【六五】【認識の魅力】
【認識にいたる途上において克服すべき羞恥心があれほど多くなかったら、認識と言うものの魅力はごくわずかなものだろう。】
「続けて『認識』に関する箴言だね。これは狙って並べてあるって考えても良いのかな?」
「そう見るのが妥当だろう。流石に偶然一致はないと思うぞ。もしかしたら、元々一つの箴言を長くなるから二つに分けたのかもな」
「前回【六四】では『ここの経験や道徳による認識があるだけで、真理なんてない』って解釈をしたよね?」
「この断章では、『個人の根底に根付いた道徳や習慣、知識によって事実とは姿を変えてしまう』と言う『認識』の眼を持つまでの過程には、克服すべき羞恥心は多く、そしてそれが認識の魅力でもあるとニーチェは説いている」
「羞恥心かぁ。遠近法の存在に気が付くことによって、自分の勘違いや思い込みに気が付くことを言っているのかな? 勘違いって指摘されると凄く恥ずかしい物だし。でも、その間違いに気が付くってこと自体は決して悪い事じゃあないよね。より正しさに近づくわけだから」
「流石に、前回からの続きの内容なだけあって理解が早いな」
「まあ、あの流れなら流石にね」
「では、もう少し掘り下げて見ようか」
「…………それは前回話そうとしていたことの説明?」
「そうだな。近い話しもするかもしれん。問題だ。ニーチェの言う『羞恥心』を覚える思い込みや勘違いは何を指していると思う? 克服すべき過ちとは何だ?」
「道徳。だったよね。『良いものは良い』って言う思考停止を問題にしていたんだっけ?」
「その通り。道徳。もうちょっと言葉を柔らかくすれば常識と言って良いかもしれない。俺達は経験に依存する常識を正しいと思い込み、勘違いを起こす。では、この道徳と言うのは?」
「【奴隷の道徳】でしょ? 大丈夫? 二話連続で同じ話ししてない?」
「最初にも断ったが、続きの箴言だからな。仕方がない。だから今回はもう一歩だけ踏み込んだ話しをしたいと思う。ニーチェの言う【奴隷の道徳】を象徴する文化についてだ」
「【奴隷の道徳】を象徴する文化?」
「その名も『キリスト教』と言う」
「…………大丈夫なの?」
「何が?」
「宗教批判って大丈夫なの? 信仰の自由が認められているんでしょ?」
「別に信仰を批判するわけじゃあない。あくまでニーチェがキリスト教を批判していて、俺達はそれについて話すだけだ。何も問題ない。それにニーチェがキリスト教批判をしていたと言うのは有名な話しだから、どの道避けては通れない話しさ」
「敬虔なキリスト教徒の皆さん。私、二階堂千恵にはキリスト教に悪意を持っていません」
「この時代のヨーロッパでは、やっぱりまだまだキリスト教の力は強かった。例えば、チャールズ・ダーウィン。彼が『種の起源』を出したのもこの時代のことなんだが、彼は凄まじい非難を浴びせられることになる。何故だか知っているか?」
「えっと『人が猿から進化した』って言ったからだよね?」
「うむ。正確には『人と猿は共通の先祖を持っている』と言ったわけだ。実際に猿が人間になったわけではないから、その辺りも気を付けてくれ」
「細かいなぁ」
「細かくない! さて現代日本に生きる俺達からしてみれば、科学的根拠(証拠はないが)に基づくこの主張を聞けば、『へー。そうなん? 人間で良かった』程度の感想しか抱かないかもしれないが。当時のキリスト教文化で暮らす人々には到底受け入れられる物じゃあなかった」
「人間……と言うか全ての世界は神様が創ったから、進化するなんてことは有り得ないって話しだっけ?」
「加えて、人間は他の生物とは違う、選ばれた生物だと言う考えもあったんだ」
「なるほど」
「そんなわけで、ダーウィンの進化論は神への侮辱と捉えられ、今でも進化論を否定する人は非常に多い。四六億年前に地球が出来たと言うことを間違っていると信じている人もいるようだ」
「確かに、かなり強い遠近法でキリスト教は世界を見ているみたいね」
「くっそどうでも良いが、そう言う子供達がポケモンをやる時はどう思うんだろうな。進化するけど」
