炎の巫女
コウモリの攻撃が止んで、灯輝は必死に起き上がった。そこで、降り立った巫女の姿を見る。
灯輝もその姿を知っている。西塚沙織――サオルの物語に出てくる、登場人物。戦巫女ユウガオ。
ただ、その顔には見覚えがあった。
「西塚!?」
眼鏡がないので一瞬わからなかったが、そこにいる巫女服姿の女性は、西塚沙織と同じ顔をしていた。
「原作者自ら、オリジナルキャラクターのコスプレですか!?」
事態があまりに予想外で、思いついた馬鹿なことが、そのまま口に出てしまった。
だが本当に、こんなことはあり得ないはずだ。近くに膝をついていた仙家に問いかける。
「なんですかこれ。どういうこと!?」
「ぼくにもわかりませんが、ひょっとしたら――」
仙家の台詞を遮って、ユウガオ――いや、ここはサオルと呼ぶべきか。彼女は言い放った。
「私は、他人を求めたりしない」
『……』
男二人が揃って沈黙する。サオルはさらに続けた。
「私は、助けを求めたりしない」
「あの、西塚さん」
「私は、一人で生きていく」
灯輝が呼びかけたが、サオルはまるで聞く耳を持っていないようだった。表情の読み取れない顔で、彼女が右手をすっと挙げ、こちらに向ける。
「……まずい!?」
共に彼女の作品を読んでいる二人は、反射的にその場を飛びのいた。
間髪入れずサオルの放った炎が、空間を灼く。
逆方向に逃げた仙家が言う。彼の身体は、最初に会った時と同じくらい、不安定に揺らいでいた。
混乱する状況を少しでも整理しようと、仙家はあくまで予想ですが、と口にした。
「彼女が、というか、彼女の書いたノートに溜まっていた思念が。ぼくの言葉を否定するために、この場にある『意思を具現化する力』を逆手にとって、出てきたんじゃ、ない、でしょうか……」
「……」
女性は、人の悪口を聞き逃さない、という。
自分が助けを求めている、とか。
本当は寂しがりやなんだ、とか。
そういう言葉を。
「否定するためだけに、出てきたのでは、ないかと……」
「……意地っ張り」
だんだん自信がなくなってきたのか、小さくなってくる仙家の台詞を引き継いで、灯輝はボソリと言った。強がりもここまで来ると呆れ返るくらいだ。
しかし問題は、こちらが攻撃されている、ということであって。
そして先ほどの攻撃は、仙家だけでなく灯輝も対象に入っていた。とすると、ピンチに陥っていた灯輝を助けるために出てきた、というわけでもなさそうなのだ。
「……どうしよう」
「……あれ絶対、自分の弱みを知ってるやつの口を封じようって腹ですよね」
「……そうだと思う」
二人でコソコソと囁いて、ダラダラ汗をかく。目的のために手段を選ばないのは、むしろ沙織が本家本元だ。
そんなわけで。
「だあああああっ!?」
迫り来る炎を、なんとか避ける。冷気で防ごうとか、そういう手段を取ろうものならそれごと焼き尽くされそうな、容赦のない攻撃だった。先ほどの仙家のコウモリの柱にでも匹敵するような、力の入りようだ。
その仙家といえば、身体が透き通り、向こう側の景色が見えるくらいに薄い状態だ。
「さっき彼女が出てきたときに、ぼくの力を奪っていきましたからね。
ああもうまったく、幽霊はしょせん生者には敵わないってことですか!?」
忌々しい、と毒づいて、仙家は灯輝に言う。
「雪野さん」
「なんですか」
「あれ、倒しますよ。協力してください」
視線を沙織――サオルから外さぬまま、仙家は言った。
「あれは西塚さんであって西塚さんじゃない。言わば生霊です。倒したところで本人には影響がないはずです。たぶん」
「そこは、たぶんなのか……」
「うるさいですね、仮定でしか話せないんだから仕方ないでしょう。
とにかくあなたも知っている通り、彼女の武器は炎だ。それを鎮めることができれば、なんとかなるかもしれない。それには、ぼくよりあなたの力のほうが有効だ」
「僕結構ズタボロですけどね。誰かさんのせいで」
「それは今は置いといてください。なんとかしないと本当に死にますよ――二人とも!」
そこでまた、極大の火線が襲ってきた。必死で逃げ転げる。高出力が仇になっているのか、仙家のように炎自体が追尾して追ってくるようなことはない。だが、それでもいつまでもつか。
さっきから肌はちりちりしてきているし、なにより、直撃を受けた学校の木々が消し炭になっている。燃えている、ではない。一瞬で炭化だ。あれを受けてみようとは思わない。
方々は燃え盛り、完全な地獄絵図と化している。周囲は熱気があるのに、ゾッと背筋に寒いものが走った。すかさず仙家が煽ってくる。
「ああなりたくなかったら、やることです」
灯輝はサオルを見た。炎が揺らめいて、そこかしこの光源に照らし出される彼女の顔からは、あまり表情がうかがえない。本当に、あれは彼女であって彼女ではないのかもしれない。
仙家が苛立ちと焦りを滲ませて、選択を迫る。
「……雪野さん!」
自分の胸のうちに問いかける。戦えるか?
