絶対零度
泣き疲れて眠るのは、いつものことだ。
頬に涙の跡を残し、沙織はベッドに倒れ伏していた。
いつ眠ったのかもわからない。いつも気がつくのは朝で、重い頭を押さえながら起き上がる。
ただ、今日は夢をみていた。
夢の中で、沙織は戦巫女ユウガオになって、なにかと戦っていた。
相手は姿形がよくわからない。真っ暗な空間のなかで、炎を放つときだけ、暗い影が浮かび上がる。
どこにいるのかわからなければ、倒しようもない。ユウガオは――沙織は、周囲全てに炎を放ち、明るく照らし出そうとした。
けれども、乱反射した光から生まれた影は、ただ数を増やしただけだった。
前、後ろ。左右。どこからも、声が聞こえる。
『おまえは、おかしい』
『おまえは、間違っている』
『おまえは、いつまでも孤独』
『おまえは――』
「うるさいっ!!」
沙織は叫んで、全部を吹き飛ばした。
影はなくならない。さらに暗闇は増えていく。沙織を押しつぶすように。
『おまえのことを、誰も許さない』
『おまえのことを、誰も助けない』
「うる、さいッ……!」
そんなことは知っている。
痛いほど、よくわかっている。
だから一人で戦い続けているんだ。
折れそうな心を、必死に奮い立たせているんだ。
「消えろ! 消えろ!! おまえら、全部、消えろおぉぉぉぉッ!!」
いつまでも、いつまでも。
この力が尽きるまで。
戦い続けなければならない。
永久にだ。
◇◆◇
灯輝は高速でクナイを打ち出した。クナイは仙家の首から胴体にかけてを貫通し、校舎の壁に突き刺さった。
仙家の身体に開いた穴からは、当然のように血は出てこなかった。ただ真っ黒い霧の空間があるだけだった。
「……」
これで終わるとは思えない。これは自分が力を引き出すための、単なる時間稼ぎだ。灯輝は全身を冷気に落とし込みながら、集中した。吐く息が白く染まっていく。
仙家のほうは対して気にしていない様子で、傷を撫でた。瞬く間に穴は埋まった。ふむ、と首を傾げる。
「どうしました? もう終わりですか?」
「……」
やはり、大したダメージにはなっていない。そうなると前回のコウモリのときのように、無理矢理にでも力を引き出すしかない。
灯輝は集中の度合いを増した。細く長く気を吐くと、白くなってきた息が、凍り付いてきらきらと輝き始めた。
冷静に、冷血に、冷徹に。
情けはいらない。目の前全部、白く覆い尽くせばいい。
どんどん周囲の温度を下げていく。
すると、びきり、と灯輝の足元から音がした。
アスファルトを突き破って、霜柱が姿を覗かせていた。
まずい、と思う。あまりよくない兆候だ。冷気の制御が上手くいっていない。やはり、調子はよくないのは隠しようがない。
睫毛も凍り始めた。
今回は凛子もいない。自分がどうやって正気に戻るかは、とりあえず考えない。今は、目の前の脅威をどう凍てつかせるか。それだけに集中すればいい。
「その調子だとぼくを凍らせる前に、あなたが凍りつきそうですけどね」
仙家が言う。その通りだった。あまり長くは戦っていられない。
ただ、徒に焦っては滅びの道を歩む。勝利するためにはなにが必要か。その手段を探る。己はそれを実践するための駒に過ぎない。
そう。自分を道具のように扱えばいい。使えなければ意味がないのだ。
使えなければ、要らないと言われるのだから。
自分は道具でいい。そんなものだ。
そう、冷静になった頭で、仙家を倒すためにはどうすればいいかを考える。
仙家自身を前回の巨大コウモリのように凍らせることは、おそらく不可能。前回より力を増している上に、彼自身の力は、分身のコウモリよりはるかに強い。そしてそれを素直にやらせてくれるとも思えない。先ほどの様子だと飛び道具の類もあまり期待が持てなさそうだ。
ではどうするか。
――直接凍気を叩き込んで、心の芯から凍らせ砕く!
