【一五八】【暴君】
【わたしたちのうちのもっとも強い欲動、わたしたちのうちのこの暴君には、理性だけでなく、良心までも屈するのである。】
「まずさ、【欲動】って常用する単語? 私、聴いたことがない気がする。なんとなく、漢字の雰囲気でニュアンスは理解できるけどさ、これ、日本語?」
「そりゃ、日本語に決まってるだろ。今まで全部日本語訳やったやん? 因みに、【欲動】は精神分析学の用語だ。普通に生活していてこの言葉のお世話になることはないだろうな」
「精神分析学すら普通に生活する上でお世話にならなからね」
「人間を突き動かす無意識の衝動のことを言うらしい。フロイトが言うには、心的なものと身体的なものとを別ける境界概念で、自己保存欲動と性欲動があるらしい。ちなみに、性欲動には生と死それぞれの欲動に分けることもできる」
「はあ。つまり、どう言うことだってばよ!」
「人間が生きようと思う意志のことを【欲動】と呼ぶってことかな? 肉体的な生存に必要な欲求や、精神的な欲求とか分別されているってことだな。まあ、これはニーチェ以降の話しだけど。心理学でも結構影響を与えているんだよ、ニーチェは」
「心理学が話題に上る度に、やたら強調するよね、そこ」
「『哲学なんてなんの役に立つんだ?』って言う奴も多いからな。心理学に貢献したこともアピールしておいて上げようと思ってな」
「無駄にニーチェには優しい!」
「さて。ニーチェを持ち上げた所で話を戻すと、【欲動】は【暴君】だと書いてあるな」
「要するに『人間の欲動は理性や良心で抑え込むことができない』ってことだよね?」
「だな。人類は未だに自身の欲動を制御することもできない愚かな存在だ」
「それは間違っているよ! 利人! 私は人間の可能性を信じているから!」
「急に主人公っぽい発言をありがとう。でも、実際問題、自分の欲動を抑えられない人間ばかりだろ?」
「そうかな? 少なくとも私は理性的で良心を持った善良な人間だよ?」
「いや、それは俺達が満たされているからじゃないか? 人間、追い詰められた時に本性が出るからな」
「私の財布は清々しく空っぽだけどね。追い込まれているよ。年末は財布の紐が緩むよね。あ、今時、紐のついた財布使っている人なんているのかな?」
「千恵の財布事情は知らねーよ。言っただろ? 欲動って言うのは『自己保存』に関するものがあるって。例えば、腹が減ったら何かしらを食べるだろう? これだって欲動だ。生命維持の為に食事は絶対に必要で、俺達は食欲と言う暴君を前にしたら理性も良心も維持できない」
「そ、そんなことないよぉ?」
「ダイエットが一週間も続かない奴が良く言うぜ」
「ジョギングは続いているからセーフだから。って言うか、別に人類全員が食欲を我慢できないわけじゃあないでしょ? 食事にはマナーだってあるし、誰もが貪るように際限なく食べて太っているわけじゃあないじゃん。私は食い逃げだってしたことないし」
「そう思うか? だけど、俺達が口にする食べ物は、必ず理性的に供給されたものか? 食事って言うのは、野蛮な行為だと感じたことはないか?」
「ん? それはフォアグラが動物虐待だとか、そう言う話し? 確かに、あの光景は狂気的だと思うけど、別に私達が食べるものすべてがあんな惨い物じゃあないじゃん」
「いや、普通に考えて牛を殺してステーキにするのも似たようなもんだろ。殺すって言うのは正気じゃあないと俺は思うけどな」
「ベジタリアンみたいなことを言いだすね。ああ。でも、そうか。命を大切にしろって言う私達が、他者の命を積み取って生きながらえているって言うのは矛盾だね。で、その矛盾を棚上げにしているのは理性的な判断じゃあないし、人間と牛は違うから問題なしって言うのは良心的な人間の台詞じゃあない」
