交換日記を始めよう
次の日の朝。灯輝はふらふらと学校に向かっていた。
眠い。
それは深夜まで起きていたからとか、戦いで疲れたとかそういう理由ではなく、無理をして力を使った、その反動だった。
(わかっては、いたけど……ふ、わあぁぁ……)
あくびが止まらない。体温が上がらない。血圧も上がらない。身体が起きてこない。
今かろうじて意識を保っていられるのは、皮肉にも左腕に負った傷の痛みのおかげだった。
危険な自転車運転をして学校に着き、あくびのしすぎで涙を流しながら教室に入る。目をこすっていると、沙織が話しかけてきた。
「おはよう、灯輝」
「おはよーぅ……」
いつもと違う様子に、沙織が首をかしげる。
「なに? ずいぶん眠そうじゃない」
「うんまあ、きのういろいろあってね」
巨大コウモリと戦って、ちょっと無理したらそのツケでゾンビのようにふらふらです。
そういうありのままを話さず、はぐらかす。
それはいつものことなので、特に沙織はそれ以上食いつかなかった。
代わりに、彼女は別の話題を振ってきた。通学鞄から、なにやらノートを取り出して、こちらに見せてくる。
「きのう買ってきたの」
それはどこにでもあるようなB5サイズのノートで、表紙にはデザイン化された鳥の絵が印刷してあった。
どういうわけでもない。普通のノートだ。
「これが?」
沙織はもったいぶっているのか、何をするのか言わなかった。今は頭がまるで働かない灯輝が、答えを促す。
彼女は楽しそうに言った。
「仙家くんの話なんだけどね」
「うん」
「このノートを、部室に置いておくの。そうしたら、なにか書き込んでくれるかもしれないでしょ」
「うん……?」
何かが引っかかった。
「原稿を出しに部室まで来るんだから、これを見たらなにか書いてくれると思うのよね。その書き込みから、なにか手がかりを得られるかもしれないわ」
「まあ、そうだね」
「私も何か書いて。それに対する意見とか。考え方とか。そういうのを書き連ねていけば、手がかりも増えてくるはずよ」
情報が少ないなら、自分から掘り起こしにいく。
実に彼女らしい考え方だった。お互いに意見を交換し合えば、情報も増えるであろうし、なにより、そこから絆も生まれてくるかもしれない。
そう、同じノートに。
お互いの思っていることを書き込むのだ。
「西塚、それってさ」
と、いうことはだ。
ひっかりの正体を確信する。
「それってつまり……交換日記とか、そういうやつ?」
そうであった。
今でこそ、メールやSNSやらがあるために廃れてしまっているが、それは昔からある、単純で素朴な交流手段だ。
単純だからこそ自由があり、素朴だからこそ心に沁みる。
同じノートにお互いの話を書き込むのだ。
同じノートにお互いの意見を書き込むのだ。
同じノートに。お互いの。思いを。書き込む。のだ。
眠い頭に、文章だけがぐるぐると回った。
眠気だけでなくその言葉に踊らされて、頭がくらくらする。
そんな灯輝の様子など気にもせず、沙織はぽんと手を打った。
「あー。そういえばそうね」
そうね。
そうね、って、言われた。
じわじわと、灯輝の脳が活性化し始める。
このノートに書き込みをする二人の姿が、まず脳裏に浮かんできた。おかしなことになぜか二人がもう出会っていて、一緒にノートに書き込んでいる光景だったが、そんなことはどうでもいい。
うふふ、とか、あはは、とか言っていて、なんだかありえない様子の妄想だったが、そんなことはどうでもいい。
二人はすごく仲よさそうで、楽しそうな感じで、わりとイケメンだった仙家に沙織がちょっと顔を赤らめちゃったりなんかして、お互いの手が触れそうになって慌てて引っ込めたりしてちょっと気まずい雰囲気になったけど、でもべ、別にあなたのこと嫌いとかじゃないんだからね! とか、もう何だかよくわからなくなってきたけどそんなことはどうでもいい。
どうでも……
(い い わ け あるかああぁぁぁぁッッ!?)
心の中で力の限り絶叫した。何かが爆発するような音を立てて、眠気が吹き飛んでいった。
はぁ? なんだそれは。なんだそれは。交換日記? なにその古式奥ゆかしい清らかな男女交際みたいなの。口では言えないようなことを、言葉にしてそっと差し出して伝える、とか、そんな甘酸っぱい青春みたいなの。そんな言葉にドキっとして、新しい彼女を発見してまたひとつ好きになるとか、そんな、そんな、そんな、そんな、そんな――
(そんなこと、僕がしてみたいわああああああッ!!)
