【六三】【教師とは】
【根っからの教師というものは、全てのことを自分の教え子との関係においてしか、真面目に考えることが出来ない。――自分についてもそうなのだ。】
「『どじゃーん』さて、記念すべき一個目のアフォリズムがこれだ」
「いやさ、利人。どうして六三から始まるわけ?」
「何度も言うが、これは『善悪の彼岸』の『第四篇』を語ろうと言う企画だからだ。当然、これよりも前にも断章があるわけだ」
「なるへそ。この前に六二個の章あるわけね。了解了解」
「最初から読みたい! と言う意欲溢れ人は是非、お近くの書店で購入してくれ。で? どうだ? 最初のアフォリズムは」
「うーん。あれだ、ぱっとしないね。なんか、普通」
「おい! そう言うこと言うなや! 普通って何だよ!」
「いや、だって、何で最初に教師に対する不満が来るわけ?」
「知らん。ただ、ニーチェは思いついたらメモって、それを編集していたわけだからな。こう言うこともある。前後で全然関係ないアフォリズムが来るのは当然だと覚悟して貰おう」
「生前に売れなかった理由が垣間見えたよ」
「だからそう言うこと言うなや! 取り敢えず、千恵。どう言う意味だと思う?」
「だから、愚痴でしょ? 教師って言うのは上から目線で鬱陶しいなぁ。程度の話じゃあないの? 生徒の意見を聞かないことも多いし。自分を絶対に正しと思っている態度もむかつくし。ほら、あれだ。渾身の論文を学会から総スカン喰らったわけだし、きっとニーチェは教師が嫌いだったに違いない」
「ふむ。むかつくから批判したい。その良い感じに歪んだ思考回路、俺は嫌いじゃあないぞ。実際、正直なところ、ニーチェの物の見方はそう言うのに近い」
「哲学者としてと言うか、人としてそれはどうなの?」
「ニーチェ自身は、自分のことを心理学者とも言っていたようだがな。面識があるわけじゃないが、下ネタ大好きおじさんの心理学者フロイトもニーチェに受けた影響は大きいとされている。で、話しを戻すが、ニーチェの物の見方と言うのは、鋭いと言うか、ぶっちゃけている所があるんだ」
「ほうほう」
「例えば『困っている人を見たら助けましょう』と言う言葉。非常に素晴らしい精神だと思うが、ニーチェに言わせれば『俺が困っているんだから助けろよ!』となる」
「…………流石に盛っているよね?」
「盛っていると言うか、個人の感想だ。ニーチェが言うには、道徳には二種類が存在する。『貴族』と『奴隷』の道徳だ。『貴族』とは奪い取る物。勝ち取ることを美徳とし、勝利して支配する者達のことだ」
「なんか、そこだけ聞くと悪役だね」
「だが、努力して目標を達成すると言う極めて健全な思考でもあるだろ? 国と言うのは、そう言った勇猛な男達の手によって、何時の時代も造られている。あ。勿論、これは戦争を肯定する発言ではないぞー」
「でもまあ、明確に勝者の理屈だよね。要するに、目標に向かって突き進むことを美徳とする道徳なわけでしょ? 誰もが勝者になるなんて、有り得ないわけだし」
「ああ。それとは対照的なのが『奴隷』の道徳だ。例えばだが『強欲』七つの原罪が一つであるこれ」
「いや。その通りでしょ。これが『奴隷』の道徳なの?」
「『あー! 俺は毎日毎日働いているって言うのに! 貴族連中は遊んでばっか! ったく! 信じられね!』
『まったくだぜ。働きもしないくせに、税ばっかとりやがって!』」
「なんか小芝居が始まった!」
「『あんな連中、きっと碌な死に方しないぜ』
『んだんだ。天国に行くのは、きっとおら達みたいな働き物で質素な生活をする人に違いない!』
っと言う会話が繰り広げられたとする。どう思う?」
「え? ま、まあ。そうかな? って思っちゃうかな?」
「はぁ。千恵、お前は根っからの奴隷だな。ちょっと肩揉んでくれや」
「何で私がその程度のことでそこまで言われないと駄目なの!?」
「既存の道徳で言えば、確かに『強欲』は悪徳で、『質素』は美徳だ。が、ぶっちゃけ、自分が質素だから、豪華な連中を妬んでいるだけじゃないか? 碌な死に方をしない? 天国に行けない? はあ? 有り得もしない未来を勝手に作って、その妄想の中で人を陥れて何が楽しいんだ? 健全ならば『俺も貴族になるぞ!』くらいのことを言えや! と、言うのが俺の中のニーチェが言う正しい道徳観だ」
「言わんとすることはわからないでもないけど……」
