【一六二】【隣人の隣人】
【「われわれにもっとも近い者は隣人ではない。隣人の隣人である」。民衆はみんなこう考える。】
「皮肉が利いた如何にもニーチェらしいアフォリズムだな。説明するのも馬鹿馬鹿しいくらいだ」
「えーっと、これは聖書のパロディと考えれば良いのかな? 『汝、隣人を愛せよ』だっけ?」
「そうだな。一般にはマタイによる福音書一九章一九にあるイエスの言葉、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』のことを言うだろうな。まあ、それよりも前、レビ記一九章八で既に『自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である』とあるんだけどな。どっちにせよ、キリスト教やユダヤ教の聖書の言葉だ」
「そこまで詳しくは知らなかったけど、キリスト教に馴染みがなくても聴いたことはある言葉だね。でも、良い言葉じゃない? これが出来たら、世界中皆幸せだよ」
「つまり、出来ていないってことだな!」
「そだね。世界から未だに争いがなくなっていない所を見ると、全員が隣人を愛するとは行っていないみたいだね。同じ民族でも戦争している人達もいるし、血を分けた家族でも遺産争いするし、仲が良かった友達を恨むことだってある」
「結局、人間の性は闘争にあるのだよ」
「ラスボスっぽい台詞は置いておくとしてさ、それがどうしたの? そんなこと、知っているよ。ニーチェに言われなくても、隣人を愛することが出来ないなんて、世界中百も承知でしょ?」
「ああ。多分、世界が平和になるなんて本気で心の底から信じている奴はいないだろうな」
「何でだろうね?」
「多分、『平和』なんてモノが、そもそも人間の創作だからだと思うぞ。自然に平和なんて状態はない。どんな生物も生きるのに必死で闘っている。休息ですら次の戦いの為にあるんだしな。俺から言わせて貰えば、世界平和なんてかめはめ波とか二重の極みくらい、ロマンのある子供騙しだ」
「隣人愛も一緒なわけ?」
「ああ。まるっきり隣人を愛するのは不可能とは言わないけど、全ての隣人を愛するのは不可能だ。そんなことはわかりきっている。歴史が証明している。そんな『隣人を愛するのは難しい』なんて当然のことに、ニーチェは更に彼らしい一文を加えているだろ?」
「【「われわれにもっとも近い者は隣人ではない。隣人の隣人である」】の【隣人の隣人である】の所だね?」
「そ。例えば、いつだったか千恵は銀行行って日本赤十字に三〇〇〇円寄付していたな。なんだったけ? ポリオワクチンだったか?」
「そうそう。心臓病の赤ちゃんの為に、二〇〇円も寄付したね」
「世間一般的に見て、それは素晴らしい善意だ。が、あの駅の裏の公園に暮らす、社会のしがらみから解き放たれた自由人達に寄付したいと思うか?」
「ホームレスね、ホームレス。なんで無駄に格好良く表現しているわけ? でも、うーん。あの人達には寄付したことはないかな」
「なんで?」
「なんでって言われても……」
「隣人愛なんてモノがあるなら、近場の人間から助けるべきだ。が、大抵の人間はそうしない。近くの人間を助けるよりも、少し遠くの人間を助けることで隣人愛を満たす。寄付や募金が顕著だ。日本は発展途上国に何千億と支援をしているが、日本国内にだって金が必要な奴は幾らでもいるだろう」
「そりゃね。でもさ、じゃあ、どうして『隣人』じゃあなくて『隣人の隣人』を愛するんだろ? どうして私はホームレスじゃあなくて、アフリカの顔も知らない子供達のことを優先したんだと思う? その行為は善意でも愛でもないって、利人は思う?」
「思うぞ」
「即答か」
「千恵。それは見栄で、虚栄で、欺瞞で、偽善だよ。自分は善人であるって言うポーズでしかない。断言してやるし、保証してやろう」
