【一〇四】【人間愛の無力】
【現代のキリスト教徒たちがわたしたちを――焚刑にしないでいるのは、人間愛からではない。彼らの人間愛がちからのないものだからだ。】
「【人間愛の無力】」
「ラスボスの台詞かな?」
「今断章のタイトルだ。【一〇四】【人間愛の無力】。この邪気眼力、テンション上がるな!」
「タイトルも名指しで某十字架の宗教へと向けているね……」
「さて。まず焚刑だが、これは簡単に言うと火炙りだ」
「わーお。ローストにするの? 人を?」
「その通り。最近は某ゲームで有名なジャンヌ・ダルクの最後もコレだった。彼女同様、魔女と呼ばれた人達は、十字架に磔にされ、足元に火を焚かれ、処刑されていったらしい。キリスト教の地獄は燃え盛る火焔に溢れた場所だから、その辺が関係しているのかもな」
「うへ」
「死因は焼死――ではなく、窒息である事が多いらしい。ま、火事と一緒だ。高温の煙に巻かれて、喉も肺も焼爛れて呼吸が出来ずに死ぬ。残酷極まりない殺人方法と言えるだろう」
「殺すなら首を落とすだけで良いのに、何で昔の人はわざわざそんな酷い方法で殺すわけ?」
「単純に、人間は暴力が好きだってのもある」
「認めたくないなぁ」
「後は『見せしめ』って言うのは大きいだろうな。『一罰百戒』って奴だ」
「一罰百戒?」
「『一つの罰を与える事が、一〇〇の戒めに値する』ってことさ。目の前で焼き殺される奴がいたら、同じ真似をしようとは思わないだろう?」
「なるほど」
「また、大勢の人間に対する見せしめにすることで、自分の権力を示す事にも繋がる。わざわざ十字架に縛り付けて燃やすなんて面倒な手段を取れるって言うのは、それだけの財力や人を使う力があるって事だからな。誰かを裁く立場の人間の力が弱かったら意味がないだろう?」
「確かに裁く人が弱かったら、そんな残酷な死に方は嫌だって反論する人も出てくるよね。って、あれ?」
「どうした?」
「いや、今って世界的に死刑は反対って国が多いんだよね」
「そうだな『先進国カッコ笑い』じゃあ、人権の観点から死刑は取り行われていない国が殆どだ」
「だよね。でも、それってさ『命の大切さ』。人間が人間を思う気持ちから出来た流れじゃあないの? それこそが【人間愛】じゃあないの? 残酷な方法が罷り通っていた昔の方が、【人間愛】がなかったんじゃあない?」
「ああ。普通はそうなる。が、ニーチェはそう感じなかった。むしろ、死刑反対と言う風潮に【人間愛】の喪失を覚え、ここに警鐘を鳴らしているわけだ」
「うーん。良く分からないなぁ。って言うか、利人はさ、死刑反対派? 賛成派?」
「俺は別にどうでも良い派…………ってだけじゃあ会話にならないな。ぶっちゃけ、法律なんて人が作ったもんだから、完全でも完璧でもない」
「『全ての自然でない者は不完全である』って言ったのはナポレオンだっけ?」
「おう。まさしくそれだ。ここで『自由ヶ丘利人は死刑反対派である』とか言うのは簡単だけど、もし一〇〇年後に死刑賛成派が主流だったら、俺はとんだ恥晒しだからな。あのソクラテスですら、奴隷に賛成していたんだぞ? 真面目に話し合う方が馬鹿馬鹿しい」
「…………じゃあ、どうして世の中はそのどうでも良い話しで盛り上がってるの?」
「さあ? ま、金じゃない? 弁護士とかが儲けているんじゃあないの?」
「えー」
「さて。話を戻そう。何故、【人間愛】の力の無さが、人を殺さないのか」
「まあ、普通に考えて愛が人を殺さないのは当然だけど、それは愛の力なんじゃないの? さっきも言ったけど、愛の力が人を殺さないんじゃない?」
