【一〇〇】【安らぎ】
【わたしたちは自分を実際よりも単純なものと信じ込んでいる。そうすることで自分の仲間たちから離れ、安らぐのである。】
「記念すべき? 一〇〇個目の断章だけど、なんて言うか、ぱっとしないね」
「週刊連載している漫画じゃあないんだから、このページだけカラーとかにするとかできないだろ」
「まあ、そりゃあそうなんだけど、ちょっと期待外れかな」
「何を期待していたんだ、何を。さて、肝心の中身だが、なんともややこしい文章だ。千恵に言わせれば『哲学っぽい』文章か?」
「そうだね。声に出して読んでも意味がわからなければ『哲学っぽい』文章だよ」
「『クラムボンがかぷかぷわらったよ』も?」
「クラムボンって何? うん、哲学だね」
「あ、そう。さて、まずは前半部分を読んでみよう」
「【わたしたちは自分を実際よりも単純なものと信じ込んでいる。】だね。なんて言うか、ニーチェが言うには意外と言うか、だからこそ順当と言うか、色々考える余地がありそうな文章になっているね」
「ああ。普通だったら『実際よりも自分を頭が良いと信じ込んでいる』みたいな文章が来そうな所を、【単純なもの】と来た。何と言うか、肩すかしを食らった感があるな」
「うーん。ニーチェはつまり、人類にもっと期待をしていたのかな」
「それはあるだろうな。ニーチェは俺が読んだ限り、人間が大好きだし、真剣に人類の事を考えていた。で、後半にはこう続くわけだ。【そうすることで自分の仲間たちから離れ、安らぐのである。】」
「…………どーいうことなの?」
「人間は自分を単純と信じ込むことで、仲間達から離れて安らぐ事が出来る。簡単に略してみたけど、未だに難解だな。取りあえず後半部分を見てみよう」
「まず、【自分の仲間】って具体的に誰なんだろう。【わたしたち】と同じなのかな? それとも全く別の存在なのかな?」
「文章から考えるに、別だと思うぞ。【仲間】から離れる為に【わたしたち】は自分達を見誤っていると見るべきだと俺は思うぞ」
「私もそう考えていた」
「本当かよ……」
「でも【信じ込んでいる】って言うのは悪意と言うか、褒めているわけじゃあないよね。つまりさ、この最後の『安らぎ』もニーチェは良い物として考えてないんじゃあない?」
「だろうな。今日は冴えているじゃあないか!」
「一〇〇話だからね!」
「別に一〇〇話ではないんだけどな。後、このやり取りは大分前にもやった。その時は攻守が逆転していたけど。千恵の言う通り、俺も【安らぐ】と言う行為はニーチェが軽蔑するものなんだと思う。問題は【わたしたち】【自分】【仲間たち】と言うワードがそれぞれ何を指示しているのか、だ」
「ふんふん」
「まず、世間一般において、信じられている物とはなんだ? それによって軽んじられている物とはなんだ? そこを考えるのがポイントだろう。そして、信じる――『信仰』と言えば、『キリスト教』が真っ先に浮かぶ」
「ああ。確かに、ニーチェはキリスト教信仰に対してかなり否定的な感じだもんね」
「つまり、前半部分が言いたいことは『私達は宗教的な教えを真理だと考えている』って所か?」
「じゃあ、後半部分はどうなるわけ? 【自分の仲間たち】は誰になるの?」
「それは、実際の人間を指していると考えるのが妥当だろう。最初の【わたしたち】と同「えっと? じゃあ、つまり、宗教を信じることで、宗教を信じていない人から離れて、安らいでいるってこと?」
「そういうこと」
「つまり、【わたしたち】、単純ではない人間って言うのは、宗教を信じていない人って事だよね?」
「そう。ニーチェ流に言うならば【力への意思】によって動く人間のことって所だろうな」
「うん。わかってきたかも。最後の安らぎは完全に皮肉ってことだよね? 【力への意思】を放棄した人間達の【安らぎ】。向上心もなくて、その癖に強い人を妬んで足を引っ張る、【奴隷の道徳】、だったけ? 最初の頃、頻りに言っていたよね」
「象徴的な言葉だからな。千恵の言う通り、このアフォリズムは【力への意思】を放棄した人間の末路を【安らぎ】について語っていると考えられる。これも前に行ったと思うが、ニーチェがそう言う連中を【末人】と罵っている。こいつらは別に極悪人じゃあない。ただ世間に流され、ただ消費するだけの人間のことだ。目的もなく、意思もない。その癖に自己主張は強い」
「うーん。耳がいたい言葉だなぁ」
「だが、多分、居心地が良いんだろうな。それに【末人】になる為の環境は宗教だけじゃあないと俺は思う。あくまでもそう言った環境の母体がヨーロッパではキリスト教だったと言うことだろう」
「じゃあ、日本だったら?」
「うーん。世間体とか、じゃあないか? 他の国に言ったことはないから何とも言えんが、沈没する船から日本人を飛び降りさせる台詞は『皆、飛び込んでいます』ってジョークがあるくらいだ。同調圧力も、【安らぎ】を作る環境に一つだろう」
「世間の目を気にするあまり、新しい発想や行動に取りかかれないってことだよね」
「そうして、昔から続く文化や風習に囚われ、次第に自由を失っていくわけだ。法律なんて支配者の都合で作られるんだから『上に逆らうな』って言う文言は当然入っているんだよな」
「年功序列ってやつ?」
「それも【末人】製造に一役買ってそうだな。兎に角、支配者は俺達に一定の安らぎを与えてくれる。闘争から遠ざけ、不幸を少なくし、最低限の安全を保証する。そうして『このままでもいっか』と人々に思わせる。それが支配の神髄だ」
「革命とかって待遇に我慢できなくなった民衆によって引き起こされるわけだもんね。じゃあこの箴言は結局の所、【力への意思】を諦めた【末人】に対するニーチェの警鐘ってことで良いのかな? 闘え! みたいな?」
「だな。飼い慣らされるな、ってことだろうな」
「念のために訊ねるけど、別に革命を起こせとかそう言う話じゃあないよね?」
「ニーチェ本人がどれだけ考えていたか知らんが、マイルドに言うなら『挑戦しろ』って考えておけば良いんじゃないか? 小利口になって口先だけで何もしない奴になるよりは、馬鹿みたいにあたって砕ける奴の方が面白い」
「でも、ニーチェも【一〇〇】に来て宗教的な【安らぎ】すら否定して来たね。ほら、良く言うじゃん? 『宗教が心の支えになっている人もいる』ってさ、これ、真っ向からそれを否定しているよね」
「今更だろ? 【奴隷の道徳】だぞ? 【神は死んだ】だぞ? 最初から宗教を肯定する気が微塵も感じられねーよ」
「まあ、そうなんだけどさ。意識しなくても、人間って何かに支えて貰っているものじゃん? それが心であってもさ。それすら否定しちゃったら、生きていけない様な気もするんだけど」
「……心をなくしても元気に生きている人を、俺は一人知っているぞ」
「え? 誰?」
「その人は悪魔に心を八万円で売っちまったらしんだけど――」
「高田純次じゃん! なんか、納得したわ!」