シンプルだが、当面の作戦はこれでいく。他に弱点が分かれば適宜織り交ぜて、撹乱しながら本体を狙う。
彼が操るコウモリをいくら倒したところで無駄だ。直接仙家を攻撃する。それが一番有効な手段だ。
仙家を殺すため、灯輝は踏み込んだ。
疾風のごとき勢いで仙家に迫る。駆け抜けたところには、花のように霜柱が散った。
氷の太刀を生み出し、横薙ぎに振るう。仙家はしかしこれをかわし、避けざまに生み出したコウモリの群れを放ってきた。返す刀で切り伏せ、斬撃と共に作り出したクナイで残りを迎撃する。
その間に距離をとった仙家が、また黒色の塊を放つ。ただし、密度は先程の倍以上ある。当然だろう。仙家にしてみれば、近距離だろうが遠距離だろうが灯輝を倒せれば勝ちなのだ。わざわざリスクのある接近戦で挑むことはない。
また、灯輝にはあまり時間もない。このまま手数の多さで押し切られるか、自らの力で自滅するか。
向かい来るコウモリを切り飛ばし、貫く。捌ききれなかった一体が、灯輝の左腕を掠めていく。血が出てきたが大したことはない。すぐに凍って止まる。そのコウモリも灯輝の身体から発せられる冷気で砕け散った。
足りない――と、灯輝は思う。
こんなものじゃ足りない。もっと力を。もっと冷たく。
もっと、もっとだ。
髪の毛の先も白く凍り始めている。今灯輝の身体で熱い部分は、戦いでの吐息が当たる、口元のマフラーの部分だけだ。
暴風のように迫り来る闇に、太刀を振るう。それを繰り返しているうちに、その場は灯輝の足跡で霜柱だらけになっていた。
コウモリの向こうで、仙家が叫ぶ。
「防戦一方でどうしました!? 捌いてばかりじゃ僕を倒せませんよ!?」
その通りだった。細かい傷と疲労が蓄積すれば、そのうち致命的な一撃を受けかねない。
しかし、既に手は打ってある。灯輝は太刀を地面に向け、そのまま突き刺した。そこにあった霜柱が、さくりと軽い音をたてて割れ折れた。
その動作に、仙家が訝しげに眉をひそめる。なにをするのか警戒していると、どん、と地面が揺れた。
アスファルトの地面が震えている。まさか地震か、と考えるが違う。雪野の力では、地震を起こすことなどできない。
ではなんなのか、というと――
その考えに至ったときには、もう遅かった。
灯輝の足跡として刻まれていた霜柱は急速に成長し、身の丈ほどの大きさになって仙家を取り囲んでいた。
今まで逃げ回っていたのは、この檻を作るための布石だったのだ。仙家は自分の足元から伸びる霜柱に挟まれていた。斜めに伸びたものもあり、うまく霜柱同士が噛み合って、動きが押さえつけられる。
試しにコウモリになって間をすり抜けようとするも、霜柱が発する力が邪魔してうまく変化できない。
灯輝が太刀を構えて走りこんできた。このままだったらその一撃をまともに受けてしまう。
だが――
「まだまだ、温いです」
その発言とともに爆発的に発生したコウモリが、内側から檻を食い破った。
灯輝の一撃を紙一重で避け、また距離を取る。
霜柱の残骸の傍で立ち尽くす灯輝に、挑発するように言葉をかけた。
「惜しかったですね、自分の不調すら罠を張るために利用するなんて、なかなか手段を選んでいない感じでぼくは好きですが――」
そこで、仙家は言葉を切った。ゆらりとこちらを見てきた灯輝と、目が合ったからだ。
いや、目が合った、とは言えないかもしれない。
灯輝の目は焦点がはるか遠くに結ばれているようで、既に仙家を見ていないように思えた。むしろ、瞳孔が開いているのではないかとすら思わせる。瞬きもしていないのではないか。そんな虚ろな目だった。
これは、自分を超える闇なのではないか。ぞっとする感覚に一瞬飲まれた仙家だったが、違う、と自分に言い聞かせる。あれは暴走寸前だ。いずれ彼自身が凍り付いて終わる。
あとはその空っぽの精神を、乗っ取ってしまえばいいだけだ。
それに。
「気に食わないですね……」
仙家がぼそりと呟いた。
「最初に会って西塚さんの話をしたときと同じ、『僕は関係ないんですけど、なんとかしてもらえませんかね』みたいなその顔。
距離を取って彼女と接する? 適当に誤魔化してください? そんな馬鹿みたいな話を自分に課したせいで、ぼくは生み出されて学校をさまよう羽目になったんだ。
この期に及んでそんな表情のあなたが――本当に、むかつく」
ゆらり、と漆黒の霧が仙家の身体から立ち上った。
◇◆◇
先ほどの一撃は外した。だがわかったことがある。
灯輝は仙家に向き直りながら、次の攻撃の手段を練っていた。
仙家――という名前だったか。敵の名前など、もはやどうでもよかった。倒せば皆、揃って雪の下だ。
そんなものより、敵を屠るための手段が重要だ。
太刀での攻撃をかわしたとき、無意識になのかそうでないのか、敵はわずかに、持っているノートを庇う素振りを見せた。
あれは彼にとって大切なものであるらしい。それを守るためには、ある程度自分の身を危険にさらすこともあるかもしれない。
敵はなんらかの作用で、あのノートから力を得ているかもしれない。それもあるだろう。あれを潰すことは、この戦いにおいて有効だ。もしくはそれを利用すればいい。
いつか誰かが、あのノートを嬉しそうに開いていたような気もするが、よくわからない。吹雪のようなノイズがかかってよく思い出せない。
そうだ。思い出せないというのなら、大したことではあるまい。
灯輝はノートに狙いを定めた。
仙家は、灯輝の攻撃パターンが変わったのを感じた。
今までは顔や胴体を中心に攻撃がきていたのだが、今はそれが少しずれている。身体の中心から少しずれたところ、そこは――
(――このノートを、狙っているのか)
牽制で飛んできたクナイの束は、そこを中心に展開されていた。
確かに前回と違って、今回はこのノートからかなりの力を得ている。これの有無によっては、かなり戦いの行方は左右されるだろう。
仙家はノートをしっかり持ち直して、灯輝を迎え撃った。
いつの間にか、雪がちらつきだしていた。
戦闘シーンは苦手です。が、やらねばならぬときもある。