最近ずっと、落ち込んだままだった沙織。励ましの言葉も受け付けず、ただ虚飾で強がっていた彼女。
サオルに目をやる。
口元だけ、顔が見えた。その一瞬だけ、ぎゅっ、と口を引き結んだように見えた。
泣きそうになっていた、あのときと同じようにだ。
戦えるか? もう一度そう自問する。
そして、最初から決まっていた結論を出した。
「西塚とは、戦えない」
「あれは西塚さんじゃない。同じ顔をしてるだけだ!」
「そうでもないよ」
毎日彼女を見ていたから、わかる。
サオルは、強がって格好をつけていた、沙織と同じ印象なのだ。
ユウガオは沙織の願望だと、灯輝は思っていた。けれども、実はそうではなかったのだ。
描写がなかったからわからなかっただけで、ユウガオも実は、強がって意地を張っているだけだったのだ。
決して人に助けてと言えなかった彼女は。
自分の書く物語ですら、弱音を吐けなかった。
「主人公の性格を、読者にすら誤解させるなんてさ。それは小説としてありなのかね?」
そんなもの、叙述トリックですらありえない。
文章にしないなんて反則行為。
作品自体が、沙織そのもの。
目的のために、手段を選ばず。
読者を欺くことすら、厭わない。
ここまで突っ込んで、ようやくわかったようなものだ。
そう、あれは沙織なのだ。
戦巫女ユウガオはどこに行くのか。
最終回はまだ決まっていない、と、彼女が言っていたのを思い出す。
もしリクエストが叶うのなら。
いつか彼女に笑顔が戻る、そんな結末を読んでみたい。
◇◆◇
コツを掴んできたのか、サオルの攻撃は苛烈さを増してきた。今まで放ってくるだけだった炎の隙間に、小規模な爆発を混ぜてくるようになった。間近で打ち上げ花火を炸裂させているようなもので、衝撃を全身に受けながら、灯輝はぼやいた。
「本当に容赦ないよな……」
燃え盛る炎の向こう側で、仙家が叫ぶのが聞こえる。
「もう一度聞きます! 彼女と戦う気はありますか!?」
「ないよ、そんなもん!」
即答する灯輝に、あー、もう、と仙家が頭を抱えた。そして、やけくそ気味に怒鳴る。
「わかりましたよもう――勝手にしろ!」
仙家が黒く弾けた。彼は何匹かのコウモリになって、それぞればらばらの方向に向かって飛んでいく。
サオルはそれを逃がすまいと、何条もの炎を放った。大多数は炎にまかれて消滅したものの、一匹だけ、逃れて校舎に入っていくコウモリがいた。
「逃がさない」
サオルが追いかけようと、そちらに足を向ける。
灯輝はその前に立ちふさがった。
「やめときなよ、西塚」
「……邪魔するな」
そのやりとりの時間だけで、既に仙家は闇夜に消えていた。逃げ切れたようだ。
サオルが忌々しげに、こちらを睨んでくる。
そこからは拒絶の意志が、ありありと伝わってきた。
これは彼女が何度救いを求めても、誰も応じなかったことの、裏返しだ。
もう誰にも相手にもされないとわかったときの、周囲への最後の反抗だ。
ここまで沙織を追い詰めた責任の一端は、自分にもある。
つかず離れずなんて、随分適当なことをしたものだ。自分の未熟さに歯噛みしながらも、灯輝はサオルに話しかけた。
「西塚。もうやめよう。こんなことをしても、君がつらいだけだ」
「つらい?」
サオルが首を傾げる。
「お前らは私を責め苛む。だから私はお前らを殺す。それが普通だ。なにもつらいことはない」
うそつきだ。
本当にそう思っているのなら、そんな押し殺した声は出るはずがない。
踏み込む。
「僕は君を責めないよ」
「信用できない」
サオルが一歩下がる。警戒する動物のような動きだ、と灯輝は思った。
「信用しなくていいよ。ただ君と、少し話がしたい」
「甘んじて受け入れろと?」
応えるのは嘲笑。
「くだらない」
返事と共に送られたのは、火球。
叩きつけられた炎とその爆風に、退がらざるを得ない。
けれど、言葉は進み続ける。
「こんなことを続けて、君はどうなる!? ずっと一人で戦い続けて、君はそれからどうするんだ!?」
「なにも、残らない。それでいい」
叫んだ声に答える、乾いた声。
「人は一人で生きて、一人で勝手に死んでいく」
淡々と、原稿を読み上げているだけ、といった、響かない言葉だった。
「当然のことだ。気にすることはない」
「西塚!?」
「だから、おまえには、関係ない」
「関係ない、って」
「私は、一人だ。
最初から、最後まで、誰もいない。誰も要らない。誰も求めない!」
それを聞いて、灯輝は頭の中が力強くグラついたのを感じた。
いいこいつは加減意地を張りすぎじゃないのか。かっこよく決めているつもりかもしれないが、それは単なる自己満足に過ぎない。やってることと、思ってることがごちゃごちゃで、さっきまでの自分を見ているようで、腹が立って、イライラするのを抑えられない。なにやってるんだ。馬鹿じゃないか。こっちの気も知らず、いつまでも一人で抱え込んで、傍で見ているこっちの身にも、なりやがれ!
