【一七〇】【称賛の押しつけがましさ】
【称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。】
「こう言うアフォリズムを見るとさ、真っ先にニーチェは評価されたかったんじゃあないの? とか考えちゃうよね」
「国語のテストかよ。作者の気持ちを創作するな」
「だってさ『称賛は避難よりも押し付けがましい』なんて褒められている人は思わなくない? 歪んだ心情が文章に現われているね」
「千恵の方がよっぽど押し付けがましいだろ!」
「たしかに」
「ったく。ニーチェの内面は置いておくとして、【称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。】だが、俺は割と納得できるアフォリズムに感じたけどな」
「そう? 私としてはそもそも『押し付けがましい非難』って言うのがイマイチわからないんだけど? 非難される方が悪いんだから、押し付けがましいも何もないじゃん」
「そうだな。普通に考えれば、非難される側にはそれに相応しい理由があるだろ。が、そもそも『悪い』なんてモノは誰かの価値観の一つで、誰もが共通できるような真理じゃあない」
「例えば?」
「良くある話なら、国毎の文化とかか? 麺を食べる時に啜るのがマナー違反だとか一時期話題になっただろ? 日本人は啜ることに抵抗はないけど、海外では食事中に音を立てるのはNGだ」
「ああ。ヌーハラだったっけ? あったね」
「あんなもん、別にどっちが正しいとかない。文化と言う根拠が曖昧な作法だからな。だけど、ネット上では『じゃあラーメン屋来るな』だとか『欧米ではマナー違反』だとか論争を呼んだ。俺は『どちらかが正しくてはならない』って思想が生んだ、『非難の押し付け』に感じたな」
「なるなる。たしかに『それを叩くの?』みたいな非難ってあるよね。売春事件で少女側にも問題があったって言った人が叩かれて炎上した時、『えぇ』って私思ったもん。麻薬だったら売った方が悪いのに、少女の責任を追及した人を責めるのはどうかなって」
「コメントに難しい話題をチョイスしないでくれ。まあ、ケースバイケースだけど、売る方に責任がある場合もあるだろうな。未成年の責任能力だとか、他の問題も絡んでいるからコレって答えは難しいだろうな」
「かな?」
「で、押し付けがましい非難はわかったか?」
「おう!」
「じゃあ、次は押し付けがましい称賛だ」
「…………そう言われれてみると、アレはそうだったかも」
「アレって言うと?」
「小学生の頃なんだけど、自分では大したことないって思った美術の時間に描いたポスターが賞を取ったんだよね。覚えてる? 市役所に飾られてさ。町の一級河川を描いた奴」
「ああ。魚が大きく跳ねてる奴」
「それそれ。なんか、偉い人にベタ褒めされたんだけど、私としてはイマイチだったんだよね。殆ど先生の指示で色塗ることになったしさ、魚もデフォルメが強くなっちゃったし」
「褒められても嬉しくなかった?」
「嬉しくないって言うか、賞なんていらないって思ったね。でも、周りの大人はその絵を褒めてくれてさ。パパの書斎に賞状と一緒に飾ってあるんだけど、良い思い出はないなぁ」
「自虐風自慢か? ――って言うのは冗談として『なんでそれが評価されているかわからない』って言う物は多々ある」
「うん。でも、高評価されているが故に、反論し難いんだよね」
「まさに称賛って言うのは押し付けがましい時もある」
「なんで、本人がそうも思ってないのに褒め続けるんだろ?」
「さっきの批判にも繋がる話だが、その良否に関わらず『価値を付ける』って言う行為は重要な意味を持つと俺は考える。最初にナプキンを持った奴がそのテーブルを支配するって大統領も言っていたくらいだ。基準を創り出す行為は神聖だ。ひょっとすると不可侵かもしれない」
「ん? ちょっとテンションを落として説明してくれる?」
「人間って言うのは、誰もが『正しい』側にいたいんだよ。でも自然には『正しい』なんて物は存在しない。だから、人は『正しい』を作りたがって、それに縋る」
