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【一一六】【人生の偉大な時期】

【わたしたちが自分の悪をみずからの最善のものと呼ぶ勇気を持てたとき、それが人生のもっとも偉大な時期である。】




「誰にだって人生の“絶頂期”って言うのがあるもんだと信じたいよな」

「特に今がどん底なら、尚更そう信じたいかもね。ニーチェがそんな甘ったるい事を許してくれるとは思わないけどね」

「さあ? どうだろうな? 案外、優しい言葉あるかもしれねーぜ?」

「ってわけで、【人生の偉大な時期】について今回は解説していくわけなんだよね?」

「そ。毎度のことだけど、前後関係が良くわからないタイミングで、結構なテーマをブチ込んで来るもんだ。そもそも、この【偉大な時期】って言う訳からごっつくて、ちょっと近寄りがたい気がしないでもないな」

「だね。まあ、利人が言った様に“絶頂期”って言う捉え方で良いのかな?」

「うーん。自分で言っておいて何だが、微妙にニュアンスが違うかもな。ただ単純に全盛期とかそう言う意味じゃあなくて、人間として【偉大】であるって事。ニーチェの想う、正しさに準じているその時の事だ」

「要するに、【力への意思】って奴?」

「そうだな。その視点で読んでいけば、わかりやすいかもしれん。まず【自分の悪】と言う単語。ニーチェを読む上で滅茶苦茶面倒臭いのは、この“善悪”の問題だ。キリスト教的な観点からの“善悪”で語っているのは間違いないけど、必ずしも“善”と書かれていたからと言って、ニーチェがそれを褒めているとは限らないと言う事だ」

「あくまで、誰かの物差で測った価値観だからって事だよね。誰かに褒められるのは嬉しいけれど、それは型に嵌るって事。自分を作るって言うのは、自分以外でなくなるって事なのだから」

「そう。このアフォリズムは正にそれを言っている」

「【自分の悪をみずからの最善のものと呼ぶ】だもんね。ここだけを読んだら、なんて責任感のない奴だ、とか、自分勝手な発言だ、とか、反社会主義者だ、とか、苦情が滅茶苦茶飛んできそうだよね。少なくとも、テレビで流れたらBPOがうるさそう」

「それも今更な意見だがな。まあ、ニーチェは深夜枠って事で勘弁してくれ」

「最近は深夜でも五月蠅いらしいけどね」

「ま、いつの時代でも苦情の声の方が大きいもんさ。実際、ニーチェの著書は、発売当時は非難の方が多かった。そりゃあそうだ。『悪を最善』と呼ぶなんて、根本的に矛盾している」

「だから、この【悪】を考える時は、誰かに決められた【悪】である事を想定しないと駄目なんだよね? でも、普通に世の中で悪い事をするのが良い事だとは思わないんだけど」

「例えば?」

「そりゃあ、学校の窓硝子を割って回った悪行を【最善】だ! なんて言われても、全然納得できない」

「それを【偉大な時期】と言う奴がいたら、阿呆だ。捕まった方が良い」

「でしょ? 【悪】は所詮【悪】なんじゃない?」

「じゃあ、悪政を布く帝国軍を打倒し、新しい政府を立ち上げる事はどうだ?」

「急にスケールがでかくなった! でも、確かに反逆って言うのは凄い悪事だし、後からみればこれ以上なく正義だね」

「偉大な話だろ? って言うか、お前こう言う話好きだったよな」

「うーん。戦記が好きって言うか、そこを生きる人間が好きなんだけどね」

「ストーリーよりキャラクターってか? 退屈だな、そりゃあ」

「ちっちっち。人間を描くのとキャラクターが動くのは全然意味が違うんだよ、利人。人間ドラマとは言うけど、キャラクタードラマとは言わないでしょう?」

「一理ある、な」

「でしょ?」

「っち。なんか敗北感」

「なんで!?」

「ま、それはおいておいて、このアフォリズムにあるのは何時も通りの既存の常識に対するニーチェの鋭い反論と言うわけなんだが……」

「だが?」

「ちょっと他のページにも足を伸ばしてみようか」

「ん?」

「ニーチェはちょこちょこ詩的な表現を交える事があるんだが、そのもの詩を載せる時もあるんだ」

「哲学書に詩を載せるの? もう、何の本かわかんないんだけど」

「偶に俺もそれは思う。で、だ。【善悪の彼岸】のラストは詩で締めくくられている。そこから気になる所をピックアップしておいた。前後にも文章は当然あるが、省かせて貰う」


【わたしは邪悪な狩人に(・・・)なって!――見るが良い、いかに強く

 ひき絞られていることか、わたしの弓が!

