【一七五】【欲望への愛】
【結局のところ人が愛するのは自分の欲望であって、欲望される対象ではないのである。】
「いきなり結論から話が始まってって『なんのこっちゃ』って感じなんだけど?」
「そうか? 簡潔でわかりやすくて俺は嫌いじゃあないけどな」
「気が合わないなぁ。まあ、でも、『愛』について語っていたんだろうね」
「だろうな。もっと踏み込んで言えば、『何故、人は愛するのか』みたいな議題だったんだと思うぞ」
「その結論が、【結局のところ人が愛するのは自分の欲望であって、欲望される対象ではないのである。】だと。やっぱり、なんのこっちゃだ。このアフォリズムはどう言う意味なの?」
「結局の所、人間は自分が一番可愛いってことだ」
「結論じゃあなくて、過程を喋りなさいよ。欲望だとか、対象だとかってのはどう言う意味なわけ?」
「まず『人は何かを愛する』って言う前提は良いよな?」
「そうかな? 案外、愛なんて信じていない人はいるかもよ? 世の中には感情を認めない人とか、全ては金銭で取引できるって考えの人とかさ」
「前提から喰って掛かって来るか……。でも、金は一番わかり安いな」
「へ?」
「そいつは『金を愛している』と言えるんじゃあないか? 『便利な道具』として『愛用』しているわけだ。そうだろう?」
「うぐ。確かにそう表現するのも間違ってないかも。でも、『愛する道具』を簡単に財布から出してさよならできるって、それは愛しているって言える?」
「そこで、今回のアフォリズムだ。金の亡者が金を愛するのは、金その物じゃあない」
「んん? お金が好きなのに、お金そのものを愛していない? そんなわけないでしょ」
「いや、だって、そうじゃあないと財布から愛する日本銀行引換券を出せるわけがないだろう? 千恵が言ったんだぞ?」
「いや、そうだけどさ。お金を使える以上、お金を愛していないってことでしょう?」
「そう。金が好きな奴は、実は金を愛していない。なぜなら簡単にそれを消費するからだ」
「あー! こんがらがってきた。結局、利人は何が言いたいわけ?」
「結局のところ、彼等が愛しているのは自分の欲望なわけだ」
「話が同じ所をぐるぐる回ってない? 私達の会話は前に進んでいるの? わざとはぐらかしてない?」
「じゃあ、少しわかりやすく『結局のところ欲しいのは商品やサービスであって、金ではないのである』とでも言い換えるか?」
「…………お金が欲しいのは、そのお金で買える商品が欲しいから、か。うん。そうだね。お金は欲しいけど、欲しい物が直接手に入るならお金はいらないよね」
「誰が考えたか知らないが、金って言うのは便利だよな。昔は物々交換や労働を対価として欲しい物を手に入れていたんだろうけど、人類は物事の価値を数字化して管理する方法を見出した」
「あ、利人でもお金の起源は知らないんだ」
「明確な起源は知らんが、紀元前十七世紀の中国――殷王朝時代に最初の貨幣が使われ始めたらしいぞ。貝殻を使っていたとか。『買う』だとか『貯蓄』だとか『貨幣』だとか、『貝』の感じが使われているのはその為……って言うのは有名な蘊蓄か。ちなみに、殷王朝と言えば封神演技の舞台となった年代だな」
「あ、中国なんだ。ヨーロッパかなって根拠もないけど思ってた」
「どの時代でもヨーロッパが先進国ってわけじゃあないぞ……。話を戻すと、金が好きって言う人は、金その物じゃあなくて、それと交換できる物品やサービスが好きって言うのは納得できるな?」
「世の中、お金で買えるものばかりじゃあないけどね」
「世の中、お金で買えるものだらけではあるけどな。極論言えば、病気の治療だって、金を払って命を買っているわけだろ? 長年貢献して来たチームを止める理由はメジャーの契約金だってことも多いし。金さえ払えば面倒事を誰かに押し付けて時間を作ることだってできる。命も、人の心も、時間も、金はある程度融通を聴かせてくれる。やっぱ、世の中金だ。そう思うだろう?」
