入部の動機
以前と同じように、自転車を学校の柵に繋ぐ。
暗闇に包まれた学校を、灯輝は見上げた。
昼間、泣きそうな顔をしていた沙織のことを思い浮かべる。ひどく落ち込んでいる彼女に言った言葉は、拒絶されてしまった。
ならば。
「忍は忍らしく、影から状況を良くしよう、なんてね」
灯輝は苦笑いして、その口元を隠すように白いマフラーをずり上げた。
柵を乗り越えて、着地する。正面玄関に向かった。
そこは仙家と初めて会った場所だ。
前回とは違って、今夜は曇っていた。闇が濃い。
呼びかける。
「仙家さん、いるんだろ? 出てきてくれよ」
それに応えて、仙家が出現した。暗い闇が集まって、それが幽霊の形を取る。
無表情にこちらを見つめる彼は、以前よりしっかりとした輪郭を持っていた。身体の揺らぎが感じられない。
それに不自然さを感じていると、仙家が挨拶してきた。
「こんばんは、雪野さん」
「こんばんは」
「ほの暗くて、いい夜ですね」
闇に紛れるぼくとあなたに、ぴったりの夜です。
にこりともせず仙家は言った。
そんな彼に、灯輝はここ数日考えていたことを口にした。
「仙家さん。僕は今日、お願いがあって来ました」
「お願いというと?」
「西塚沙織さんのことです。その、ノートに」
仙家が左脇に抱えるノートを指差す。
「そのノートに、返事を書いてもらいたいんです」
「これですね」
仙家はノートを指で撫でた。そっと手に添えて丁寧に扱う様子からは、あの書き込みのような乱暴な様子はなかった。
その動作にちぐはぐさを感じつつも、灯輝は続ける。
「怒った理由でも、なんでも、書けることを書いてくれればいい。突然あなたからの発信が途絶えたことに、彼女はショックを受けています」
「……」
「建前じゃなくて本当に思ったことを書いてもらえればいいんです。それを彼女は望んでいるはず――」
「健気ですねぇ」
灯輝の台詞を遮って、仙家は言った。無表情は崩れ、抑えきれない失笑をにじませている。
「こんな夜中に、わざわざ幽霊に会いに来る理由がそれですか。それでぼくがなにかしら書いて、彼女が喜んで、彼女はそれがあなたのおかげだと知らなくてもそれでいい、と? 見返りを求めない、無償の愛ですか。美しいですね。
まあぼくは、返事なんて書きませんけど」
「仙家さん、あなたは――」
「ぼくは『卒業』したいんですよ」
仙家はもう、聞く耳を持っていないようだった。
「あなたがお願いするというのなら、ぼくのお願いも聞いてくれませんか? それがお互いのためになる」
「お願い……?」
灯輝が訝しげな顔をすると、仙家は口を三日月の形に吊り上げた。
「雪野さん、彼女のためを思うなら、ぼくに食われてくれませんかね?」
しかし、目は笑っていなかった。
◇◆◇
首筋に寒気を感じた。強制的に、警戒レベルが最高まで引き上げられる。
「……と、いうと」
「幽霊が身体をくださいというのは、それはもう、取り憑かせてくれということですよ」
仙家は、冗談を言っている風ではなかった。灯輝はいつでも動けるように、身体の重心を低く取った。
「嫌だと言ったら?」
「それはもちろん――力ずくでも」
仙家の周囲から、大量のコウモリが湧き出してきた。
予想をしていないわけではなかった。むしろその方が、自然な流れだと思う。
「このあいだ戦った、あのコウモリは」
「そう。ぼくです」
悪びれる様子もなく、仙家は言った。
「最初から全部ぼくの仕業ですよ。西塚さんに攻撃を仕掛ければ、必ずあなたはやってくるでしょう。まあ前回は天野先輩まで来たので全部ご破算になった上、妙な芝居まで打たなくてはなりましたけどね」
仙家の周りは、次々と生み出されるコウモリで真っ黒に塗りつぶされていた。闇の中から爛々と輝く目だけが、こちらを見据えている。
「もうだめかと思いましたが、西塚さんがノートを出してきたのは渡りに船でした。おかげで前回よりやりやすい状況を作り出すことができました。
知ってますよ――雪野さん、最近調子が悪いですよね?」
返事はしなかった。仙家もわかっているのだろう、特に確認する素振りは見せなかった。
「うらやましかったでしょ? 西塚さんが嬉しそうで。雪使いも難儀なものですね。悩み事があると力が減退するなんて」
嬲るような物言いに、しかし灯輝は冷静になるよう努めた。相手は前回もてこずったのだ。この状態で挑むのならば、以前よりさらに――雪に埋もれなければならないだろう。
戦う構えを見せた灯輝へ、仙家は不敵に笑った。
「孤独を失った無様な雪使いが、ぼくに勝てるとでも?」
「……勝たなきゃ、死ぬからね」
冷たい汗が背を伝う。少しでも心を落ち着ける。
「させませんよ」
闇が触手を伸ばすように、コウモリが灯輝に襲い掛かった。
◇◆◇
視界いっぱいのコウモリの群れが迫る。
口の中の牙が見えるくらいの紙一重でかわし、距離を取った。
(前に戦ったときより、攻撃の速度が増している……?)