 これほどに強くひき絞った物は、最も強き者なのだ―】


「えーっと、良い歌だね?」

「わからない時はわからないと言えよ。何時もみたいに」

「だって、哲学でわからないのは良いけど、詩で質問するって事は私の方が利人よりも芸術的センスがないみたいじゃん。それは嫌だなー」

「実際、俺の方がセンスあるんじゃあないか?」

「は? 私、ヴァイオリンで入賞した事あるけど? 茶道も嗜んでるし、陶芸も出来るよ」

「千恵って結構なお嬢様だよな」

「で、利人はリコーダーも鍵盤ハーモニカも吹けないじゃん」

「どうでも良いけど、小学生が習うから見下されているけど、リコーダーも鍵盤ハーモニカも結構技術がいる楽器だと思わないか? マラカスとかにしてくれよ」

「いや、それ以前に利人にはリズム感が欠如しているから。マラカスだって上手く触れないよ。ねえ、カラオケで真剣に歌って五〇点以下ってどうやって取るの? 今度教えてよ、ねえ」

「自称センスのある千恵がわからなかったこの詩の意味は!!」

「思ったより音痴を気にしてた! ごめんなさい!」

「引き絞られた弓について描写しているわけだが、この狩人は正にこのアフォリズムその物だ」

「ん?」

「弓を遠くまで放つ為にはどうすればいい?」

「そりゃ、強く引くんじゃないの? 弓道なんてやった事もないけど」

「俺もやった事はないが、正解だ。まあ、詳しくは違うかも知れんが、一般的なイメージとして、弓は大きく引いて射る物だ」

「こう言う比喩で細かく突っ込んで来る男子はモテないのは間違いないよ!」

「その時、弓は限界まで張って、糸が千切れ、壊れてしまうんじゃあないかと思ってしまうだろう。弓に取ってこれは悲劇だ」

「ふんふん」

「だが、壊れずに矢を放つ事が出来たら? きっと遠くまで飛ぶだろう」

「だろうね」

「つまり限界ぎりぎりの壊れそうな状態、激しい負荷がかかったこのコンディションは紛れもなく【悪】だ」

「あ、そう言う事」

「だが、その【悪】があったからこそ、矢はどんな矢よりも遠くに飛ぶ」

「つまり【最善】の結果が出るって事ね」

「それは違う」

「それは違った!」

「確かに、矢が遠くまで飛んだ事は素晴らしい。が、アフォリズムはこう言っている。【自分の悪をみずからの最善のものと呼ぶ】とな。つまり、【最善】とは結果ではなく最も苦しかった時期だと」

「つまり! 結果よりも過程が大切だって事だね!」

「それも違う」

「それも違った!」

「ニーチェは最悪の状態を【最善】だと認める事ができた時こそが【偉大な時期】だと言っているんだ。つまり、自分の苦しみも、その報酬も、全てを受け止めて認める事が出来た精神を【偉大】と評価しているわけだ」

「つ、つまり?」

「一切の自己否定をせず、全てを自分自身だと認める事の必要性を訴えるアフォリズムなわけだ。【力への意志】に至る為には、どんな悪夢でも肯定する精神力が要求される。因みに言っとくが、終わりよければすべて良し、なんて話でもないからな? 【永遠回帰】だ。初めも終わりもこの世にはない。それでも、自分の全てを肯定し、悲しみも苦しみも自分の物だと受け入れる事で超人への道は開かれるんだ」

「なるほど」

「つまり、そうだよ! 俺は音痴だよ! でもそれも俺だ! 好きに言えよ!」

「めっちゃ気にしてた! ごめんって、ね? ほら、えっと――私の奢りで狩りにでも行く?」

「いかねーよ! お前はイギリスの貴族か!」


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