【一六四】【法律】
【イエスは同胞のユダヤ人たちに語った。「法律は奴隷たちのためのものだった。――[法律にしたがうのではなく]神を愛するのだ。神の息子である私が父を愛するように! 神の息子である我々にとって、道徳など、どんな関係があるというのだ!」――】
「【「法律は奴隷たちのためのものだった」】って、どう言う意味で『奴隷のため』なんだろ?」
「奴隷を『助けるためのモノ』か、奴隷を『騙すためのモノ』かってことだな?」
「そうそう」
「千恵はどっちだと思う?」
「助けるためだと良いんだけどね。話の流れからして、違うわけでしょ?」
「そうだな【[法律にしたがうのではなく]】と注釈があるくらいだし、法律は奴隷を奴隷たらしめる為にある。勘違いしないように言っておけば、旧約だろうと新約だろうと、書かれた時代では奴隷は必要なものだったんだけどな。ソクラテスだって肯定してた」
「へー。ソクラテスって先見性がないんだね」
「まあ、あの人は悪法と言いつつ、その法律に従って毒ニンジンを煽って死ぬ人だからな。国家のために必要ならば仕方ないとか思っていたんじゃあないのか?」
「あれ? ソクラテスを庇うんだ」
「だから、奴隷に対する価値観が根本的に俺達と違うからな。時代と場所によって、奴隷の扱いも随分違うからな。つまり、法によって奴隷とはどんなものか定められているってわけだ」
「奴隷の定義みたいなのがあるわけね。なんか『奴隷の定義』って漫画ありそうじゃない?」
「しらねーよ」
「話を戻せば、『奴隷を奴隷たらしめる法律に従う必要がない』ってイエス様の意見は、奴隷解放を訴えているってことだよね。ソクラテスと違って先見性があるね」
「ちなみに、ソクラテスは紀元前四〇〇年頃の人物だ。キリストとソクラテスは、俺達と豊臣秀吉くらい年代の差があるぞ」
「凄い離れているんだね。でも、ぶっちゃけ紀元前四〇〇年も西暦〇年も似たようなものじゃない?」
「二〇〇〇年後の世界に、トランプと織田信長も同じくらいの時間に生きていたと思う子供がいないことを願うよ」
「それは人類滅亡を願うってこと?」
「俺は魔王か何かか! 話を戻すぞ? 法律は奴隷達のモノで、法律を信じるなとニーチェは言う。そして、その代わりに神を愛するべきだと語る」
「急に宗教臭くなって来たね…………キリスト教だから当然だけど。それにしても、【神の息子である私が父を愛するように!】って言うのも、今一ニュアンスが伝わってこないんだけど。神への愛って何? 『神を愛するように君のことを愛している』ってプッチ神父は言っていたけど」
「プッチ神父繋がりで言えば、彼は無償の愛を『天国へ行くための見返り』と言っていたな。実際に、キリスト教に限らず、大抵の宗教の善行は『天国』のためにある。現世は辛いことばかりだが、善意を持って行動すれば死後は楽園に行けると言う宗教は多い」
「これを信じさせた宗教の教祖達って凄いよね。報酬完全後払い制じゃん。過払い金の宣伝くらい胡散臭い文句にしか聞こえないよ。死後の約束なんてさ」
「今も信じている人がいるからな。ベストセラー効果すげーよな。マイナスイオンとかコラーゲンとか水素水を信じちまう奴がいるのも納得だ」
「まったくだね。それで? 要するに『暗い現実じゃあなくて、天国を信じよう!』ってイエス様は言ったわけだよね?」
「そして【神の息子である我々にとって、道徳など、どんな関係があるというのだ!】と続く」
「メッチャロックだよね。って言うか、アナーキー?」
「実際、キリストはそう言う面もあっただろうな。彷徨い不当な扱いを受けるユダヤ人を束ねるトップだからな。その活動を一〇〇年二〇〇年と続けた結果、ヨーロッパの国々に宗教として認めさせ、他の神々に対する信仰を一掃したわけだし、ローマとかギリシャの神にしてみればテロリストみたいなもんだろうな。一番可哀想なのは、親父だろうけど」
