【九四】【男の成熟】
【男の成熟、それは子供の頃に遊びのうちで示した真剣さを取り戻したということだ。】
「最初に言っておくと、これは俺が一番好きなニーチェのアフォリズムだ」
「初っ端から、滅茶苦茶どうでもいい情報をありがとう。それで? どの辺りが好きなの?」
「そうやって正面から聞かれると、上手く言語化できないんだけど、格好良くないか?」
「まあ、感情を完全に言葉で表せるなら、些細な擦れ違いなんてこの世にないだろうし、仕方ないね。それでも、ちょっと漠然としすぎていてコメントに困るけど」
「だな。悪かった。まず、格好いいポイントとしては【男の成熟】と銘打っておきながら、その【成熟】を【取り戻した】と締める所が最高にクールだと言えるだろう」
「クールかどうかは一旦脇に置くとして、注目すべき点ではあるよね。男の人の成長について説明していたはずなのに、その中身は『真剣に遊んだ子供の時代』を思い出せって言っているんだから。どう考えても、砂場でお城を作ったり、ブランコに立ち乗りして靴をどこまで遠く飛ばせるかを競ったりすることに【男の成熟】があるなんて思えないもん」
「確かに、どっちも大人になるとやらなくなる。じゃあ、どうしてだと思う?」
「ん? 砂場で遊んだり、靴を飛ばしたりしない理由ってこと? そんなの意味がないからじゃあない? 学校行ったり宿題やったり、そういった『やらなくちゃいけないこと』が増えてきて、そんな余裕、なくなっちゃうよ」
「そ。年を取ったり、学校に行ったり、俺達は年をとるに連れて様々な規則の下に入ることになる。その結果、俺達の行動は著しく制限されてしまう。悲しいことにな」
「まあ、それが大人になるってことじゃあないの?」
「だが、男にはなっていない。前も言ったが、社会的な価値観と男の価値観は、かつては同一視されていた。が、今は違う。男の価値観なんて言うものは今や時代遅れの無用なものになっている。ここでニーチェがテーマにしているのも、簡単に言えばその二つの乖離に対する主張だ」
「利人が『簡単』って言う場合は、大抵、違う意味で使われているよね。乖離なんて日本語、多分だけど一年に一回も見ないよ」
「そりゃあ悪かったな。大人になることと、男になることは別なんだよ。その二つはまったく違う。ここまではわかるか?」
「うーん。なんとなく?」
「女にはわからないかなー」
「むっ。そんなことないよ? 滅茶苦茶わかるよ? あれでしょ? たとえば、うーん」
「無理するな?」
「そうだ! 切腹とかどう? 良く分からないけど、あれは究極の謝罪だったんでしょ? でも、現代の価値観からすれば意味不明な自殺見たいなものじゃない? 武士道って言うのかな? あの時代の男の価値は、そのまま社会の価値として受け入れられていたけど、今は違う。政治家が切腹をした所で、誰も納得しないだろうし、それを名誉とも思わない」
「おお。思ったよりわかりやすい例えじゃないか」
「えっへん」
「そんな感じで、男の価値観と社会の価値観にはズレが大きくなっていっている。昔は強い男が世界の中心だった。狩りをするにも、戦争をするにも、弱ければ死んでしまうからな。でも、現代は違う。行動に発達した文明のおかげで、厳密に定められた法律も手伝って、ある程度歳を取ってしまえば個人間の差なんて微々たるものだ。大きなルーチンワークに組み込まれる。そうやって秩序が強くなるに連れて、古い男の価値観は時代に取り残されてしまったんだろうな」
「ふむふむ。まあ、言いたいことはわかってきたよ? 大人になるって言うのは、そういった現代の価値観に染まることなんだよね?」
「その通り。だが、それは同時に男であることを忘れることでもある」
「そりゃあ、今時、流行らないよ」
