【六四】【認識その物の為の認識】
【「認識そのもののための認識」。これは道徳がけしかける最後の落とし穴だ。このために人々は再び道徳に完全に巻き込まれるのだ。】
「これが【六四】【認識そのもののための認識】だ。【六三】とは打って変わって、非常に哲学的な雰囲気を漂わせる箴言となっているな」
「なってるなってる。考えるのが嫌になるくらい、意味不明だよ。【「認識そのもののための認識」。】って何さ。勝手な偏見だけど、こう言った小難しい言い回しが、哲学を無駄に難解にしているとおもうんだけど?」
「俺に言われても困るよ…………。それに、質問の答えは書いてあるだろ? 【道徳がけしかける最後の落とし穴だ。】ってな」
「それで説明になっていると思ってるの? だったらこの企画は大失敗だよ!」
「きゃんきゃん騒ぐなや。取り敢えず、千恵はどう思う? この箴言をいかに評価するんだ?」
「いや、正直、まったく意味がわからないんだけど。翻訳の失敗じゃなくて?」
「そう言うこと言うなや! はあ。じゃあ『認識』って何だと思う?」
「ちょっとまって、辞書引くから」
「引くって言っているけど、今回はデジタル大辞泉から引用だ。便利だね、ネット」
【にん‐しき【認識】】
【[名]】
【1 ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。「―が甘い」「―を新たにする」「―を深める」「対象を―する」】
【2 《cognition》哲学で、意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一で、事物・事柄の何であるかを知ること。また、知られた内容。】
「予想通りに、『知る』そして『理解する』工程のことだね」
「まあ、流石に俺達が認識する認識じゃあなかったら余計に話がこじれるからな。そこまでややこしい事態は俺も勘弁してもらいたい所だな」
「でもさ、それがわかった所で【「認識そのものための認識」。】が『見て理解することのために見て理解する』って台詞に変わるだけな気がするんだけど……」
「例えば……そうだな『柿』が一つあったとしよう」
「え? 唐突だね。時期でもないし」
「あったとしよう!」
「あ、はい」
「A君はそれを『甘い食べ物』だと考え、B君はそれを『渋い食べ物』だと思った。同じ物を見ても、両者の認識は違う。これは何故だと思う?」
「うーん。A君もB君もそれぞれ『甘い柿』と『渋い柿』しか食べたことがないんじゃあないかな。だから、二人とも自分が食べたことのある意見を持つんだと思う」
「正解。人々は『それ』を認識する時、自分の記憶――経験を頼る。だが、それは絶対、必ずしも正しいとは限らない。この場合だと、実は良くできた食品サンプルでそもそも『柿』じゃない可能性もあるだろう?」
「ええ! そんなオチありなの?」
「あるかもしれない。だから、物事を見る時はなるべく色眼鏡を外さなくちゃ駄目だ。認識とは観ることであって、記憶じゃあないんだから」
「『思い込むという事は、何よりも恐ろしいことだ。しかも、自分の能力や才能を優れたものと過信している時は、更に始末が悪い』」
「流石は吉良吉影。良いことを言っている。もういっそのこと、ジョジョについて語ろうか?」
「いや。タイトル詐欺過ぎるでしょ……。どれだけ好きなのよ。話を戻せば、自分が正しいと思っていると、間違いに気がつかないってことだったよね」
「そうだ。そしてそもそも哲学と言うのは、万人に共通する物――真理を探し出す学問だ」
「なーんか胡散臭いよね、真理とか聴くと」
「まあな。でも、哲学者って言うのは大抵、数学者だったり自然科学分野の学者であったりすることが多い。彼等は『法則』を使って、新しい発明をしたり、発見をしたりするだろう? 真理って言うのはそう言った世界の法則や定理、公式だと思えば良い」
「哲学者も同じように『認識』をすることで『真理』を探すわけ?」
「そんな感じだ。その為にも、『認識』には『主観』が入っていたら不味いだろう? 一度食った柿が渋かったからって、全ての柿は渋いなんてことを真理と思ったら大変だ。だから、認識すると言う行為を行う際には、自分自身が認識者であることを意識しなければならないわけだ」
「じゃあ、【「認識そのものための認識」。】って言うのは、物事を正しく見ようとする際には、認識の本当の意味を考えて認識するべきだってこと? なんか、当たり前のことじゃあない?」
「だが、その当たり前のことが難しいんだ」
「例えば?」
「例えば――どうして『良いこと』は『良いこと』なんだ?」
「それ、【六三】でもやってない?」
「やったな。答えは?」
「【奴隷】の道徳。弱者が強者に対して勝者になる為に、自分達を正しいってことにした。それがニーチェの言う道徳の側面の一つだったっけ? 良いことは弱さから産まれたって言う、なんて言うか、言いがかりっぽく思うけどね」
