陽炎の呪い
「と、いうわけでよ」
「うん」
「得られた情報は、『仙家正文はたぶん今現在二年生である』という曖昧なものだったの」
「うん。なかなかの収穫だね」
「すごいイヤミね」
「そうでもないよ」
次の日、沙織は灯輝に得られた情報を説明していた。
彼女はしゃべりながら、情報を整理しているようだ。最低限の相槌だけして、必要なところだけ軌道修正していこう、と灯輝は耳だけ傾けた。
口元に手を当てて、真剣な顔で沙織は続ける。
「あとは……そうね、部員の誰も、彼の書いたものを見たことはあっても、姿を見たことはない、ということかしらね。彼か、彼女かはわからないけれど、やっぱり筋金入りの幽霊部員よ」
「そうだね」
「で、入部は四月の終わり。わりと遅いわね?」
「そうだね」
「それからさっき先生にもきいてみたけど、仙家って名前の生徒はいないって言われたわ。予想していたことだけど」
「そうだね」
「私は猫が好きなのよー。猫はいいわね。真理よね」
「そうだね」
「戦巫女ユウガオ戦記は、実は作者にもまだ結末が読めていない……そこ! 成り行き任せとか言わない!」
「そうだね」
「文芸部はやる気のある部員を募集しています! 老若男女、幽霊妖怪、オタクにイタイ子なんでもござれ! さあ今すぐ灯輝も、この入部届にサイン!」
「嫌だねえ」
「聞こえてんじゃないのおおおお!?」
差し出した入部届を怒りのあまり握りつぶして、沙織はゴミ箱にぶち込んだ。
肩で息をしながら振り返った彼女は、半眼で灯輝に詰め寄る。
「……ねえ、やる気あんの?」
「そうだねえ」
一応首をかしげる動作はしてみる。本当のところ、灯輝にやる気はない。
ただ、それを正直に言ってへそを曲げられても嫌なので、あてずっぽうで言ってみることにした。
「普通に考えたら、部員の誰かが別のペンネームを使って、違う作品を書いてるんじゃないの?」
沙織の眼鏡がキラリと光った。
「それも考えたわ。誰かが嘘をついている。けどそれを見破る手段を、さっき考えたのよ」
「んー?」
不敵に笑う沙織に灯輝は嫌な予感をおぼえる。こういうときはだいたい、彼女はなにかを企んでいるのだ。
「情報が制限されている、または情報が足りないときは集めればいいのよ。
その過程でボロがでればよし、そうでなければ、こっちからボロを出させるまでよ」
「どうするの?」
「また明日のお楽しみ」
ニヤリと笑ってはぐらかされた。なぜだろう、普通の女の子はにっこり笑うのが魅力的なはずなのに、沙織の場合はこちらのほうが輝いて見える。
灯輝は苦笑いして頭をかいた。
目的のために沙織は、いきなり振り切った行動をすることがある。
そこに一抹の不安はあるものの、まあ一応、限度というものはわかっているのか、法に触れるようなことまではしない(たぶん)ので、灯輝も今あえて問い詰めようとは思わなかった。
ただ、どんな手段で追い詰めていく(そんな表現の手段になる気がする)のか、目をつけられた仙家に少しだけ同情する。
そろそろ沙織と話すようになって一年になるが、優等生じみたこの外見で過激な行動を取るのには、未だに慣れることがない。
彼女曰く、「油断を誘うカモフラージュ」らしい。わかってやっているのは、ちょっと性質が悪いと思う。
ただ逆に、中身どおりの過激なラッピングをされても困るので。
外見と中身の齟齬。そうか、これがギャップ萌えというやつなのか。
その筋の人が聞いたら、「ないない、それはない」と言われそうなことを考えて、灯輝は自分を納得させた。
まったく、一年経っても変わらないんだなあ、沙織と初めて会ったときのことを灯輝は思い出した。
それもまた、仙家が入部したという四月の終わりだった。
◇◆◇
一年前の今頃、灯輝は、感情が凍りそうになっていた。
雪野家の者には、凍気を操る力がある。
その力は常に冷静沈着でなければ制御しきれなかった。力を制御するということは、感情もまた、制御することだった。
灯輝は幼いころから厳しく修行してきたため、それが顕著に現れた。既に冷静というより凪の心と言うべき感覚で、なにをしても感情が動かなくなってきていた。
彼自身は、それでいいと思っていた。
