白い闇に突き進む
改めて観察する。
巨大なコウモリは、実物のコウモリではなく靄の集合体だった。目も口もなく、ただ黒い影となって浮かんでいる。
輪郭は曖昧で、靄が分解したり合体したりを繰り返していた。
どう攻撃したらいいか迷うところだが。
さて。と灯輝は仮説を立ててみた。
(だいたいこういうものは、身体のどこかに核があるもんだよな)
検証のため灯輝はまず、クナイを一本、コウモリの中心に放ってみた。
狙いたがわず中心に、クナイは当たった。
……ようだった。
特になんの変化もなかった。
ならば、と灯輝は数百ほどの氷のクナイを作り出し、全体を貫くつもりで放った。
核だろうが末端だろうが関係ない。
どこにあろうが、全部まとめて貫き通す。
しかしそれを許すほど相手も悠長にしているはずもなかった。巨大コウモリは分裂すると、小さなコウモリになり、クナイはその間をすり抜けていく。
そしてそのまま、小さな影は上空から滝のようになって襲い掛かってきた。
半ば予想していたので、さきほどと同じように氷の壁を作って防ぐ。落下の勢いで壁にぶつかったコウモリは凍り付いて、砕けて散った。
黒い大群は地上で身を翻し、上空に舞い上がって巨大コウモリに戻った。
確認する。幾分か最初より小さくなったようにも見える。
数は減らせたか、と思った瞬間。
左腕に鋭い痛みが走った。
慌てて見ると、そこには小さなコウモリが噛み付き、流れ出た血を啜っていた。
(ぐっ―――!)
攻撃を仕掛けて振りほどこうとするより早く、そのコウモリは素早く離れて巨大コウモリに戻った。
傷口を押さえる。まんまとやられた形だ。
「やってくれるじゃないか……」
ずきん、ずきん、と鼓動のたびに、傷口が痛みを訴える。
その痛みに刺激されて、灯輝の中で久しく遠ざかっていた感覚が、甦ってきた。
吹雪のように鋭い寒さに、歩くだけで命を削られる、痛みを。
肌馴染みのある感覚だ。しっくりきていて、逆に心地よくすらある。
気が付けば口元に、不敵な笑みが浮かんでいた。
そう、元々自分は『こっち側』だ。
所属を離れるなんてどうかしている。
嬉々としてそれを受け入れ、それから読みの甘い自分に腹を立てた。
おめおめと傷を負うような、力どころか判断まで鈍くなった忍びなど、鈍ら同然だ。やはり最近、自分は弛んでいる。
温かい暖炉の炎にあたって、ぬくぬくと、何をやっているんだ。
そんなものに惹かれるから、こうやって弱さを晒す。
「灯輝」
座禅なら渇を入れるタイミングで、凛子から声がかかった。今更心配しているわけでもないだろう。その証拠に、怪我人にも容赦なく警策を打ち込んでくる。
「温いぞ。集中しろ」
心配されるよりも予想だにしなかった、信じられないことを言われた。
「―――温い?」
驚きと。
それを上回る可笑しさが、胸のうちからせり上がってきた。
堪えきれず笑いが漏れた。あまりの可笑しさに肩が震える。
笑う。
嗤う。
嘲笑う。
「それはまた」
傷口を凍らせて止血する。血を凍らせる。
心を凍らせる。
「雪野に対する侮辱も、甚だしい」
歪んだ口元から、表情を拭う。
漂白するが如きの不自然さで、灯輝は意識を真っ白に塗り潰した。
傷を負わされた悔しさ。凛子に対する憤り。
先程まであんなに可笑しかったものも、全部埋めてしまえば無かったことのように真っ白い平坦な、乾いた大地に。
熱くならない。むしろ冷やす。
感情が邪魔だ。
平穏の邪魔だ。
安定しない揺れ幅に心を惑わされるな。
ぬくもりなんて幻覚に心を迷わせるな。
深々と降る雪のように。
愛もぬくもりも関係なく。
全部真っ白く埋め尽くせ。
目の前全部を、凍らせろ。
「―――……」
だらりと、身体の力が抜ける。視界から色が消えた。
魂が抜けるように漏れ出た吐息は、当然のように真っ白だった。
灯輝の周囲が凍り始めた。空気中の水分が凍り、月明かりを受けてきらきらと輝きだす。
コウモリを見上げる。眼が動かないので、人形めいた動きで首だけ傾けた。
静かな夜に、乾いた音が響く。
ぴしり
コウモリが動揺したように、翼をはためかせた。
さらに、ぴし、ぴし、と音が続く。
末端から徐々に、黒い翼が白く凍り始めていた。異音はそこから生じている。
「―――ッ!!!」
コウモリが冷気を振り払うように一声鳴いた。
通常なら耳が壊れるほどの音量の中、灯輝は何事も無いようにそこに佇んでいる。
超音波のそれを雪のように吸い込んで、雪像のように不動のまま、力を行使し続ける。
意に介さない。
受ける意が無い。