「悪役ロール好きだよね」
「俺は自分のことを悪だなんて思ったことはないけどな」
「それで? お金は何にでも代替可能な素晴らしいシステムって言うのはわかったけど、本命本題の『愛』はどうなの? って言うか、お金と同一に考えていいの!?」
「『愛』は『欲望』と代替可能か? ニーチェは可能だと言っているな」
「例えば? 具体例は?」
「結婚詐欺とか?」
「それは愛なの!?」
「少なくとも、相手が自分を愛していて、金を貢いでくれるって言うのは珍しい話じゃあないだろう?」
「そりゃ、男にせよ女にせよ、そうやって騙される人はいるだろうけどさ。そんな事を哲学書に書く?」
「あくまで千恵にわかりやすく例えただけだからな? 愛って言うのは無償じゃあなくて、利己的な欲望を解決する為の手段の一つってことだ。聖人面した奴だって腹の中は真っ黒だろ? 今風に言うなら『偽善者』か? この言い方は俺の趣味じゃあないけどな」
「結局、どう言うこと?」
「うーん。じゃあ、募金ってあるだろ? 日本じゃあそれほどだけど、アメリカだと稼いでいる人間は募金しないと凄いバッシングを喰らうらしい」
「キリスト教圏だから?」
「だな。マルコによる福音書一〇章にはこうある。『イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」』とな」
「天国に行くためには募金が必要なんだ。なんか、何とも言えない一節だね。イエス様に言われた人はどうしたの?」
「金持ちだったから諦めて帰った」
「えぇ……」
「まあ、そう言うわけで、そもそも『施し』は慈愛からの行動じゃあない。ちゃんと欲望がある。募金活動と言う善なる行いを推進する根本にあるのは、慈愛の対象である貧しい人々に対する気もちじゃあなくて、天国に行きたいって言う欲望だ」
「つまりキリスト教の愛は欲望あり気で不純だと。でも、今の人も天国の為に募金しているのかな?」
「正直アメリカ人の信仰心がどんなものか知らないから何とも言えないけど、多分、殆どの人は『バッシングされないため』に募金しているんじゃあないか? 募金先のことなんて、真剣に考えて募金している奴なんていない。勿論、バッシングする奴等も同じだ。ただ金持ちが(無駄に)金を使って喜んでいるだけで、その募金した金がどうなろうと気にしないだろう。『慈愛の精神』『天国の為に』って言う素晴らしいお題目を使って、自分の欲望を満たしているだけさ」
「…………なんかさ、結局お金の話をしてない?」
「たしかに。じゃあ、あれだ。何を見ても『かわいいー』って言う、街路樹よりも脳味噌使ってなさそうな女子高生いるだろ?」
「評価が辛辣過ぎる! 街路樹って一グラムも脳味噌使ってないんですけど!?」
「アレも【欲望への愛】だと考えている」
「それがつまり――」
「『女子高生が可愛いと言うのは自分であって、可愛いとする対象ではないのである』」
「――だよね! そう言う結論になるよね!」
「で、現役女子高生の二階堂千恵さんはどう思う?」
「う、うーん。まあ、まあまあ、そう言う時もあるかなって思ったり?」
「あと、芸術評論家とかも似たようなもんだろ。素晴らしいって言う自分の感性を褒めているだけでさ、別に芸術家とか作品その物はどーでも良いって思ってそう」
「自分の嫌いな物はとことんディスってくね!」
「神《Gott》は《ist》死んだ《tot》。誰も愛なんて知りゃあしない。自分の欲望を小奇麗にそう呼んでいるだけって話だ」
「でも、別にそれは悪いことじゃあないよね?」
「ああ。真理は存在せず、全ては許されている。ニーチェは言葉の使い方を正しているだけで、別に否定をしているわけじゃあないだろうからな」




