半人前の叫び
「はぁ、はぁ、っぐ。はぁ……」
荒い息を吐きながら、沙織は戦い続けていた。
終わりなど見えない。初めから期待していない。
なんのために戦い続けるのかも、もうわからない。
ただ、目の前の敵が。
『いつまでもそこで、終わっていろ』
『いつまでもそこで、怯え続けろ』
「怯えてなんて……いない!」
気に食わないことばかり、囁き続けるから。
いつまでも。いつまでも。
こだまのように、苛む。
『安息の地など、おまえにはない』
『戦え。戦え。戦え。戦え』
「言われなく、てもっ……!」
右腕を振るう。炎の帯が影を薙ぎ払う。
左腕を突き出す。紅が爆発する。
「おまえなんか、おまえなんか、おまえなんか――」
なんでだろう。
戦っているのに。
悲鳴のような声しか出ない。
「死んじゃええええええぇぇぇぇっ!!!」
涙が、蒸発した。
◇◆◇
灯輝は雪が積もっていくのを感じながら、タイミングをはかっていた。
ただ動きを止めるだけでは、敵を倒せないとわかった。もう少し、隙を突くような形を入れられればいい。
積もれば積もるほど、灯輝が罠を張れる場所が増えていくことになる。それがわかったのかどうなのか、敵からの攻撃は苛烈さを増していた。
もはや闇色の壁が、四方八方から襲ってくるような状況になっている。いくつかのコウモリは灯輝に牙をつきたてようとしたが、身体に差し込んだ牙から凍り付いていった。
傷は増えるが、気にならない。
うっすらと白くなった地面を、滑るように駆け抜ける。むしろこのほうが走りやすいくらいだ。
敵は距離を取ろうとした。その動きを、霜柱を作って阻害する。雪が降っているおかげで、わざわざ地面に太刀で干渉しなくてもそのくらいはできる。
動きを止めた敵が、闇の柱を打ち出してきた。もはやコウモリの姿すらしていなかった。黒い波動の中には、無数の眼球だけが瞬いていた。
さすがにあれを食らってはただではすまないと判断する。避けて距離を取り、仕切りなおす。向こうはそれを狙っているのだろうが。
灯輝はむしろ、好機ととった。
走りこむスピードを変えず、ギリギリのタイミングで右に飛ぶ。避け切れなかった左腕から血が噴出したのは無視する。
攻撃を仕掛けた直後で、敵は一瞬だけ無防備になっていた。その隙を逃さず、灯輝はありったけの量のクナイを撃ちだした。その数は数千にも及んでいた。
真白い波のような攻撃が、迫る。
「――っ!?」
敵は慌ててコウモリを生み出し、盾にする。闇の壁が凍結して視界が塞がれた。
その隙に、灯輝は接近戦を仕掛けるべく一気に間合いを詰める。
地を這うように、低い姿勢で一直線に。
コウモリの壁が砕けたときには、敵の至近距離まで近づいていた。
氷の太刀を下段から、ノートを真っ二つにするべく切り上げ――
「温いと言ってる!」
一喝とともに生み出されたコウモリが、真正面から灯輝に襲い掛かった。灯輝の真白いマフラーを真っ黒に塗りつぶすように、影が殺到する。コウモリが過ぎ去った後には、ずたずたに切り裂かれた灯輝がいる――はず、だった。
「……っ!?」
そこにいたのは、ずたずたに切り裂かれた灯輝のマフラーと、ぼろぼろになった雪だるまだった。
予想外の展開に動きが止まった敵に。
灯輝は、太刀を振り下ろした。
◇◆◇
校舎の屋根を蹴って、灯輝は必殺の一撃を叩き込む。
ただ攻撃を仕掛けるだけでは、敵を討つことはできないだろう。そこで灯輝は一計を案じた。
ノートを狙うと見せかけて、それを庇う敵を討つ。
目くらましをし、フェイントをかけ、死角から攻撃する。
目論見通りに事は進み、最終工程に入っている。既に攻撃は必中の位置取りだ。これで詰んだ。
敵はどこから攻撃されたかもわからないまま、斬られることになる。そのままありったけの凍気を叩き込んで、コウモリたちと同じように消し去ればいい。
ただ、最後まで油断はしない。冷静に、冷血に、冷徹に。余計な雑念は持つだけ無駄だ。
敵はこちらを見ることもなかった。
ただ、今まで狙われていたはずのノートを、躊躇することなく掲げて、言った。
たった一言。
「ぼくが死んだら――西塚さんは悲しむでしょうね?」
(――)
一瞬。
それを聞いて、ほんのわずかに。
灯輝に、ためらいが生じた。
その自分の隙から、ただ一つの叫びが聞こえる。
(や、め、ろ!)