「本当にどうでも良い!」
「ポケモンのおかげで、俺は進化と言う概念を自然に受け入れることが出来たと思うんだ」
「それはその通りだけど」
「ただ、生物の先生に『あれは進化ではなく変態です』と説明された時のショックだけはどうしようもない」
「この話しがどうしようもないよ!」
「少々、脱線したな。メガガルーラをメタったパーティー編成の弱点についてだったな」
「おい!」
「冗談だよ。そんな時代に、ニーチェは【神は死んだ】と言ったわけだ。どれだけ滅茶苦茶なことを言っているかわかるだろう?」
「うん。私達で言えば、『円周率が割り切れることがわかりました』って位の衝撃だってことでしょ? 有り得ないことが起きた……と言うより、前提が崩れてしまったって感じ?」
「そんな感じだな。さて、そんなキリスト教が強かった時代、ニーチェはキリスト教を批判する。それも【奴隷の道徳】とまで名付けてだ」
「冷静に考えると、凄まじいこと言っているよね。『お前等はキリスト教の奴隷だ!』って言っているわけでしょ? こんなのアイドルのファンに『お前等は養分だ!』って叫ぶのと一緒でしょ? そりゃあ、本も売れないよ」
「しかしニーチェにしてみれば、それくらいキリスト教徒と言うのは哀れな存在だったんだろうな。何故ニーチェがキリスト教を【奴隷の道徳】と呼ぶのかを説明していこう」
「敬虔な信徒の方が聴いていませんように……」
「簡単に言えば、『天国へ行く』ことが彼等の究極目標だからだ」
「天国、ね。信じてはいないけど、死んだら地獄よりは天国を希望するかな」
「さて。じゃあ、天国へ行く方法を知っているか?」
「勿論! 『らせん階段』『カブト虫』『廃墟の街』『イチジクのタルト』『カブト虫』『ドロローサへの道』『カブト虫』『特異点』『ジョット』『天使』『紫陽花』『カブト虫』『特異点』――」
「――『秘密の皇帝』! と、前話に引き続き、ジョジョネタをやった所で、本題に戻ろう」
「私が言うのもなんだけど、ジョジョ好きだよね」
「ああ。許されるな、『プッチ神父と永遠回帰』とか『覚悟と男の世界』とかやりたいくらいだ」
「凄く気になる!」
「まあ、流石にやらんと思うが。さて、天国へ行く方法って言うのは、キリスト教の規律に従い、清く正しく美しく生きることに他ならない」
「『汝、隣人を愛せよ』とか?」
「そうだな。だが、もっとわかりやすい奴で話しを進めようと思う。『心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。』と聖書にはある。他にもイエスは『富める者が天国へ行くのはラクダを針の穴に通すよりも難しい』と説教している。解釈は色々とあるが、素直に受け取るなら『現世での富の多寡は天国に行くには関係ない』と言うことだ。むしろ、お金持ち程、天国へは行けないとも取れる」
「『清貧』だっけ?」
「その通り。所有しない美徳。今も『ミニマリズム』だっけ? 極限まで無駄を省いた芸術様式が一部では流行っているみたいだな。地球の資源は限りあるわけだし、一人でそれを独占する強欲さは、確かに周囲の迷惑を考えない悪かもしれない」
「偶にハリウッドスターとかが巨額の寄付をするのがニュースになるけど……」
「キリスト教的な価値観が強い欧州では、寄付は美徳だからな。が、ニーチェはそう考えなかった。『これ、絶対に言い出した奴、貧乏だったよな』と思ったんだ」
「うわぁ。前も思ったけど、身も蓋もない意見だよね、やっぱり」
「実際。イエス・キリストが活動していたあの時代、ユダヤ人は故郷を追われ、放浪の民だった。ユダヤの神に見捨てられた民族だった。少なくとも、ヨーロッパの支配階級ではまったく有り得ない地位にいたようだ」
「それは……豪華な暮らしをする貴族達を見て『なんで俺達はこんなにも惨めなんだ?』って思うかもね。そこでキリスト教が産まれるんだね」
