
「誰だってそうだ。だから上辺だけを見る事無く、裏――いや、本音を見つける努力をするんだと、ニーチェはこのアフォリズムを通してそんな事を言っている気が俺はするんだ」
「なるほどねー。じゃ、利人、最近自分の【情動】に逆らわずに行った事を一つどうぞ」
「下校中に小学生が公園でドッヂボールやってたんだよ」
「小学校を卒業してから初めてその単語を耳にしたよ」
「だろ? 懐かしいだろ?」
「うん」
「だから混ざって一時間も一緒に遊んじまった」
「すげえ!」
「次の日『怪しい高校生が公園で小学生にボールをぶつける事案が発生』って回覧板で回って来た」
「あれ利人かよ!」




