【八一】【真理の辛さ】
【大海の[塩水の]中で渇きによって死ぬのは恐ろしいことだ。諸君は本当に自分達の真理をそれほどまでに塩辛くして、もはや――渇きをいやすことができないようにしなければならないのか。】
「何とも穏やかじゃあないフレーズから始まるね、この【八一】【真理の辛さ】は」
「航海の知識や技術がない時代、漂流した船員達が脱水症状で死ぬと言うのは割と珍しくないと聴いたことがあるな。喉が渇いていて、水があるのに、それを呑めないって言うのはあまりにも皮肉な話しだよな」
「うん。でも、この【大海の中で】の文言ってさ、船に乗っているって言うよりも、溺れているって感じたんだけど、底の所はどうなわけ?」
「俺のイメージも、そうだな。広い海の中、ただ一人ポツンと浮かんでいる所を想像した。つまり、俺達は溺れ死ぬかもしれない恐怖に加え、渇きを癒すことが出来ないと言うもう一つの恐怖を抱えているわけだ。個人的には、飛行機事故よりも海難事故の方が恐ろしく感じるんだけど、その辺りの原因はやっぱり、恐怖の量だよな」
「飛行機が落ちたらまず死ぬけど、船が難破した場合はそこから生きて行かないと駄目だからね。別に死が救いってわけじゃあないけど、無駄に苦しみたくはないよね」
「ああ。そんな絶望的な状況を想像させて、ニーチェは何を語りたいのか、それは次の文章に直ぐ合われている」
「【諸君は本当に自分達の真理をそれほどまでに塩辛くして】だね?」
「その通り。ニーチェは【塩水】を【真理】に例えているわけだ。そうなると、俺達は常に【真理】に溺れ、そしてそれで喉を癒すことすら難しい状況に陥っていると言うことになる。このアフォリズムで、ニーチェは俺達を取り巻く状況についての啓蒙を行っていると考えて良いだろう」
「【真理】に溺れているって言われても、ぱっと意味が通じないんだけど? 前も何度か話しに上った既存の道徳の否定みたいなこと?」
「そう考えても問題はないだろうな。後は、ニーチェ以前の哲学者達の思想に対する反論。多少乱暴で正確な事実ではないけど、これまでの哲学って言うのは【真理】を追い求めていた」
「けど『真理なんて物はない!』ってニーチェは主張するわけだよね」
「そうだ。そしてこのアフォリズムでは更に踏み込んだ。【塩辛くして】とあるから、【真理】が塩辛いのは海水と違って、俺達人間が塩辛くしてしまったからと考えるのが自然だろう。つまり、『真理なんて考えた所でどうなるの?』と問いを投げかけている」
「ちょっと話しの腰を折っちゃうけど、【真理】って飲み込めない程に塩辛い物なの?」
「一般論で例えれば『真実は時に残酷』って言葉があるように、正しいからってそれが必ずしも人間を幸せにするとは限らない。それと同じように、現在の価値観は果たして本当に俺達を幸せにしているか?」
「なんか、哲学的なことを言い始めたね」
「いや、最初から哲学の話しをしているんだが……」
「うーん。資本主義が本当に人類を発展させているか? みたいな話し? 或いは『美魔女』とか言うおばさん達を持て囃しても結局は若い子が良い! みたいな話し?」
「どうして例えにそんな落差があるんだよ! ってか、どっちもコメントが難しいわ! が、まあ、そう言うこと、なのか? 俺達が『良い』と思っている物が、実は俺達の自由を知らず知らずの内に縛っているかもしれない、ってことさ」
「わかるような、わからないような」
「【真理】を考えれば考えるほど、俺達は不自由になっていく。元々、【真理】なんて物はないんだから当然だ。ニーチェは辛辣に哲学者や神学者、そして既存の道徳に対して警告を発している」
「そして最後は【もはや――渇きをいやすことができないようにしなければならないのか。】に繋がるわけだけど、既に【真理】に溺れていた人類は、遂に喉の【渇きをいやすこと】も難しいくらいに【真理】を辛い物に変えてしまった! って嘆いているのかな? それとも怒っている?」
「もしかしたら、呆れているのかもな。わざわざ自分達の水を飲めなくする理由なんて何処にもないんだから。最初にあるように、水があるのに飲めないことほど、遭難中に絶望することはないだろう。ましてや、俺達は自分達の生きる環境その物を、自分達の手で飲めない物にしているんだ。そんな自殺行為をするなんて、信じられるか?」
「いっそ【真理】を飲んで死んだ人だっているかもしれないね」
「十分にあり得る可能性の一つだろうな。って言うか、自殺する人間なんて全員がそうだろう? 環境に耐えられない。それが自殺の理由だ。環境が生物を殺すのはありふれた現象だけど、自ら死を求める生物って言うのは極少数だ」
「あ、自殺する動物って人間だけじゃあないんだ。意外だね」
「本当かどうかしらんけど、数が増え過ぎたセイウチが集団自殺するって話しは聴いたことあるな。あと、ストレスから子供を殺す母親って言うのも珍しくないぞ。昆虫なんか、飢餓が極限まで行くと自分で産んだ卵を喰うこともあるらしい」
「利人で学ぶ動物の生態が始まった!?」
「動物は割と好きだぜ? 飼いたいとは思わないけど」
「それって好きなのかな? まあ、いいや。えっと、なんだっけ? 私達はとっても息苦しい世の中で生きているって話しだっけ? 正直、私はそうは思わないんだけど。そこまで世界は塩辛くないし、これはまだニーチェの警告であって、まだ現実ではないと思うな」
「そうか? 俺にはそう考えてしまう千恵こそが、真理に溺れているように見えるけどな」
「って言うと?」
「偶に考えるんだよ。「『本当に俺達の進む道は正しいのか?』ってな」
「随分と哲学的なテーマだね」
「だから、最初から哲学しか話していないって。それに、難しい話じゃあない。そうだな、日本はニーチェが生きていた時代、文明開化を果たすわけだけど、それって正しかったのか? いや、正しいだとわかり難いか? 良かったのか? にしとくか」
「んー。良い事じゃない? 民主主義になったし、色々と生活も便利になって、極東の僻地から経済大国にまでなったんだから」
「でもさ、その過程で第二次世界大戦なんて起きているし、今だって別に天国に住んでいるわけじゃあない。だろ? さっき千恵も言ったけど、資本主義と言う考え方が、逆に俺達を苦しめている所もある。実際に様々な社会問題を引き起こしている。民主主義が俺達から色々な物を奪ってしまったかもしれない。自由と平等を大切した結果、果たして民衆は自由と平等を手にしたのか?」
「チャーチルも言っていたね。民主主義は最悪だって」
「まあ、それには諸説あるけどな。兎に角、俺達が今生きている時代は、別に楽園じゃない。目を逸らしてしまいがちなだけで、俺達は何時だって溺れかけている。後世から見たら、狂気に満ちた恐ろしい世界の可能性だって否定しきれない」
「塩辛過ぎる【真理】の海にいることに、気付くことすらできないって? なんて言うか、人生楽しくなさそうな考え方してるね、利人」
「人生を楽しまなくてはいけない。って考えがそもそも、辛いんだよ。…………人生を楽しまなくて良いなら、もっと人生を楽しめた連中はいたと思うがね」