「『俺達は貧乏だ』に『貧乏人は天国に行ける』『金持ちは地獄に落ちる』と言う文章が追加される。特に何もしていないけど、幸福になれる逆転ホームランさ。ここでニーチェが問題にしたのは、『天国』なんて物はないってことだ」
「どうだろう。実はあるかもよ? 私達も流石に死んだことはないし」
「まあ、そうだけど。でも、確認のしようがないだろ? 少なくとも、この瞬間、この場には『天国』なんてない。おーけー?」
「いえー」
「つまりキリスト教は、どうしようもない現実を諦め、在りもしない天国に幸福を求めたんだ。自分が受ける苦難や苦痛や不幸は、天国へ行く為の試練であり、耐えれば天国へ行ける。この考えって、『今』に対する侮辱だと思わないか? 今を未来の為の過程としてしか考えていない。少なくとも、ニーチェはそう考えた。そして【奴隷の道徳】に至ったんだ。キリスト教の教えは、天国へ行く為の物であり、現実を生きる人の為の物ではないと。生命に対する欺瞞であると」
「まあ、天国で幸せになる努力をするくらいなら、現実で幸せになる努力をした方が良いよね。でも、清貧や謙虚とか、寄付とか自体は別に悪い物じゃあないでしょ?」
「その『良い』自体が既にキリスト教的な道徳に影響されているんだよ。貧乏人は自分を清貧と呼べば気が紛れるし、金持ちが質素な生活をすれば貧乏人からの余計な追及が減る。誇る物がない人間は自分を謙虚と呼ぶだろうし、黙っていれば他人のプライドを傷つけることも少ない。寄付されれば弱者は嬉しいし、金持ちは名声を買える。本来、それらに善悪なんて価値観はなかった。ただそれぞれの視点があるだけさ。しかし、キリスト教はそれを『善』と呼ぶことにした」
「うーん。別にそれが悪いこととは思わないんだけどなぁ。何だかんだで世界はそれで上手く回っているわけでしょ?」
「それは『ブラック企業ばっかだけど、日本経済を動かす為には仕方ない』と言うのと同義だ。結果ばかりが良くても意味がない。アバッキオの上司も言っていただろ?」
「またジョジョネタ!?」
「善悪を超えた場所にも、思考の余地は残されている。ニーチェはそう言うことを言いたかったんだと俺は思う。『善悪の彼岸』なんてタイトルの本を出版しているくらいだしな」
「ニーチェ流の認識【遠近法】で物事を見る為には、『善悪』を捨てろってこと?」
「そうだな。少なくとも、当時のヨーロッパで蔓延していた『キリスト教的善悪』から人類は脱出するべきだと考えていた。『キリスト教なんて、数ある思い込みの一つに過ぎないんだよ』とな」
「『キリスト教』と言う勘違いに気が付くこと。それが【遠近法】によって得ることが出来る魅力なわけだ」
「うむ。ただ、別にキリスト教に限らないぞ。社会で生きる俺達は知らず知らずの家に、幾つも思い込みを抱え込んでいる。そして、それを否定することは、大袈裟でなく自分の根幹を揺るがすような思い込みもあるだろう」
「でも、ニーチェはそれを克服しろって言ってるんでしょ?」
「ああ。善悪を超えた存在。【奴隷の道徳】から脱出した人間。それが、ニーチェの思想のなかでも【永遠回帰】や【神は死んだ】と同じくらい有名な【超人】だ」
「【超人】……。ニーチェはその【超人】だったの?」
「いや。少なくとも正気の内では自分は【超人】ではないと思っていたようだ」
「狂気に犯された後は……そう言えば、年譜で【十字架に架けられた男】とか【ディオニソス】とか手紙で名乗っていたってあったね」
「そうだな。因みに、弁護しておくが、発狂後のニーチェはとても優しく穏やかで紳士的な人だったそうだ」
「あ、そうなんだ。てっきり……」
「てっきりって何だよ!」
「ん? あれ? ちょっと待って、十字架に架けられた男ってさ、あの人だよね?」
「キリストだろうな。キリスト教は嫌いだが、キリストは好きだったようだ」
「ニーチェに取って、キリスト教って何だったんだろ? 牧師の子供で、信仰を捨てて……」
「さあな。今後語るかもしれないし、語らないかもしれない。取り敢えず、【六五】【認識の魅力】はここで終わりとしよう」
「はい。じゃあ、また次回!」