つまり、キレた。
「ふっざけんなあぁぁぁ!!」
気が付いたら、走り出していた。驚いた様子のサオルが立て続けに炎を放ってくるが、そんなものはどうでもいい。
「いつまでそんな、らしくないことやってるんだよ!?」
ムカつく。無性に腹が立つ。彼女の仮面のような表情が。
挑戦的に不敵に笑う、西塚沙織はどこに行った。
どんなときも目を輝かせて目標に万進する、西塚沙織はどこに行った!
心の赴くまま、ただ走る。
身体が軽い。
すり抜け、凍らせ、霧散させて。彼女に迫る。
踏み出せ。近づけ。もっと近くに――!
「来る、な……!?」
身を守るように腕を振るサオル。近づいて見れば、それは戦巫女ユウガオの姿ではない。ただの迷子のように、途方に暮れた彼女は。
沙織だ。
もう目の前だ。見間違えようもない。
ようやく見つけた。
腕を掴んで。
声を大にして。
叫んだ。
「君は一人じゃないんだ! 僕がここにいる!」
「……!?」
沙織は怯えたように後ずさりしようとした。しかし、逃がさない。
「君が一人を望んだとしても、僕が一人にしてやらない。君が僕を拒絶しても、僕は君を見捨てたりなんかしない!」
泣きそうな顔をした彼女を。
放っておきはしない。
「一人で苦しむくらいなら、僕にもその苦しみを分けろ! 知らないところで勝手に悩んで、勝手に納得して傷つき続けるのをただ見てるだけなんて、もう僕は嫌なんだよ!」
叫び続ける。熱い思いに突き動かされるように。
それは、彼女に教えてもらったことだ。
雪に埋もれて死ぬのを待っていた自分に、彼女が与えてくれた熱だ。
心を巡る、血のような強さだ。
「だからもう、一人で泣かないで。
いつか君に救われたように、今度は僕が君の力になる」
「力に、なる?」
繰り返す彼女はまだ、怯えを振り払えてはいなかった。
「だが……私の罪は、私が、償わなくては、ならない。
私は、私を、許さない。私は、私を、許せない……」
「知らないよ」
彼女の手を、ぎゅっと握る。
「僕が許すよ」
「――!」
うつむいていた彼女が、弾かれたように顔を上げた。
呆然と、呟く。
「私は……許されてもいいのか?」
「そうさ」
「私は……」
迷うように言葉が途切れ――
「……生きていても、いいのか?」
再び紡がれた言葉に、灯輝は笑って答える。
「もちろん!」
「……そうか」
サオルは肩から力を抜いて、そして、崩れ落ちた。
「そう、なのか……」
サオル――沙織は、泣きそうな顔で笑って、そして泣いた。
疲れ果てて眠っている彼女の目から、涙がひとつ、こぼれた。
◇◆◇
ありがとう、という呟きと共に、彼女の身体が透け始める。
それを見守っていると、彼女が言った。
「約束を」
「ん?」
彼女は灯輝の手をとった。そして自身の手を指きりの形にし――小指の先だけ触れる。
「こんな『私』を生み出してしまった『私』だが」
指が離れる。見上げるとそこには、いつものようにニッと笑った、彼女がいた。
「これからも、よろしくね」
火の粉がふわりと散って。
橙色の煌きが飛び、すっと消える。
光と熱が、眩しかった。
「これからもよろしくね、か……」
くすぐったい響きに微笑んで――そこが限界だった。
失血からの虚脱感で、灯輝は目の前が暗くなるのを感じた。意志とは無関係に、身体が傾く。
小指の先の熱だけを感じながら、灯輝は意識を失った。