【一七二】【人間愛】
【人は人間愛から、理由なしにある人を選んで抱擁する(すべての人を抱擁することはできないからだ)。しかし理由なしに選んだその人に、そのことを告げてはならないのだ……。】
「随分と前に同じようなアフォリズムなかった?」
「【六七】【唯一神への愛】か?」
「どんなんだっけ?」
「【ある一人のひとだけを愛すると言うのは、野蛮な行為だ。他の全ての人々への愛を否定する愛だからだ。ただ一人の神への愛も同じようなものだ。】だな」
「それ、暗記してるの? 小学生の時、クラスに一人くらいは円周率を長々と言える人がいたよね」
「あ、それ、俺だ」
「だと思ったよ。で、前回は【唯一神への愛】で、今回は【人間愛】ね。四文字さんに対しては辛辣な感じだったのに、人間愛の時はなんとなく言葉が優しいかな?」
「たしかに、前回は野蛮だの否定する愛だの滅茶苦茶言っていたが、今回はなんか申し訳なさそうなニュアンスがあるな。ニーチェの神と人間に対するスタンスの違いが良くわかる比較かもしれん」
「まあ、それは置いといてさ、一つツッコミを入れるべき場所があると思うんだよね」
「ほう。何処だ?」
「【人は人間愛から、理由なしにある人を選んで抱擁する】とか言っておきながら【(すべての人を抱擁することはできないからだ)。】って舌の根が乾かない内に理由を言ってるじゃん!? 全人類を愛せないから、一人を愛するしかないって言ってるじゃん!? 括弧の中、必要だった!?」
「そこに気がつくとは――やはり天才か」
「誰でも気がつくよ! 即落ち二コマかよ!」
「ちなみに、俺も同じことを思った」
「遠まわしに自分も天才アピール!?」
「そんな茶目っ気を無視して話を進めると、そもそも【人間愛】って何だろうな?」
「私達が日常に使う『恋愛』とは違うの? なら、多くの人に対する愛って言うか、寄付とか募金とか、ボランティアとか、そう言う愛しみの感情なのかな? あれ? それは『博愛』? 『慈愛』? うーん。愛ってなんだ?」
「躊躇わないことさ」
「宇宙刑事みたいなことを」
「まあ、愛の語源は諸説あるみたいだな。例えば日本語の『愛』には元々『守りたくなる』みたいなニュアンスがあったらしい。『愛おしい』『可愛い』『可愛そう』とかは『LOVE』とはちょっと雰囲気が違うだろう?」
「たしかに」
「俺が【人間愛】に感じるのはその『愛』に近い。特定の個人を大切にしたいって言う気持ちが【人間愛】。『友愛』とか『親愛』と一緒だ。愛って言葉を何でもかんでも恋愛毎と結び付ける最近の風潮の方がどうかしていると思うな」
「利人にしては、まあ、納得できる説明だね。言われてみれば、【人間愛】ってそんなものかもね。でも『恋愛』と何が違うの? 人間愛に恋愛を含めても良くない?」
「人間愛は恋愛と違って恋をしなくてもいいんだから、全然別もんさ」
「久々に利人が真顔で恥ずかしい台詞を言っているのを見た気がする」
「いや。恋の対象じゃあなくても良いってだけなんだけど。家族とか、友達とかそう言うの関係なしってこと」
「ああ。なるほど」
「人間は誰かを大切に思い、それを抱きしめることができる」
「素晴らしいことだね」
「ああ。愛は素晴らしい。どうして人は人を愛せるんだろうか?」
「哲学的な話になってきたね。永遠の謎なんじゃないの? まあ、答えは最初に言っちゃってるけどさ」
「宗教家や哲学者はその理由をもっともらしく考えて来た。キリスト教だと神は愛そのもの『アガペー』なんて言ったかな。最近じゃあ、動物の中には子育てをする奴もいるから、遺伝子保存のために必要な能力だなんてもっともらしく唱える奴もいる」
「母性本能とか言うしね」