瞬間、今まで封じてきたはずの感情が爆発した。
同時に、様々な情景が脳裏を巡る。
ノートを広げて楽しそうにしていた彼女。
それを黙って眺めていた自分。
あなたが嫌いだと言い放った仙家。
傷ついても強がる彼女。
そうだ。
だからおまえは半人前なんだ――
一気に雪崩れてきた記憶に、仙家の頭上に振り下ろされるはずの剣先は、僅かに鈍った。
微妙な手元の狂いは、当初の狙いを外し。
ノートを掲げた左腕を、根元から切り飛ばすにとどまった。
それは致命傷というには及ばず。
続く仙家からの攻撃を受けて、灯輝は吹き飛ばされた。
◇◆◇
先がなくなった肩を押さえる。仙家は傷口を見やったが、そこには黒い靄があふれてくるだけだった。
醒めた目つきで、動く右手でノートを拾い上げる。たちまち、左腕は再生した。
吹き飛ばされた灯輝を見る。地面に叩きつけられた彼は、コウモリによってその場に縫いとめられていた。
危ないところだったが、もしものときにと思って考えていた手段が役に立った。
暴走状態の灯輝に通用するのかは疑問だったが、あそこまで追い詰められると、最後の手段としてこの切り札を使うしかなかった。分が悪い賭けには、どうやら勝てたようだ。
仙家は冷たい目で灯輝を見下ろした。
「あなたが甘ちゃんで助かりました」
「――っ!」
灯輝は歯をくいしばって仙家を睨みつけた。自分でも自分の失敗が信じられなかった。
「結局、情に流されましたか。冷血に徹し切れなかったとは、雪の申し子も堕ちたものです」
その通りだった。
覚悟を決めたはずなのに。
全部凍らすと決めたのに。
最後は結局、この様だ。
「手段を選ばずに、卑劣でもなんでもやったほうが勝つんですよ。望む未来を手に入れるために、手段を選んでいてはいけないんです。
西塚さんも、そう言っていませんでしたか?」
「西塚は……!」
反論しようとして、できなかった。
確かに沙織も、そういったところがある。
それ以上に、思い当たることがあった。
仙家に初めて会ったとき、誰かに似ていると思ったのだ。それは今名前の出た――
「気づいたようですね」
灯輝の様子を見た仙家が、乾いた笑顔を浮かべる。
「ぼくを生み出したのは、あなたともう一人。西塚沙織さんです」
仙家はそう言って、ノートをぎゅっと握った。
◇◆◇
「人前では強がっていますが、西塚さんはその実、他人を求めています」
それは知っていた。
沙織は自分だけで自分を支えようと、無理をしていた。
わかっていながら、なにもしなかった。
「知っていますか? 文芸部は二年生以外、部員が二人ずついるんですよ。
西塚さんの学年だけ、彼女一人です」
何度も、灯輝を部活に誘っていた。
「彼女は誰かに一緒にいてほしかった。その願いとあなたの思いが重なって生まれたのが、ぼくです」
仙家はノートをいとおしげに撫でる。
「彼女が他人を求めるたび、それはぼくの力になります。彼女が追い詰められて助けを求めるたび、それはぼくの力になります。
誰にも救われない。その彼女の地獄が、ぼくの力の源」
吐き気がしてきた。口を押さえることができなかったので、灯輝はせめて、言葉を吐き出す。
「それじゃ今回、あんたが強くなった理由は」
「最後の日記で、ぼくが西塚さんを傷つけたからですよ。だいぶショックだったようですね。ぼくの力は急に増した。それにあなたを呼び出すことができた。一石二鳥でした」
彼女はぼくを探していた。自分の無意識の願望を探していたんですよ。と、仙家。
「滑稽すぎて笑えてきますね。
まあ、一番滑稽なのは、こんなことをしながら生き延びようとする、ぼく自身ですけどね……」
