【九八】【良心の調教】
【良心を調教しようとすると、良心はわたしたちに噛み付きながら、接吻するのである。】
「なんとなくエロい! 【九八】【良心の調教】」
「中学生かよ…………、ニーチェの作品を読む上で重要なのは、個人的にはこの【良心】とかの一般的な価値観についての扱いなんだよな。普通に考えれば【良心】は『良い物』なんだが、そのまま考えると既に『良い者』を【調教】しなくてはならないわけだから、意味が分からなくなる。しかも【噛み付きながら、接吻する】と来ている。この表現も明らかに矛盾を内包していて、そのままに読み取ることが難しい」
「でもまあ、後半の【噛み付きながら、接吻する】はわからなくはないよね。苦痛と快楽ってある程度までは一緒みたいなものだし。ちょっと乱暴なくらいが興奮するよね!」
「――え?」
「あれ? なんでちょっと引いてるのかな? 私、おかしいこと言った?」
「ま、まあ、苦痛と快楽はまるで別物ではあるが、究極的には生きる為に必要なシグナルと言う点では一緒かもな。これ以上は危険だと知らせるのが『痛み』で、これは重要だと教えてくれるのが『甘い』とかのポジティブな感覚だし。うん」
「なんで気持ち早口で解説するの!?」
「話を【良心】に戻そう。goo辞書で調べたら『善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き。』と出た。これを持っていない奴は、自分の大切な物もわからずに人を殺す殺人鬼になる」
「って設定で書かれたのが『殺戮因子~鬼の目にもココロ~』だね。最悪にして災厄なる殺人鬼の運命を変えたGWのお話し。絶賛はされてないけど、是非読もう!」
「さて。この【良心】だが、善悪を・正邪を正しく判断する為には、そもそも『善悪』『正邪』を正しく理解していないと駄目だ」
「当然だよね。ヒヨコのオスとメスを知らなければ、ヒヨコのオスとメスを判別できないぴよ」
「ぴよ!? ちなみに、ヒヨコ鑑定師の資格は国家資格で、受験者の半数が研修で脱落するらしい。ジョークの様な職業だが、俺達が美味しい卵を食べられる影の功労者の一人だろう……って、どうでもいいんだよ、今は」
「こう言う、隙あらば雑学を自慢したがる人ってたまにいるよね」
「うるせえよ! 兎に角、善悪の判断の為に、俺達はまず善悪が何かを学ぶ必要がある」
「なんか、矛盾してるよね。善悪を判断できないのに、どうしてそれが善でこれが悪って学べるわけ? それを個別に学べるなら、既に善悪を判別できてない? 卵が先か、鶏が先かみたいな話になっちゃってるよね」
「ちなみに、聖書ではまず鳥が創られ、産めよ増やせよと神が言ったことになっている」
「出たよ、雑学」
「ニーチェならそもそも『最初』なんて存在しないと答える。【永遠回帰】は直線的な時間概念を否定する。その元ネタの仏教的な思想でも明確な最初を答えることはしないだろうな」
「そんな哲学的な返答をされるとは思ってなかったよ。化学的な答えか、あるいは進化論から見た答えを利人なら言うかなって思ってたんだけど」
「ふむ。そうだな。千恵もそうだけど、大抵の人間は哲学・神秘学的な答えよりも、科学的な答えを好む。これは何故だ?」
「何故って、科学の方が正しいからでしょう?」
「何故?」
「また何故? 授業で習ったし、偉い学者先生が実験とかして調べたんでしょ?」
「うん。それがまさに答えだ」
「ん?」
「どうやって善悪を俺達が判断するか、それは『そう教えられたから』だ。お前達の大切にする道徳は、何百年も連綿と伝え続けられてきた価値観なんだよ」
「ああ。そっか。何が良くて、何が悪いかはパパやママに教えて貰うってことだね」
「所謂、躾だな。他にも学校で教わることもあるだろうし、見ず知らずの他人の行動から学ぶこともあるかもしれない。社会全体で【良心】を育てていると言っても過言ではないだろう。国家の在り方その物が、その国の民の【良心】なわけだ」