「前にもこんな話をした気もするが、俺達がちょっと普段よりも良い物を食べるだけで、貧国の人間の腹を幾つも満たすことができる。娯楽もそうだ。『退屈を潰したい』要するに、じっとしていたくないって言う欲動の為に、人類は森を切り開いてゴルフ場を作ってみたり、限られた資源を馬鹿みたいに消費して不夜の都を作ったりと、やりたい放題だ。大枚を募金しているハリウッドスターは、その何倍もの金で豪遊している。理性や良心や道徳や信仰や慈悲や同情よりも、自分自身の保全が一番だ。さあ、もう一度問うぜ? 二階堂千恵。それでもお前は人間の可能性とやらを信じているのか?」
「悪役みたいな台詞をありがとう。でも、そうだね、こんな奴等信じられないね! クズだよ、クズ。ぺっぺ! 闇に呑まれよ!」
「なんて言う変わり身の早さ!」
「じゃあ、逆に聴くけど、利人はそんな人類をどう思うわけ?」
「俺か? パンセに言葉を借りるなら『では、人間とはいったい何という怪物だろう。何という新奇なもの、何という妖怪、何という混沌、何という矛盾の主体、 何という驚異であろう。あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず、真理の保管者であり、不確実と誤謬の掃きだめ。宇宙の栄光で あり、屑』ってとこか?」
「前も聴いたね、それ。って言うか、利人もクズなんじゃん」
「その言い方だと、俺がクズみたいだから止めて!」
「(え?)って言うか、それを引用するなら、心理の保管者とか、宇宙の栄光はいらなくない?」
「どうだろうな? 人類がどうしようもない愚物だと言うのは同意だが、それと同時にそれだけの存在じゃあないとも思う」
「矛盾してるね。『何という矛盾の主体』!」
「まったくの無意味だけど、理性や良心って言う概念を産み出したこと自体は凄いと思わないか? 獣達は多分、欲動のままに生きている。それはそれで素晴らしい生き様だけど、俺は獣にはなりたくないからな」
「いや、そりゃ、そうだけど。私だって『理想の住居は竪穴式!』とかは思わないよ?」
「だろ? 創造することで獣から脱却した。問題は無数に山積みで、恐らく何も解決はしないだろうけど、欲動のままに行動することで、様々な物を創造して来た。今更、それを捨てることは誰にもできない。欲動と言う名の暴君が今の世界を造った。俺はそんな人類の可能性を信じることができる」
「でも、ここは天国じゃあない。人間は混沌だし、矛盾しているし、馬鹿ばっかだよ」
「だからこそ、俺達は欲動のままに進まなくちゃならない」
「え? この断章を読んだ利人の結論はそうなるの!? 普通、こう言う類の話って『無欲』だとか『節制』の重要さを伝える物じゃない?」
「は? 違うだろ? 欲動が人類社会をここまで導いてくれたんじゃないか」
「こいつ、また悪役みたいなこと言い始めやがった」
「暴君で結構。どの道、理性も良心も続いて一〇〇年って所のムーブメントみたいなもんだしな。世界を動かしているのは欲動で、道徳だとか善悪の基準なんて後からかってについて回って来るもんさ。だから世の中は問題だらけなんだろ?」
「だからって、欲動のままに行動したら、問題を先送りにするだけじゃない? 場当たり的な解決はできても、根本的な問題は何も解決してないじゃん」
「だからこそ、走り続けないと不味いんだろ。兎に角、今、今、今、だ。今をより良くしようって言う行動を続けなければ、良心によって人間は身動きが取れなくなっちまう。【力への意志】って言うのはそう言うもんなのさ。それを持つ人間が、世界を動かしてきたんじゃあないか?」
「後先を考えずに?」
「そもそも、後とか先なんてあるのか? どの場面を切り取っても、それは今でしかないんじゃあないか? 未来なんて言う不確実な物に託すなんて、天国で幸せになれるって謳う宗教と変わらないぜ?」
「それが本当なら、人間なんてやっぱり自己中な最悪な生物じゃない?」
「暴君って言うのはそう言う物だろう?」