「その説明ならわかるかも」
「さっきのヌーハラの話も、根本的に麺の食べ方なんて誰もが本当はどうでも良いと思っているに違いない。重要なのは、自分の意見が『正しい』側であるかどうかに尽きる」
「でもさ、それなら相手を批判するんじゃあなくて、称賛すれば良いんじゃあない? 自分が麺を啜るのが正しいと思っているなら、麺を啜る行為を大絶賛すれば良いじゃん」
「そう言う奴もいたんじゃあないか? ただ、肯定するよりも、批判する方が楽だからな。肯定するとその意見を自分のモノにする必要が出て来るが、批判って言うのは嫌いな物を遠ざけるだけで責任を負う必要が薄い。だから、人は簡単に自分の物でない物を批判できる。そうやって否定することで、自分の正しさを証明したつもりになるわけだ」
「つもり《・・・》なの?」
「さっきも言ったけど『正しい』なんてものは人間が創った価値観の一つだからな。一面的には正しくても、多角的には間違っているだろうし、究極的に意味はない。『正しい』を創って、それに所属して自分も『正しい』と思い込みたい生物なんだよ、人間ってのは」
「はあ。でも、世の中には進んで悪事することもいるじゃない?」
「それは、そいつにとっての『正しい』が世の中の『悪い』なだけだな。勿論、そんな『正しい』を認めてしまえば自分達の『正しい』が覆りかねないから、大多数の『正しい』は必死でそいつの『正しい』を批判するだろう」
「わかったよな、わからないような? 自分の事を『正しい』と皆が思いたいってことはわかったけど」
「そこまで伝わっているなら重畳。で、だ。相手の正しさを非難する異常に、自分の正しさを肯定する為の称賛は時に押し付けがましくなる。さっきの話の千恵の絵だと、本人の意思とは関係なしに作品が称賛されたわけだが、根元の所では批判の時と一緒だ」
「って言うと?」
「ただ自分が『正しい』と主張したいだけだ」
「私の絵を出汁にして、自分が正しいと思ったことを叫んでいるってこと?」
「そう。千恵の絵の何が素晴らしいと感じたかは知らん。絵筆の使い方かもしれないし、色のメリハリかもしれないし、子供らしい構図だったかもしれない。ただ、千恵の絵を評価した奴の『正しい』――この場合は『美しい』って言う価値観に触れたんだろうな」
「たしか、市長賞だったかな?」
「じゃあ、市長が評価したのかもな。兎に角、評価者はそれを『正しい』と思った。そうなると、千恵の『これじゃあない』って言う自己評価は邪魔で鬱陶しい物でしかない」
「邪魔って、鬱陶しいって」
「だってそうだろ? 千恵は市長の価値観を否定しているんだ。『お前は間違っている』って突き付けたんだ。自分の『正しさ』を否定されるのは自分を否定されるのと同義だ。日本人風に言えば『面子を潰された』形になる。それはとてもじゃあないが、許せない」
「だから、称賛を押し付けるの?」
「そう。『これは素晴らしいんだよ』って必死に主張する。相手のことを考えているようで、実際は自分の面子を守るために必死だ」
「……そう言えば、友達に水道の浄化機を勧められたことがあるんだよね。マルチっぽい奴」
「お前は成人したばかりのOLか」
「アレもさ、凄いどうでも良い物を凄く熱心に褒めて勧めて来るんだよね。あの時、このアフォリズムを知っていたら【称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。】って言ってやれたのに」
「一度『正しい』と信じてしまったが故に、それを『正しい』と信じ続けないといけないって言うのはそう言うマルチもどきな詐欺や宗教から止められない人間の心理として有名だな。コンコルド効果、なんて言う」
「へえ。なんか、名前は格好良いね」
「『正しくありたい』。そう言う一見すると強い意志が、『間違いを認められない』『自分と違う物を許容できない』って言う心の弱さに繋がる。ニーチェはそれを称賛の中に見たんだろうな」