「……そう。この道徳と言うのは、俺達が思っている以上に、俺達の思考や生活に根付いているんだ。何かを判断する時、根源から道徳に支配されていると言っても良い」
「道徳に支配?」
「なんて説明するべきか。幽霊を信じていなくても、お化けが出ると言われたら怖く思うだろう? 人の顔が写った写真を踏むのに抵抗があったりするだろう? 例え科学的な根拠がなくても、明らかに不条理なことでも、俺達は忌避してしまうことが多々ある」
「それが、道徳による支配になるの?」
「道徳、って言うと少しニュアンスが違うか? でも、言いたいことは分かるだろう? なんだか良く分からないけど『それはそう言う物』と言った感じでそれ以上考えられていないこととか、『皆うすうすわかってるけど、誰も真実を言わないこと』ってあるだろう?」
「『もうしばらくしたら人間全体が気付くはずだ。人間の数を直ぐにも減らさねばならんということに………殺人よりも、ゴミの垂れ流しの方が遙かに重罪だということに。』とか?」
「寄生獣の広川市長の台詞だな。良いチョイスだ」
「それは引用の作品チョイスが? 例えとしてのチョイスが?」
「両方だろうな。「『人の命は尊い』と言うのは、今や世界中で当然と認められていることだが、果たしてそれは真理なのか? 俺達はこのことについて、これ以上の議論はしない。何故なら『人の命を大切にすること』は『良い』ことだからだ。もし、『人の命の重さは老人と子供で違うよ』なんて政治家が言って見ろ。一気に問題になる。発言そのものがだ。台詞の正誤になんて誰も興味を示さない。そこに議論の余地は少しもない。正に、道徳が俺達の認識の邪魔をしているとは思わないか?」
「つまり、私達は何の影響も受けないように意識しながらも、無意識的に道徳を通して世界を見てしまっているってこと?」
「それが【再び道徳に完全に巻き込まれるのだ。】と言うことさ。道徳と言う人間が定めた視点を捨てて、真理を求めて客観性を得ようにも、それは道徳によって知らぬ間に邪魔をされているってことさ。つまりこれは、真理と言う(皮肉なことに)曖昧な物を求めることに対するニーチェの哲学者に対する批判なのさ」
「え? これって哲学書じゃあないの?」
「そう。だからニーチェの哲学の到着点に真理はない。あるのは【力への意思】だけだ」
「【力への意志】……年譜でそんな名前の作品がなかったっけ?」
「ある。が、正確に言うとニーチェのメモ帳を、妹のエリザベートがまとめたものだから、彼の書籍と言うには微妙な所ではある。勿論、ニーチェの思索がわかる作品ではあるんだがな」
「そうなの?」
「【力への意志】この言葉自体は中期から結構使っているんだが、正気の内に本としてまとめることが出来なかった。それだけ取り扱いが難しい考え方なんだ。既存の道徳を否定しかねない内容を、ニーチェ自身が取扱いに困っていたと言う説もある。過激な内容の多い彼の作品だが、俺達が思う以上に、ニーチェは慎重に自分の作品を世の中に出していたようだな」
「具体的なエピソードとかあるの?」
「ニーチェの妹エリザベートはナチスと繋がりがあった。彼女がまとめた【力への意志】は、あのヒトラーにも強い影響を与えたと言われている。ニーチェが悪人のように扱われることのある原因の一つともなっているだろうな」
「…………色々と面倒臭そうだから、これ以上掘り下げるのは辞めない?」
「ニーチェ自身はWWⅡの時には亡くなっていたから。まあ、それが無難だな」
「認識の話しをしようよ」
「と言っても、結論は出てしまっているんだよな」
「『この世には客観的な真理なんてない』『結局は人の主観』ってことだよね」
「言い換えれば、正しさも、絶対も、ない。ただそれぞれの立ち位置からの認識があるだけと言うこと。ニーチェはこれを【パースペクティヴィズム】日本語で【遠近法】と呼んだ」
「哲学らしからぬ、わかりやすい表現だね。大切な物は大きく見えるし、どうでも良い物は小さく感じる。そう言う意味での【遠近法】ってことね」
「だな。絶対的真理がない。これはつまるところ、人間が存在することにも確かと言える意味などないと言うこと。それは【ニヒリズム】と呼ばれる【虚無主義】に繋がる。ニーチェを語る上でこのニヒリズムは重要な単語の一つだと言えるだろう」
「と、また気になる単語が出て来たけど、正直、もうお腹一杯です……」
「そうか。中途半端ではあるが、じゃあここらで締めておこうか」
「文字数的にもびみょーなんだけど、良いの?」
「そもそも、『読みやすいから』と言う点で【善悪の彼岸】を選んだわけだからな、話しを広げ過ぎてしまったら本末転倒も良い所だ。それは俺達の目的から外れている」
「なるほど。じゃあ、今回を纏めると『私達は自然と道徳に従った判断を物事に下してしまっている』ってことで良いのかな?」
「そんな所だろうな。俺達の公平さって言うのは、あくまでも道徳の上に成り立った物でしかない。そしてその道徳も、決して真理ではないことを覚えておいてくれ」
「なるなる。では、また次回!」