「勿論、この考えが世論として正しいかどうかは知らんぞ? 今の道徳が悪い物だとは俺も思わん。が、一般的な道徳と言うのは、弱者の強者に対する僻みから産まれたとニーチェは考えたんだ。これはかなり画期的な発想だ。『良いことは良い』で終わらせない、ニーチェの観察力の鋭さが窺えるといえる」
「まあ、確かにね。『俺、節約上手なんだぜ?』って言った所で大金持ちに『何で節約なんてするの?』って言われたら反論しても負け犬の遠吠えチックだし」
「そう言うことだ。だから、『教師がむかつく』から何か理由をつけて教師を否定すると言うのは、奴隷の道徳の顕著だろうな」
「あれ? でも、それだとニーチェ自身が奴隷の道徳を語っていることにならない?」
「かもな。が、それも踏まえてもう一度本文を読んでみようか」
【根っからの教師というものは、全てのことを自分の教え子との関係においてしか、真面目に考えることが出来ない。――自分についてもそうなのだ。】
「あ! 最後に『自分についてもそうなのだ。』ってあるね。
「だな。しかも、これは第四篇の最初に来ている。俺はこの事にも意味があると思う」
「さっきは『知らん!』って言ってなかった?」
「そうだったか? さて、記憶にございません」
「政治家かよ……」
「少し順序だてて考えて行こうか。まず、『根っからの教師』これは言葉の通り『教師』と取ることもできるが、もっと大きな範囲で言えば『何かを教えてくれる人』と考えても良いかもしれない」
「教師じゃなくて、先生。先に生きる人達ってことだね」
「ああ。世の中の大体の大人は色々教えてくれるが、そこには『人生の先輩後輩』と言う関係が前提として絶対に存在する。どの文化でも、年上に冷たくすることはまずない」
「インターネット全盛の今ならまだしも、ちょっと前までだったら、お年寄りの記憶や情報って言うのは大切な物だっただろうね」
「だけど世界は変化し続けているから、その常識が通用しないこともあるし、もっと効率的な方法や、画期的なやり方が存在するかもしれない。そして、それを見つけるのは大抵若者だろうな」
「でも、お年寄りは大抵、そう言うのを受け付けないよね。家の爺ちゃんも、ケータイを待たせようとしても頑として首を縦に振らないんだよね。もう、怖がっているレベルだよ」
「固定概念と言うのもあるし、何よりも今まで教えていたと言う立場が崩れるのが怖いんだろうな。それはつまり、役に立たないってことだ。教えることによって得ていた優越感も消えてしまう。それはもう、自己否定に近いのかもしれない」
「だから『教師』はずっと『教える側』でいたいって言う思いに囚われているってこと?」
「そうだな。『俺は正しい』とか『歳下の癖にむかつく』とか、そう言った極めて合理的ではない、感情で判断を下してしまう」
「…………長々と話したけど、私と言っていること変わらなくない?」
「補足していると言って頂きたい!」
「で? 補足じゃあない、意見を聞かせてよ。『――自分についてもそうなのだ。』ってのはどう思うわけ」
「根っから自分の考えや立場に固執して他人に接する人は、自分自身に対してもそうなってしまう。新しい意見や主張が自分の中に産まれたとしても、自分の中の教師である部分がそれを否定してしまうこともある……と、俺は解釈する」
「つまり、『これからの文章は奇抜で受け入れ難い考え方かもしれないけど、柔軟な思考でそれを読み解いて欲しい』って言うニーチェなりの助言と言うわけ? と、遠回しな」
「四篇の最初に持って来たんだ。そう言う意味があっても不思議はないだろう?」
「いや、私なら第一編に持って来ると思うけど」
「…………」
「…………」
「と、まあ、最初はわかりやすい警告文からスタートしたわけだ」
「哲学と言うか、格言っぽいよね。『老いては子に従え』『初心忘れるべからず』と通じる物を感じたよ」
「そう言った昔からの格言を、ニーチェは更に『何故?』と掘り下げていった哲学者でもあるんだ。そこには目を逸らしがちな人間の弱さが隠れている。ニーチェはそれを見つけるのが非常に巧かったんだ」
「見たくない物を見せられれば、誰だって嫌な気分になるよね」
「そこも、ニーチェが受け入れられなかった理由の一つかもな」
「じゃ、今回はここまでっことで。次は【六四】だね」
「基本的には、こんな感じで五〇〇〇文字以下で、簡潔に読んで行きたいと思っている。物足りないと思う人は――自分で考えてくれ」
「おい! 丸投げかよ!」
「哲学とはそもそも、『智を愛する』と言う意味だ。愛とは自分で育てるもの。他人に頼った恋なんてダサいだろ?」
「キモ! では、また次回!」