周囲からはノリの悪いやつ、ということで敬遠されるようになっていったが、それは気にならなかった。
昔から静かなほうが好きだったし。
雪の中で静かに凍り付いていけば、感覚は広がって、拡散して、雪そのものになって降ることができるように思われた。
そしてそれはとても、素敵なことだと思った。
一面の銀世界の中で、なにを言っても、声は雪に吸い込まれて。
静かな白い闇を彷徨い、やがてここが自分の居場所なのだと悟った。
それでも、気づけばなぜか歩き続けていて。
でもなにも見つからなくて、そのうちに自身も雪に埋もれそうになって。
飲み込まれるのを待っていた。
そうしたらぼんやりとした視界を侵食するように。
陽炎の熱を持った、彼女が目に入った。
「そこのアナタ! 文芸部に入らない!?」
放課後の廊下に声が響いた。
単なる条件反射でそちらを向くと、廊下で誰かが部活の勧誘のためのビラを配っているようだった。
声を発したのは、その中でも優等生然としながらも、それとは不釣合いに目を輝かせている少女だった。
彼女は確か一緒のクラスだったと思ったが……名前が思い出せない。まあ、どうでもいいことだ。自分には関係ない。
彼女は手近な人間にビラを配りながら勧誘をしているようだ。さて、あまり近づきすぎると自分も彼女に勧誘されるぞと思った灯輝は、面倒なので、彼女の動きを視界に入れつつ回避することにした。
隠密行動は得意分野だ。
彼女は先ほど声をかけた相手と、なにかを話していた。相手は大人しそうな女子生徒で、文芸部という肩書きは似合っていそうに見えた。一応それらしい人を選んで勧誘をしているらしい。
ただ、声をかけられた女子生徒は困惑していた。かすかに聞こえてくる声と、唇の動きから、女子生徒は既に他の部活に入っている、ということがわかった。
じゃあ兼部でもいいから、とさらに言い寄る彼女に対し、女子生徒は首を横に振った。
(マンガ……アニメーション……研究会、と、文芸部は、歩み寄る、ことが、できない……、なんのこっちゃい)
灯輝には意味不明だったものの、女子生徒のその言葉は決定打だったらしい。彼女はがっくりとうなだれ、女子生徒は去った。
諍いは虚しいなあ、と灯輝はその背中を見て思った。
全部の物事を冷静に判断して、迷いなく実行すれば、そんな争いなんて、起きるわけがないのに。
まあ、それもどうでもいいことだね。
そう思って立ち去ろうとしたとき、彼女の身体から陽炎が立ち上ったように見えた。
それは目の錯覚だったとしても、彼女の中のなにかが、身体に収まりきれずに外に滲み出てきた、というのがわかった。
それは熱量を伴っていた。その感情の迸りを、あるいは情熱と呼ぶのかもしれない。
自分にはもはや関係のない感情だな、と灯輝は思った。
その程度の熱など、もはや雪に埋もれた心に届くわけがない。
凪いだ心で背景に同化して、通り過ぎようとしたとき。
「そこのあなた! 文芸部に入らない!?」
(……!?)
久しぶりに、ぎょっとした。
彼女が、真っ直ぐにこちらを見てきたからだ。
他にも廊下を歩いている人間はいる。なのに、なぜ自分なのか。
彼女はずんずんずん! とこちらに小走りでやってきて、がっ! とビラを差し出してきた。
「高校生活始まったばかり。なにかやりたいけど、なにをすればいいかわからない。そんなアナタにおすすめなのが文芸部よ!」
「……」
とりあえず、ビラは受け取る。なぜだろうか、紙一枚のくせに、小型の刃物を突きつけられたような気迫があった。
「文芸部は初心者でもOK。文章を書くのが苦手な人も、先輩やみんなが優しく教えちゃいます!」
「……」
これって、勧誘というんだろうか。
勧誘というより、新手のキャッチセールスじゃないだろうか。
灯輝にすらそう思わせるほどの迫力を有した彼女は、「む?」と眉をひそめた。
「あれ、なんか変だったかしら。さっきのが失敗しちゃったから、より情熱を傾けて行動したつもりだったんだけど」
「……ヒリヒリしそうなくらい伝わってるよ、その情熱は」
灯輝がそう言うと、彼女はぱあっと顔を輝かせた。
「じゃあ!」
「残念だけど、入部する気はないよ」
「えぇー」
心の底から残念そうな声を出す彼女。あまりにストレートな感情表現に、灯輝の心の中が、なぜかざわついて。
