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【ニーチェ】利人と千恵が『善悪の彼岸』を読むようです。【哲学】  作者: 安藤ナツ


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【一八三】【騙し】

【「君がわたしを騙したことではなく、わたしが君をもう信じていないことが、わたしの心を揺さぶる」――】




「もう既に何度も言ったかもしれないが、このアフォリズムはかなり好きな物の一つだな」

「でもさ『わたし』『わたし』言い過ぎじゃない? 『君が私を騙したことではなく、君をもう信じていないことが心を揺さぶる』の方が簡潔で良くない?」

「国語の先生かよ! 或いは毒者様か! そう言う点も含めて詩的で良いんだろうが! 『才能も無く努力もせず不平言って足引っ張る奴は、口だけ開けて雨と埃だけ食って辛うじて生きてろ』って師匠も言ってるだろ!」

「結構マジで気に入ってるんだね……。ゴメンゴメン。まあ、確かになんか、繊細さが伝わって来る文章ではあるよね」

「だろ? このアフォリズムはニーチェの繊細な一面が現われているように思える。騙された怒りよりも、もう二度と信じることができないことを悲しむ。その場の事実と過去だけではなく、既に未来を見通している聡明さが現われているように思わないか?」

「利人のテンション高いなぁって思った」

「ぶっちゃけ、これ以上特に言うことはないからな。好きな物は好きで良いんだよ」

「それはそうだけどさ」

「まあ、強いて言うなら、ニーチェにとって『約束』は前も話したけど重要な要素の一つだ。約束できることができる人間、それが超人だからな」

「あれ? そんな設定だったけ?」

「ニーチェの言う超人って言うのは『既存の概念や考え方に縛られない人間』って言う一面を持っているって言うのはなんとなくわかるだろ?」

「ルサンチマンから発生した現代社会を乗り越えた人間が超人だったよね? 今一、何が言いたいかわからないんだけど」

「まあ、未だに現われていない超人を十全に説明したり理解するのはそもそも不可能なのかもな。でも、『乗り越えた人間』ってわかっているなら十分だ。そこに『約束』の余地が産まれる」

「現代の常識を乗り越えると、約束することができるって、どう言うこと?」

「俺は常々思うんだけど、産まれる前から勝手に決められている法律が世に罷り通っているっておかしくないか?」

「いや。おかしくはないと思うけど」

「はあ。千恵は社会に飼い馴らされているな」

「絶対、利人の頭がオカシイだけなんだと思うけど。百人中百人は『仕方がない』って言うと思うよ?」

「だけどさ『選挙権は一定額の納税をしている男性に限る』って言う法律は撤廃されただろ? 今じゃあ選挙権なんて一八歳になれば自然に与えられるけど、当時は条件を緩めることに反対する人は沢山いたぞ。それが常識だったからだ。でも、それを仕方ないことじゃあないって思った奴がいて、誰かが行動に移した結果、法律が変えられた」

「それが超人と関係あるの? めっちゃ俗世な話じゃん」

「まあ、例えだよ。選挙権の条件って言う常識を誰かが踏み越えて、法律を変えた。法律って言うのは、言ってしまえば国と国民の間の約束だろ? 新たな約束を創造する。それが超人なわけだ」

「なるほど。でも、じゃあ私達は昔の人よりも超人なの?」

「それは違うだろうな。ニーチェは超人には『責任を持つ特権』があるって残している。自分自身で新たに約束をして、その責任を果たすことが超人ってことだろうな」

「その理屈で言うと、折角ゲットした選挙権を杜撰に扱う現代人は、超人じゃなさそうだね。むしろ、逆? 偉人の偉業を踏み躙る行為じゃない?」

「選挙制度そのものに思う所はあるけど、それは思うな。政治に参加する権利の為に、どれだけの血が世界中で流れたかを誰も意識してはいない。投票に世界を変える力はないかもしれないけど、過去から受け継いだ人類の闘争の痕跡だってことを自覚する必要はあると俺は思うな」