「この考えはニーチェの思想の中でもかなり特異なものだからな。順を追って説明していこう。まず、ニーチェは著書【道徳の系譜学】で人間は【約束する生き物】になるべきだと言っている」
「約束、ね。まあ、確かに自分から約束できる生き物なんて人間だけだよね、多分」
「そうだな。約束はある意味で火や数字以上の発明かもしれない。約束することで、人は成長できた。が、ニーチェはその反面で【忘却】の重要性も語っている」
「確か、前も聞いた気がするかも?」
「嫌なことを一々覚えていても仕方ないし、いつまでも過去を引き摺っていても仕方がない。嫌なことがあったら、日記なんて書かずに寝ろ! とまで箴言で残していたりもするほどだ」
「約束と忘却。そう言えば、こないだ誰かさんと一緒に遊びに行く約束を忘れられた気がする」
「…………そう! 人間は約束を忘れてしまう愚かな生き物だ。勿論、どちらも人間には必要なものだが、しかし約束を忘れるのは不味い」
「そうね」
「…………だから、人類は忘れてはならない約束を覚える方法を考えた」
「へえ。参考までに聞いても良い?」
「…………『痛み』だ。人類は痛みによって無理矢理身体に約束を刻み込んだ」
「利人が財布に大ダメージを受けたみたいに?」
「…………その通り。一月分の小遣いがケーキ代に変わるのを見て、約束を守る大切さを俺は改めて学んだ。ニーチェは残酷で見せしめのような処刑に、俺の小遣いと同じ価値を見出したわけだ」
「利人のしょーもない話しのせいで事の重大さが伝わって来ないよ」
「そこは、身近な例えでわかりやすいと言って欲しかった」
「そんな無茶な」
「じゃあ、釜茹でにされる五右衛門を見て、自分も盗みをしようと思う奴がいるか? 断頭台にかけられて泣き叫ぶ反逆者の妻を見て、国に楯突こうと言うモチベーションを保てるか? 残酷な処刑を見る事によって、人間はようやく、やって良い事と悪い事を覚えることが出来たんだ」
「つまり、非道な処刑は人間達に『繁栄の為の約束』をさせる為の手段だったってこと?」
「そう言う事。何度でも言うけど『真理などなく、全ては許されている』んだ。本来、人を殺しちゃあ駄目な理屈なんてない。が、統治するのに都合が良いから人類は『殺人』を禁忌とした。過去何千年と、人類は『殺人』の罪を犯した人間を殺し、『殺人』をするべきでないと人類そのものに言い聞かせ続けて来たんだ。人間を守る為に、人類の文化の為に、処刑は存在し続けていた」
「じゃあ、死刑反対って言うのは、何を意味しているの?」
「過去の痛みを忘れているんだろうな。人類が処刑によって流して来た血の意味を」
「そう言うポエムは良いから、わかりやすく説明してよ。理屈っぽいのに無駄に文学的だよね、利人って」
「ほっとけ。死刑に反対するってことは、つまり人類に痛みはもう必要ないって思っているんじゃあないか? 刑を軽くすることで痛みは軽くなる。それでも人類はもう、約束を忘れないと思っているんだろう」
「なるほど。でも、なんだ。素晴らしい事じゃん。痛みは小さい方が良いよ」
「当然。人は死なない方が良いし、殺さない方が良いに決まっている。勿論、約束を覚えてられるならな」
「含みのある言い方だなぁ。人類を信じようよ」
「信じる? 馬鹿言うなよ、千恵。何千年も同族で殺し合いを続ける動物の何を信じれば良いんだ? 流した血が最も多い動物の癖に、未だに何も学習していないこの生き物。個人個人で信頼できる人間がいたとしても、人類そのものの善性なんて信じられるものか。まだ、ニーチェの言う約束できる動物になるには血が足らないさ」
「……もしかしたら、約束する頃には血が流れなくなってるかもね」