意味が無い。
やがて、雪が降り始めた。
雪はコウモリに降り注ぎ、その凍結を加速度的に早めていく。
コウモリは苦しみもがき、半ば白くなった身体を急降下させて、灯輝へと襲い掛かった。
人一人など軽く飲み込まれる、巨大な顎が開かれ、灯輝はひと飲みにされた。
だが、止まらない。その中での存在を主張するかのように白い面積は増え続け、ほどなくコウモリの全身が凍りついた。
動くものが何も無くなって。
完全なる沈黙に支配される。
永遠に続くように思われたその静寂はしかし、コウモリから響いた音によって破られた。
ぱきん、と折れる音。
凍りついた翼に亀裂が走った。
一度始まってしまえば、それは間断なく連続して鳴り響いて。
乾いた雪原に、大した意味も無く終わる。
コウモリの全体が崩れた。
がらがらと瓦礫のように闇が崩れ去る中で、灯輝は飲み込まれたときの姿勢のまま、ただ虚ろに空を見上げていた。
雪は止む気配もなく、深々と降り続ける。
雪に触れた黒い破片ははやがて霧になった。そして風に吹かれて散っていった。
後にはただ、動かない灯輝だけが残る。
雪が積もり始めた。景色が薄く、白化粧されていく。
「ふむ」
凛子がうなずいた。勝負はついた。声をかける。
「おい、灯輝」
しかし灯輝からは、なんの反応もなかった。
勝利の喜びも、終わったという安堵の息も無く、ただただ無反応にそこに突っ立ったままだ。
瞳の焦点ははるか遠くで、まばたきすらしていなかった。
精巧な人形のようだった。生きている気配が無い。
雪が止む気配もない。
凛子はため息をつき、灯輝のもとに寄った。
力を使って火を起こすと、灯輝のマフラーに押し付ける。
「……って、熱ぅッ!?」
灯輝が熱気で正気に戻る。そして自分が燃やされていることに気づき、必死に消火活動を始めた。
マフラーを地面に叩きつけ、足で踏む。実は気に入っていた白いマフラーだったが、焦げと足跡でなんだか無残なことになってしまった。
とりあえず、火は収まった。悲しい気持ちで焦げたマフラーを見つめていると、放火の犯人からお褒めの言葉をいただいた。
「灯輝、見せてもらったぞ、よくやった」
「よくやった人間にする仕打ちですか、これが……」
「まあ、少々やりすぎたからな」
凛子が周囲を見渡す。四月だというのに、学校にはうっすらと雪が積もっていた。う、と言葉に詰まる。
「……朝には溶けますよ」
「だといいな」
凛子が肩をすくめる。さすがにばつが悪い。
塩でも撒いて除雪しようかと考えていると、凛子に痛いところを突かれた。
「灯輝、おまえはああなると自力では戻れんのか」
「……はい」
渋々と認める。ここは自分の修行が足りないせいだ。
てっきり怒られるかと思いきや、本家の当主は真顔で冗談を飛ばしてきた。
「そうか。私はさしずめ、凍ったカイの心を溶かすゲルダだな」
「ゲルダはカイを火達磨にしようとはしない……」
アンデルセン童話、『雪の女王』である。
少年の凍った心を溶かそうと健気に奮闘する、少女の話だ。保障するが断じて、じゃあ燃やしちまえばいいんじゃね? とか、そんな殺伐とした話ではない。
「ゲルダはカイを想う熱い涙で、カイを正気に戻したはずだ……」
「まあその役割は私ではないな」
「そうですね」
「うん、なんだか今微妙に失礼なことを言われた気がするな」
「気のせいです」
そろそろこの掛け合いにも慣れつつある。
しかし怪我もしていることだし、もうそろそろお暇したいです、と灯輝が思ったとき、学校の中に誰かがいることに気がついた。
凛子もそちらを見やる。全く驚かない様子から、彼女はこうなると既にわかっていたようだ。
むしろ、この女王にはわからないことなんてないんじゃないか、とうんざりした気持ちになった。
「灯輝、来たぞ。あれが先ほど言っていた、おもしろいものだ」
人影が、外に出てきた。
この学校の制服を着た、男子生徒だった。
顔の造作は整っていて、爽やか系イケメンだなあ、と灯輝は反射的に思った。印象に残りそうな気がするが、少なくとも灯輝が知っている顔ではない。
楽しそうに浮かべた笑顔の中に、強い意志を感じる眼差しがある。
だがなんとなく存在感が薄い。というか、物理的に薄くて向こう側が透けて見える。
「紹介しよう。彼が」
「先輩、大丈夫です。自分で名乗りますから」
男子生徒は凛子に手を振ると、自ら名乗りを上げた。
はっきりと。存在を主張するように。
「こんばんは。ぼくの名前は、仙家正文といいます」
「は?」
灯輝の目が点になった。