「うーん。そう言われると、たかが一票、されど一票だね」

「個人的には、犯罪歴があろうがなかろうが、納税額に大きな開きがあろうが、同じ一票って言うのは釈然としないけどな」

「ま、まあ、わからなくもないけどさ」

「あとさ、投票権が与えられた権利であるように、比投票権も多くの大人達は持ってるんだよな。その辺をもっとアピールするべきじゃあないのか? どうして選挙に出ない人間を批判しないんだ? 出馬する人間はるのは特別な人間だ。そう言う社会の雰囲気が政治は一部の人間の高等な遊びだって思わせているんじゃあないか?」

「そんなことを私に語られても」

「と、話がちょっと脱線したけど、約束って言うのは世界に新しい秩序を作る神聖な行為なわけだ。ちなみに、約束を契約って言い変えると、もっと格好良い雰囲気が出るぞ」

「契約とは世界に新しい秩序を創る神聖な行為だ――これは精霊と契約する魔法使いの物語が始まりますね」

「残念ながら始まらない」

「っちぇ」

「そんな約束には、当然ながら責任が付き纏う」

「急に中学生の夏休み前の全校集会みたいな話になったね」

「自由に対する責任じゃあなくて、約束に対する責任だけどな。しかも超人の約束だ。全く未知の約束をするってことは、それだけその人物が自由であるって証明だ。超人の場合、自由に責任が付き纏うんじゃあなくて、責任を持てるほどに自由であるって言った方が正確だろうな。『責任』が創造する者の『特権』であるわけだ」

「うーん。釈然としない。苦労増やしているだけじゃないの?」

「それでも、守るだけの価値がある約束ができることが凄いんじゃないか? 例えばさ、騎士とか侍とかは国家に忠誠を誓う。その主従の契約による責任は、重荷であるけど名誉でもあるだろ? 責任は必ずしも厄介なモノじゃあない」

「なるほど。新居を買ったサラリーマンが地方転勤を命ぜられるのと似たような物だね」

「全然違うけど!?」

「えー。でも、ニアピンって所でしょ?」

「掠りもしてない」

「今一、約束について千恵に伝え切れた気がしないけど、約束の重要性はわかってくれたか?」

「まあ、半々? 取り得ず、約束を破るって言うのは、そこにある責任を負うって言う名誉を投げ捨てることでもあるんだよね? だからニーチェはもうその人のことを信じられないと」

「意外と人の話を聞いているよな、千恵って」

「でしょ? あ、後さ、途中で選挙について語っていたのもそう言うこと?」

「ん?」

「ほら、選挙に出る時って皆、口先だけはいっちょまえなことを言うでしょ? でもそれを実行できているかって聴かれると微妙じゃない? だから、私達は政治家に騙されたって思うよりも前に、信じることを止めちゃっているんじゃあないか? って思ったのよ」

「別に俺は政治評論家じゃあないから、そこまで深いこと考えてはねーよ。些細なことを伏線だと思う漫画ファンか」

「いや、あんだけ語るから意味があるのかと」

「単純に契約の話として政治がわかりやすいだけだよ。世の中、まるで真理のように扱われている事象は多いけど、政治だとか法律だとか国家だとかはその代表だからな。精々一〇〇年単位の存在の癖に、妙に絶対的だと思われているんだよな、アレ」

「あ、そう。じゃあ、逆に利人が信頼できる絶対的なモノって何かある?」

「うーん。似たような曲ばっかり出してるロックバンドとか?」

「は? 何それ?」

「あるだろ? 『何聴いても同じに聞こえる』って言われるようなバンド。アレは褒め言葉として受け取るべきだ」

「どうして? 普通に技量の問題じゃあないの?」

「俺はそう思わない」

「じゃあ、なんて言うわけ?」

「主張が一貫しているって言うんだよ。新譜を買っても変わり映えのしない音楽が流れて来るのを、ファンは待ち望んでんだ。自分達への期待と、その責任を良くわかっている」


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