「うんうん」
「ちなみに、ニーチェは国家に対して【ツァトストラはこう言った】でこう解説している。【国家は、善と悪についてあらゆる言葉を駆使して、嘘をつく。国家が何を語っても、それは嘘であり、国家が何を持っていようと、それは盗んできたものだ。】とな」
「ええ!」
「【国家とは、あらゆる冷ややかな怪物の中で、最も冷ややかなものである。それはまた冷ややかに嘘をつく。】【国家における一切は贋物である。】とまで言っている。日本人に感覚的に理解が難しいはなしだが、ヨーロッパは幾つもの国が隣接していて、戦争が多く、領地が変わることも珍しくないからな。国家と言う存在は不滅でも普遍でもないって話だな」
「アナーキー過ぎるでしょ! 時代や場所によっては、確実に首が跳ぶよね!?」
「脇道にそれるから……と言うか、タイプするのが面倒だから前後の文章は本を買ってきて、自分の目で確かめてくれ」
「ブイジャンプの攻略本!?」
「これからわかるように、ニーチェは国家が教える道徳や正義に極めて否定的だった。何故なら、国家は永遠ではないから。戦前の日本は戦争の批判なんておおっぴらには出来なかっただろ? しかも、戦争で敵兵を殺すことは善行であったわけだ。まあ、戦争と言う特殊な情勢の話だけど、一〇〇年も昔の話じゃあなあい。そうじゃあなくても、国家規模で他国を貶めている所もあるし、エコに力を入れたり、死刑があったりなかったり、国家ごとにその方針は違う」
「えーっと、つまり、【良心】って言う物も絶対ではないってこと。時と場所で変わる、流行りみたいなものってこと?」
「そう。むしろ、間違った考えを押し付け、自由な発想を阻害する物とまでニーチェは考えていたかもしれない。そう言った一方的で上からの圧力を兎に角嫌う男だからな」
「反抗期の男子じゃないんだから……」
「つまり、【調教】すべき【良心】と言うのは、国家や社会によって植えつけられた価値観、判断基準のことを指すわけだ」
「今更だけど、滅茶苦茶言っているよね」
「まあ、普通ではないよな。普通なんて下らない負け犬思考だと思うけど」
「滅茶苦茶言っているよね!」
「だよな。ほんとこれだからニーチェを読むのは止められないぜ」
「いや、利人に突っ込んでるから! 二回目の方は!」
「さて、【調教】すると痛気持ちいい(千恵談)の所だが、これは古い価値観の崩壊に伴う苦痛と、新たな判断基準による蒙が開けた事に対する祝福の意味だろうな」
「『痛気持ちいい(千恵談)』と後半の表現力の差が違い過ぎるんだけど!」
「今まで信じていた真実を失うと言うことの辛さをニーチェは良く知っていただろうからな。そしてそれ故に、他に類を見ない哲学者になることができた。【噛み付きながら、接吻するのである。】って言うのは、まさにそう言うことだ。これもある意味で、自己克服ってことなのかもな? 自らの過去の過ちを認めて、そこから更に発展を目指すってことなら」
「つまり【良心】は社会で学んだ物ではなく、自分で考えて選べってこと?」
「多少マイルドにした感じはするが、そうだな。『何故』と言う疑問を常識にも持つ必要があるってことだ」
「あ! そう言うことなら一つ私にも疑っている常識があるんだけど」
「お、何だ?」
「歯磨きって毎日するでしょ? 小学生くらいの頃から思っているんだけど」
「ふんふん」
「あれって、どうして歯の目にそって動かさないの?」
「ん?」
「ほら、歯ブラシって、こう、前後に動かすでしょ? でも、歯は縦にはえているんだから、上下に動かすべきだと思うんだよね。私はずっとそうしているんだけど、修学旅行とかでその動きを見られると、絶対に変って言われるんだよね。でも、絶対に私のこの考えが正しいと思うの。でしょ? 箒で掃く時だって、床の目にそうでしょ? 多分、歯医者さんが虫歯患者をなくさない為に、意図的に間違った歯ブラシの方法を教えていると睨んでいるんだけど、利人はどう思う?」
「…………しょーもな」