最後は自嘲の言葉だった。だが、それをすぐに引っ込める。
仙家が改めて灯輝を見下した。
「少し、しゃべりすぎましたか。もう終わりにしましょう」
その言葉とともに、灯輝を押さえつけていたコウモリが、全身に噛み付いてきた。
まるで死体に群がるカラスのように、身体に牙をつき立てる。
血を、吸われる。
「――っ、が、あ」
生きながらにして体温を抜かれる苦痛。
それは沙織に会う前の自分に戻っていくような、冷たい感覚だった。
さきほどの無理に力を引き出していたときよりも、もっと暗く、寒い。
悲しくて、寂しい。
灯輝は歯をくいしばって、身をよじろうとした。だが自分にのしかかるコウモリたちが、それを許さなかった。
仙家は自分がようやく解放されると安堵したのか、穏やかな口調だった。
「暴れないでくださいよ……あなたはかつて、雪になりたいと思っていたじゃありませんか。冷たくなって消えてって、そう望んだじゃないですか。
申し訳ないことに、ぼくの場合は白でなくて真っ黒になるんですけど。
それでも結果は、大差ない……」
穏やかでもあるが、どこか疲れた口調だった。
そうだ、と灯輝は思った。
確かに僕は、そう思っていた。
消えてしまえばいいと思っていた。
心の中に真っ黒い雪が降って、灯輝の心を飲み込んでいく。
視界が暗くなっていく。
勝負に負けた。だから死ぬんだ。
雪野の隠密として生きてきた自分が、冷たく呟いた。
そうなのかな、そうかもしれない。
ぼんやりとそう思ったとき、灯輝の目に、仙家の持っているノートが目に入った。
黒く塗りつぶされていない、色のついた心から、声が上がる。
(西塚……)
ここで消えたら、彼女には二度と会えない。
ここで死ぬのか?
なにも言えないまま、なにも伝えられないまま。
それは。
それは、嫌だ。
雪野でない、忍でない。
それは、ただの少年の、叫びだった。
「西塚ぁっ! こんなところで死んでいる場合じゃない、僕はまだ、君に言いたいことが――っ!」
途中で胸を蹴られた。仙家はさらに肺を踏みつけてくる。苦しくて咳き込む灯輝に、幽霊は宣告した。
「……今更なにを。もう手遅れです。あなたはここで死ぬんです。恨むなら、心残りがある自分の生き方を恨みなさい」
暗く、囁く。
「死んでしまえ、死んでしまえ――ぼくなんて、死んでしまえ」
その声も、かなり聞き取りづらくなってきた。寒くて、暗くて、意識が途切れそうになる。
冷たくなって、消えていく。
そのとき、なぜか熱を感じた。
◇◆◇
「誰も……要らない」
囁きが聞こえる。
「助けなんて、要らない」
陽炎が立ち昇る。
呪いのように、逃れられない熱。
「みんな、死んじゃえ」
けれども、求めずにはいられない。
◇◆◇
突然、左手に感じた熱さに、仙家は驚いてそちらを見た。
そして、信じられないものを見た。
持っていたノートが、燃え始めていた。
(――っ!?)
慌ててそれを投げ捨てると、ノートはひらりと空中に舞い、空中に縫いとめられたように静止した。
炎が爆発するように燃え上がって、火の粉が飛び散る。
仙家が膝をつく。急激な脱力感が襲ってくる。灯輝を押さえていたコウモリが消滅し、身体が薄くなっていく。
抜けた力はノートが燃えている場所に集まり、強く渦巻いた。
強く強く中心に集まり。
弾けて煌く火の粉の中、一人の少女が舞い降りた。
彼は少女を知っていた。何度か見たことがある。
ただし、彼女の描いた絵の中で。
巫女服。炎。部誌のイラストにあったそのままで。それは。
「――戦巫女、ユウガオ」
沙織の作ったキャラクターが、圧倒的な存在感を持ってそこに立っていた。