「きみは、ちょっと変わってるよね」
気がついたら、そんな言葉が口をついて出てきていた。
それに驚き、驚いた自分にも驚いた。
波紋が連鎖的に広がる。治めようとすると、余計に広がる。混乱する感情の中で、彼女の声が、よく聞こえた。
「うん、よく言われる」
悪びれず、彼女はニッと笑った。
その表情がなぜか、とても印象に残った。
ぼんやりとした世界に、いきなりクリアな色彩が入ってくる。
戸惑い続ける灯輝をよそに、彼女は続けた。
「でも、勧誘とか営業なんて、情熱があってナンボでしょ。
私、本読むの好きだから、自分でも書いてそれを伝えたいんだ。だから文芸部入ったの。
ねえねえ、一緒に文芸部入ってお話書こうよ。楽しいよ。
小説じゃなくてもいいんだよ。詩でも、俳句でも、なんでもいいんだよ」
「こ、断る」
「ううううう」
彼女が悔しげに唸る。これでようやく終わる、と灯輝が一息吐いたとき、彼女は呟いたのが聞こえた。本人は気づかない音量で言っているのだろうが、耳のいい灯輝には、どうしても聞こえてしまうのだ。
「せっかく、入ってくれそうな人見つけたのになあ……。自分を見失って疲れちゃってる人には、表現系の部活は最適だよ……」
これは聞き流せなかった。
自分を見失っている?
それに疲れている?
(なに、を……?)
ぐらりっ、と世界が揺れた。
白い世界が、崩れていく。
違う。
雪野の使命を果たすため、雪のような静かな心を持つことが、自分のやるべきことだ。
見失ってなんて、ない。
それが、自分のしたいことだ。
そうするように、課してきたことだ。
間違ってなんて、いない。
なのに。
それなのに、なぜ。
今自分は、こんなにも動揺している?
「わかったわよー。ま、いいか。先輩から勧誘してこいって言われたけど、考えてみれば、一人で気楽にやってくのもありかもしれないわねー……」
なにも言葉が出なくなった灯輝を残して、彼女は去ろうとした。
そして、ふと立ち止まって、こちらを向く。
「じゃあね、雪野君。また、教室で」
「……え? あ、うん」
自分は彼女の名前を知らない。彼女は自分の名前を知っている。
なぜだろう。
わからない。
彼女がいなくなった後、そこには醒めない熱気だけが残った。
思えばこれは、呪いであったのだろうと思う。
陽炎の呪い。
雪使いには天敵。
けれど、この世界を歩くのに。
それは確かに、必要な熱だった。
最初は名前も知ろうとしなかった彼女との、それが始まりだった。
西塚沙織と彼女がそういう名前だとわかったのは、次の日のことだった。
にしつかさおり、にしつかさおり、と口の中で呟いた。
そうしていると、灯輝の中で吹雪いていた天気が、なぜだか少し晴れるようになった。
そして久々に動けるようになったら、少し気分がよくなったように感じた。
なぜだろう。わからないけれど。
それからだんだんと、灯輝の中の雪原が、変化し始めた。
彼女を中心に、視界に色が増え。雪が、少しずつ溶けていった。
もう少し、遠くまで行ける気がした。
けれどもそれと反比例するように、雪野の力が小さくなっていくのがわかった。
それまで雪に覆われた世界しか知らなかった灯輝にとって、それは、とても、恐ろしいことだった。
それから灯輝は、彼女に深入りすることをやめることにした。
感情の制御を忘れないよう。
冷たさと白さは保ったままに。
彼女と接することにした。
文芸部に入ろうかなとちらりと思ったことは黙殺した。
彼女が自分のことを名前で呼ぶようになってからも、頑なに沙織を苗字で呼び続けている。
つかず離れず、適度な距離で。
それを保ち続けることにした。
当然ながら仙家探しにも、灯輝は真剣に付き合うつもりがない。
誰が幽霊部員になってまで原稿をあげているのかは知らないが、ずいぶんと凝った真似をするものだと、他人事のように思っていた。
でも。
(西塚、なんで今になって仙家さん探そうなんて思ったんだろうな?)
一年生の頃から存在を認知していたのに、なぜ今になってなのか。
なにか心境の変化があったのかもしれない。
そのへん突っ込んでみようかな、と暢気に考えていたとき。
灯輝を嘲笑うように世界が揺らめいて。
黒い影が視界の端に現れた。