「ふーん。まあ、今までの傾向から考えるに、ニーチェが一番言いたい台詞は『道徳なんて関係あるか!』って所だよね? 奴隷扱いされるユダヤ人達に、『あいつらの法律なんて無視!』って奮起させたわけでしょ?」
「そうだな。これも何度も話したけど、支配者にとって、支配することは善だ。強さこそが正しさであって、敵に慈悲をかけたら殺されるだけ。勝利して、支配することが貴族のあり方だった」
「だから、キリスト教はそう言う考えを悪だと決めつけたんだっけ? 自分達を肯定して、貴族を否定する新たな価値観を創造して、善悪を逆転させた……って話だよね?」
「このアフォリズムは、正にそのことについて語っていると思わないか?」
「なるほどね」
「法律や価値観って言うのは割とコロコロと変動するからな。平成一七年から二十六年の間で法律は一〇〇個以上増えたし、一〇年前はスマートフォンを持っている奴はモノ好きだった」
「あー。家のパパも『そんなもの買って!』ってママに怒られていたね。今じゃあ、皆が使っているから、ガラケー使っている方がモノ好きになっちゃったもんね」
「そんな感じで、価値観は容易く変わる。何故だろうか?」
「…………奴隷のため?」
「だな。奴隷って言うと語弊があるかもだが、自分よりも下位の存在を産み出すために、わけのわからん価値観は存在する。例えば、テーブルマナー。綺麗に食事をするだけなら、フォークの順番や、箸の持ち方なんてどうでも良いはずだ。が、『これが正解』と言う正解を誰かが定めた結果、それを知らない人間は恥をかくことになる。育ちが知れるってやつだな」
「利人、割とマナーに五月蠅いけどね。私にもちょくちょく指摘してくるよね。それは良いの?」
「【あなたにとってもっとも人間的なこと。それは、誰にも恥ずかしい思いをさせないこおである】とニーチェも言っている。誰かの決めたルールに従うのも癪だが、それでお前が恥をかくのも忍びねぇ。板挟みだな」
「ダブルスタンダードだと思うけど」
「あと、最近気になるのは、差別問題とかか? 人種差別を唾棄すべきことだろうけど、それにしたって極端になって来ている」
「外国人の俳優が着物を着たとか、原作だとアジア人なのを白人が演じたとか、そう言う奴?」
「そう言う奴、そう言う奴。『白人が他国の文化的な格好をするのは、文化の侵害だ』とか、俺には共感できん。じゃあ、スーツ姿のサラリーマンは? 髪の毛を金髪に染める学生は? あいつらは白人に対して何かを侵害しているのか?」
「確かに、あれも一方的な価値観の押しつけで悪者を作っている感じがしないでもないよね。誇示的には、菜食主義者もそんな気がするよ。色々理屈をつけて菜食の自分を肯定するけど、こっちからしたら『知るか!』って感じだよね。どうでも良いけど、あの人達は野性動物の狩りはどう言う扱いなの?」
「その疑問にも割と派閥があるみたいだな。一度、調べようとして馬鹿馬鹿しいから止めたぞ」
「まあ、だろうね。結局、人間は賢くて他の動物とは一線を画している! ってスタンスなのかな?」
「あいつらの自然と自然じゃあないの線引きは難し過ぎる」
「だよね。そもそもさ、差別反対って言う人は、差別する人をどう思うわけ? 差別することに対して差別的な扱いをするなら、その人は差別に反対することで、別の差別をしちゃっているんじゃあないの?」
「結局の所、人間の作った不完全な妄想が世の中には沢山蔓延っているわけさ」
「私は何を信じれば良いんだろうか?」
「何も感じず考えず、無我や無想の極地へ――と言いたい所だが、それを素晴らしいと言うのも、又、奴隷を産み出す法律なのかもしれないな」