「が、ニーチェはもっと単純に考えた。絶望的と言えるかもしれない」
「『理由はない』でしょ?」
「そ。ニーチェらしい虚無な考えだ。愛することに理由なんて存在しない」
「まあ、理由がないならないで、愛の理由としては格好良い気もするけどね」
「たしかに。でも、理由がないって言うの怖いぜ? 例えば、千恵は嫌いだけど『好きなタイプは?』って質問はよく耳にするだろう?」
「聴くね。何度でも言うけど、それって無意味じゃない? どんな好みがあるにせよさ『より好みに合う』人が現われたらどうするわけ? すぐに乗り換えるの?」
「それも御尤もな意見なんだけど、それでも相手が自分の何処が好きなのかがわからないって言うのは怖いと思うぜ? 自分に絶対の自信があるなら良いけど、それがなかったらいつ見捨てられてもおかしくはない、と思ってしまうかもしれない」
「それはそうだけど」
「人間愛もそれは一緒だ。誰かが自分を愛している、って言うのは、誰かが自分を守ってくれているのと一緒だ。そこにははっきりとした理由があって、揺るぎないモノで、十分に信じるに値すると思っていたその根拠が、実はないんだとニーチェは言う」
「ただ単に、抱きしめたいから抱きしめているだけで、理由はないと」
「そ。何かを愛せずにはいられないけど、その行為に何の意味もない」
「うーん。そう言われると確かに虚無ってる感じがするね」
「だろ?」
「そうなると、後半部分も納得だよね。いや、別に利人の話を聴く前から『そりゃそうだ』と思っていたけどさ」
「【理由なしに選んだその人に、そのことを告げてはならないのだ……。】だからな」
「そりゃ『愛しているよ』って言いながら抱きしめて『別に理由はないけど』とかなったら『は?』ってなるからね。そりゃ言わない方が良いよ。『根拠はないけど、愛しています』とか、もはやストーカー以上に怖いよ! 何が目的なんだよ!」
「『私は皆のお母さんだから』とか言って、孤児を無償で愛するシスターがいたら? この人は根拠どころか遺伝的にも法的にも明らかに嘘を吐いているんだぜ?」
「うーん。それは尊い! 萌える!」
「『萌える』とか今時誰も使わねーよ。絶滅したと思ってたわ!」
「でも、そうか。人間愛ってそう言う面もあるよね? 全然虚無じゃなくない?」
「シスターだから教義でやってんだよ。神の愛であって、彼女は盲目的にそれに従っているだけだ。孤児達の例え違う子供だったとしても、彼女は同じことを言うだろう。愛せれば、救えれば、守れれば、『誰でも良い』なんておぞましいね。正義の味方かよ」
「正義の味方を侮蔑として使うのって珍しくない?」
「そう言うわけで、シスターのは人間愛じゃあない。教育によって教え込まれた打算だ」
「はあ。じゃあ、利人は本当に人間愛に根拠も理由もいらないの? ストーカーより不気味じゃない?」
「千恵だってさっきは『タイプ』なんて馬鹿馬鹿しいって言っていたじゃあないか。全面的にその意見に同意だ。理由なしに誰かを大切にしたいと思う。それで十分だろ? 神様なんて虚構を持ちだす必要もなくさ、腕の中のある人がいりゃあ良いじゃん」
「ごちゃごちゃ色々と考えている割には、答えはシンプルなんだね」
「数学だってそうだろう? 綺麗な答えって言うの簡素なんだよ」
「そんなもん?」
「そんもん。それにさ、愛に理由が必要ないって言うのは朗報だと思うぜ?」
「なんで?」
「理由なく愛することができるなら、人が人を愛さなくなることはありえないだろう?」
「利人……」
「なんだ? 千恵」
「自分で言って、恥ずかしくならない? 私、今、鳥肌立ったかも。うわ! ほら! 見て見て! 凄くない? めっちゃチキン!」
「……人を愛することに理由がなくて本当に良かった」