未だに沙織のメールアドレスすら知らない灯輝であった。
仙家め、ちくしょう今度会ったら一発殴ってやる、嫌われていようが何だろうか知るかあの野郎、と凍れる闘志を燃やす灯輝をよそに、沙織は上機嫌でノートにシャープペンシルを滑らせた。
◇◆◇
4月26日 くもり
仙家くんへ
こんにちは。この文芸部で同じ二年生の、西塚です。仙家くんには、サオルというペンネームのほうがわかりやすいかもしれませんね。
会って話をしたことがないので、はじめまして、でいいでしょうか。
そんな風にお互いのことを知らないまま、一年が経ってしまいました。
せめてなにか話がしたいなと思い、こういう形をとってみました。
なにか書き込んでくれると嬉しいです。
「まあ、簡単だけ最初はどこんな感じかな」
「そうだね……」
沙織は、書き込んだ文章を灯輝に見せて言った。
なんだか、少し肌寒い気がする。この時期にしてこの冷気は妙な感じがしたが、まあまだ4月、そんな日もあるだろうと沙織は思った。
まあそれは、沙織の目の前にいる灯輝から漏れた、抑えきれない冷たい殺気だったりするのだが。
そんなこととは露知らず、沙織は上機嫌でノートをぱたんと閉じ、言う。
「これを部室に置いて、仙家くんからの接触を待ちましょう」
「そうだね。そうするより他に、ないの、かも、しれ、ない、ね……」
なにやら灯輝が歯軋りするように、噛んで含んで言葉を発している。どうしたのだろうか。今日の彼は少し変だ。
今朝の眠そうな様子といい、調子が悪いのかもしれない。
「……灯輝、なんか変だよ?」
「ふふふ。なんでもない。なんでもないヨ」
明らかにおかしな調子だったが、彼がそう言うので沙織は先を続けることにした。
「……ええと。そろそろ第一次締切が近いから、仙家くんは部室に来るはずよ」
「第一次締切?」
聞きなれない単語に灯輝が首をかしげた。それはそうだろう。こんな単語、たぶんこの学校の人間では、文芸部かマン研ぐらいしか使わないのではないか。
沙織は穏やかに微笑みながら、言った。
「当初予定していた締切のことよ。まあ守る人仙家くんしかいないんだけど」
「それって……」
「ものを生み出すのには、それ相応の時間と苦しみが必要なのよ」
もっともらしいことを言ってはいるが、あまり説得力はなかった。
人は期限がないと、いつまでも仕事に取り掛からない。要は、締切という言葉を使って、発破をかけているのだ。
普通なら本当にギリギリの間際になって始めても、締切には間に合わない。なので破られる前提の締切ができた。さあ既に約束の期限は過ぎている、早く取り掛かりたまえ、という時限式のプレッシャー。すなわち第一次締切である。
「たぶんあいつ、原稿の他にやることがないから、第一次で原稿あがるんだろうな……」
「何か言った?」
「いや。なにも」
灯輝がボソっと呟いた声は、誰の耳にも入らなかった。
「第一次締切は三日後よ。いつもだったらそろそろ、仙家くんは原稿をあげてくる。そのときが狙い目よ」
「そんなこと考えてる暇があったら原稿書きなよ西塚」
「それとこれとは話が別!」
沙織は力強く宣言した。無論、勢いでその場を押し切るためだ。
「幽霊の正体を暴くわよ!」
◇◆◇
さてどうしたもんかね、と灯輝は思った。
仙家正文は幽霊である。正体を暴くもなにも、本当に幽霊である。
しかも灯輝の親戚、天野凛子の力によって副次的に生み出された、イレギュラー中のイレギュラーという厄介な存在だ。やらかした当人はついでに任せる、なんて無責任なことを言ってくれたが、それにしたってそれは理不尽だと思う。
天野や雪野、他の分家の存在は、あたりまえだが極秘事項である。地方伝説として名前を残しているものの、地元の図書館に文献が追いやられている程度で、誰もそんな一族がこの現代でも活動しているとは思っていない。
あくまで影。あくまで黒子。沙織相手だろうがそれは変わらない。
では彼女に何もかもを伏せて説明するには、どうしたらいいか?
灯輝の出す答えは、不可能、である。
沙織のことだから、変に嘘をついて矛盾に感づかれれば、最悪真相にたどり着く可能性すらある。それはない、と言い切れないのが、西塚沙織の西塚沙織たる所以だ。あまりに行動力がありすぎる。
だから先日仙家本人にも提案した通り、仙家に協力してもらって誤魔化すというのが一番の落としどころだと思う。
いっそのこと、凛子に頼んで仙家を本格的に実体化してもらい、実は病気かなにかで滅多に学校に来られない、とか嘘をついてもらうのはどうだろうか。
これが一番丸く収まりそうな感じである。ただ、凛子に頼みごとをするということを除けば、であるが。
(他にいい方法もなさそうだからなあ。これなら、僕が面倒なだけだし……)
交換日記の件から一夜明け。教室に向かいながら、灯輝はそんなことを考えていた。
さすがに眠気も取れ、いくらか考える余裕も生まれている。
教室に入ると、沙織が待ち構えていたようにこちらを向いた。手には例のノートを持っている。その瞳の輝きからして、なにやら進展があったようだ。
予想通り、沙織が弾んだ声で言ってくる。
「灯輝! ノートに書き込みがあったわ!」
「へえ」
昨日の今日だ。あいつよっぽど暇なんだな、とのんびりとしたことを考えていると、沙織が突然、灯輝をびしっと指差してきた。
「犯人は――あなたね! 雪野灯輝!」
「ぅえ?」
予想外の展開に目が点になる。沙織は意に介さず、そのまま言い放った。
「幽霊部員、仙家正文の正体は――あなたよ、雪野灯輝!」
「……」
鼻先に突きつけられた人差し指と、沙織の顔を見比べる。決して冗談を言っている様子ではなかった。
冗談でなく、本気で、灯輝を仙家だと言っている。
展開が謎すぎた。昨日話していた作戦は、一体なんだったのか。
名探偵はいつだって、周囲を置き去りにして結論へとたどり着くものだが。
「え、えぇぇぇぇー?」
これはさすがに吹っ飛びすぎだ。
真犯人を知る灯輝は、困惑の声をあげた。