「別にそこまでは必要ないんだけど」
「結局の所、大抵の善意や愛って言うのはアピールだ。自分が正しいと証明したいし、それを多くの人間に知ってほしい。そう言う気持ちが隣人よりも、隣人の隣人を愛する気にさせる」
「って言うと?」
「まず、単純に隣人は感謝なんてしない。いや、まあ、これは遠くの奴も一緒なんだけど。ただ、目に見えてそれがわかるからな。最初は感謝するかもしれないけど、どんどんその気持ちは薄れていく。当たり前になる。で、態度に出て来る」
「ああ。言いたいことはわかるかも」
「日に日に『当然』と思われ、感謝のなくなって行く相手に愛を注ぐのは難しい。だから、人はリアクションのない隣人の隣人に良くする。相手のリアクションがない分、自己満足で終わるのが簡単だからな。千恵だってアフリカの子供達から感謝の手紙が来ることを最初から期待していなかっただろ?」
「それは、そうだね。別にそのお金がどう使われたかも調べてないし」
「ってわけで、遠くの人間を愛するのは、相手の為ではなく自分の為だ。自己満足さ」
「他にも理由はあるわけ?」
「ああ。隣人の隣人を助ける時、それを隣人が見ている」
「なんか、早口言葉みたいなんだけど、どう言うこと?」
「ニュースでたまに見るだろう? 『首相が国際舞台で○○○億円の寄付を決めた』とかなんとか。ただ相手のことを思うならば、別にそんな事を発表する必要はない。こっそりと寄付すれば良い」
「なるほど。自分の善意を第三者に見て欲しいってことね」
「そ。ただ黙って金だけ渡しても意味はない。社会に対する貢献を示しているわけさ。善意や徳じゃあなくて、周囲からの評価の為に人は愛と呼ばれる行動を行う」
「でも、政治ってそんなもんじゃない?」
「隣人愛がそんな物なのさ。誰かに認められたい、褒められたい、使えると思われたい、そう言う行為のバロメーターとして、人は隣人愛染みた行動を取る」
「虚栄心の為には隣りの人じゃあなくて、隣りの隣りの人を助ける必要があると」
「その結果、『どうして私じゃあなくてアイツが』なんて感情も産まれて来るんだろうけどな。隣人の隣人を愛するばかりに、隣人に憎悪が産まれることは多々あるだろう。だからより一層、隣人を愛するのは難しくなる」
「うーん。世知辛い」
「このアフォリズムを読むと、俺は聖テレサの話しを思い出すな」
「聖テレサって言うと、マザー・テレサのことだよね? なんか、あの、偉い修道女さん」
「ざっくりしてんな」
「いや、あの人がどんな人かって何気に説明が難しいでしょ」
「確かに。コルカタの聖テレサ。彼女が何者かと言われると、聖女としか説明のしようがない気もするな」
「でしょ?」
「まあ、そんな彼女は生前に日本を訪れているわけだが、その時にこんな逸話がある。『インドの人の為に何かできることはありませんか?』と誰かが訊ね、聖テレサは『まずは貴方の傍の人の為に何かしてください』と応えたってな。ま、ソースは知らんけど」
「如何にもキリスト教と的な隣人愛に溢れた返答だね……って、あれ? じゃあ、マザー・テレサもニーチェも言いたいことは一緒ってこと?」
「言いたいことも一緒だろうし、絶望も同様だろうな。神なんて存在しないと実感するには十分すぎる現実だ」
「マザー・テレサって聖人なんでしょ? ニーチェと違って、神様を信じているからこその活動だし、その言葉じゃあないの?」
「さあ? 他人の気持ちなんて正解の出しようがないからなぁ。ただ、彼女が神の存在を疑っていたって言うのは、割と有名な話だな」
「へー。じゃあ、どうして聖人と呼ばれるまで頑張ってたんだろ?」
「彼女が本当に隣人を愛することに尽力していたから、だったら美しい話だし……」
「だし?」
「神に愛されたいが為だったら、救いのない話だろうな」