「だが、それで本当に良いのか? と考えてみよう。闘うことを忘れて、大勢に飲み込まれて平穏を得る。確かにすばらしい、が、これは結局の所、自己の放棄に他ならない。神の前で平等だったのが、法の元で平等になっただけだ。ルールによって自由と権利を手に入れたつもりになっているが、実際はルールによって自由と権利を制限されたに過ぎない。ホッブズは『万人の万人に対する闘争』を嫌ったが――」
「『社会契約論』とか、『リヴァイアサン』の人だっけ? 授業で習った記憶がかすかに」
「――ニーチェは逆にそれを肯定した。自分が自分であることを肯定し、闘うことを勧めた。別に、今すぐ無政府状態になって殺しあえってことじゃあないぞ? 今に疑問を持って、自分の意思で考えよう。ってことを言いたいんだ」
「っと、つまり話をまとめて行くと、長い人類の歴史で、男達は闘って世界を築いてきた。これが【子供の頃に遊び】ってことだよね?」
「ああ。現代の人間から見れば、過去の生活や戦争、文化が野蛮に見えることもあれば、幼稚に感じることもある。それを【遊び】と言う言葉で示している」
「でも、過去と比べて今が快適だからって、闘争心と言うか、向上心を忘れてはいけない」
「それが【遊びのうちで示した真剣さ】だな。そういうわけで、このアフォリズムは一見『何言っているか良くわからないが、なんとなく格好いい』アフォリズムでありながら、【力への意志】とは何か? と言う問いに対する説明でもある」
「あ、これ【力への意志】の説明なんだ」
「と、俺は思っている」
「締まらないなぁ」
「更に言うと、ニーチェに取って『子供』特に『赤ん坊』は【力への意志】の象徴でもある」
「あかちゃんが? なんで? 普通、もっと強そうな比喩にしない?」
「違うんだな、それが。赤ん坊って言うのは、何も知らないだろう?」
「うん」
「つまり、善も悪もない。赤ん坊は善悪の彼岸で物事を感じているってことだ。一般常識にも、社会の風習にも、宗教的な思想にも染まっていない」
「純粋、ってこと?」
「赤ん坊は汚れ自体を知らない。だから、浄も不浄もない。純粋よりも前の状態だ。そんな心で考えることはどんな偏見もなく、自由だ。究極の【力への意志】の体現者が赤ん坊なんだよ」
「へー」
「豆知識になるが、スタンリー・キュービックとアーサー・C・クラークが脚本を手掛けた『二〇〇一年 宇宙への旅』はニーチェのこの『赤ん坊』の思想に強い影響を受けている。劇中では三度も『ツァラトゥストラはかく語りき』と言う、ニーチェの著書と同名の曲が流れていることからもうかがえる。多分、多くの人は聴いたことがあると思う、クラッシックの名盤の一つだ」
「じゃあ、私も知っているかな?」
「……前、一緒に見ただろ」
「え? 見たっけ? 覚えがない」
「お前は類人猿が石を投げている所で寝てた。涎垂らしてな」
「ああ。思い出した。あの滅茶苦茶退屈な映画ね。名前だけは知っていたから、期待していたのに」
「星新一先生みたいなコメントすんな」
「で? どんな映画なの?」
「まず、ニーチェは自己克服には『ラクダ』『ライオン』『赤ん坊』の三つの段階があると主張した。詳しい説明は省くが、ラクダとライオンを経て、赤ん坊と言う【力への意志】の体現者を目指そうと言う話だ」
「既に意味不明なんだけど、それとあのSF映画がどう関係するわけ?」
「あの映画は、人類そのものの進歩を描いた作品だからな。類人猿が石を投げるのも、宇宙船で長い旅をするのも、その進歩の表れだ。ラクダだったり、ライオンだったりのな」
「へえ」
「そして、最後に主人公は宇宙の果てで自己克服を果たし、赤ん坊になるんだ」
「わ、わけわかんねー」
「多分、原作を読んでもニーチェを知らなければ、同じ感想を持つだろうな」
「なんてニッチな作品なの? 催眠術作品?」
「はっ。なら、ある意味で成功しているかもな。赤ん坊のように、人を眠らせちまうなんて」