仙家がより強く実体化しているのは、それだけ力も増しているということだろう。なんらかの手段で増強をしているのだ。
前回からなにか変わった点があるとすると。
灯輝の目に、仙家が左脇に抱えたノートが目に入った。
(あれか……?)
どういう方法でパワーアップしているのかはわからないが、あのノートを奪う必要があるかもしれない。
とりあえず今は、目の前の攻撃に対処する。追いかけてくるコウモリたちに、ありったけのクナイを放つ。コウモリたちは自分たちの勢いのままぶつかり、凍り付いて霧散した。
第一陣は退けた。だが前回のことがあるので、全方位への警戒は怠らない。
「コウモリって、ぼくに合ってると思うんですよね」
仙家が言う。
「夜しか行動できなくて、あっちへフラフラこっちへフラフラして。ほんと、ぼくみたいですよ」
「……あなたは結構、自分の意思を貫いているように見えますけどね」
皮肉ではなく、本当にそう思う。下手な人間より、生きている感じがずっとする。殺されそうなほどに。
仙家は幸いにも、褒め言葉と受け取ったらしい。少しだけ笑った。
「そうなるよう努力はしているんですよ。
だから、学校に這入ってきたコウモリを――『食べ』ました」
「……」
いっそうその笑みが、不気味に見える。一瞬その光景を想像してしまって、吐き気を催した。
「よく馴染みます。食事って大事なんですね――生まれてこの方、食事らしい食事を、それまでしたことがなかったので。
そこでぼくは、自分に食事の能力があることを知りました」
一生気付かなくてよかったんだ、そんなものは。そんな灯輝の思いをよそに、仙家は続ける。
「そして思いました。これで、ぼくは身体を得ることができるんじゃないかと。そうしたらここを出ることができて、『卒業』できるんじゃないかと」
「……なるほどね」
それがノートに書いてあった『卒業』の意味か。
一応、話の流れはわかる。ただしかし、それは灯輝の命と引き換えだ。
「しょうがないですよね、ぼくが生きる為ですから。しょうがないですよね。ぼくはこうでもしなければ、卒業すらもままならないんですから――」
そして、右腕を振り下ろす。
(――っ!)
とっさに飛びのく。頭上から滝のように雪崩れ落ちた黒い影が、すぐ右を通過していった。
もはや柱と化した影は、砕け散るのも厭わない勢いで地面にぶち当たった。急旋回して灯輝を追いかけようとするコウモリが、上から来たコウモリに押しつぶされる。それらは恨めしげに灯輝を見て、消えていった。
「……」
自分を傷つけることも構わないといった攻撃に、言葉を失う。彼は、そうまでして。
「なんで……」
「なんですか?」
「なんで、僕なんだ?」
そうまでして自分に固執する理由が思い当たらなかった。身を守ることに躊躇はないが、戦うことにはまだ抵抗がある。できれば。
「それを聞いてどうしますか。まさかいまさら話し合いで解決しようとでも?」
「できれば、そうしたい」
提案を、鼻で笑われた。
「そんなことだから、あなた弱くなったんですよ。ぼくは、あなたを殺そうとしているんだ。そんな相手を、話し合いで解決する? なに言ってるんですかあなた。雪野の忍びというのはそんなものなんですか?
冷静に。冷血に。冷徹に。
それがあなたたちの行動理念なんでしょう?
本当に温いですね、天野先輩が言ったとおりだ。おかしくて笑えてきますよ」
「今の僕は、そう言われても仕方ない。
けれど仙家さん、あなたの挑発に乗るつもりもない」
「……」
ぴたり、と仙家の笑いが止まった。なるほど、と呟く。
「それなりにまだ冷静ではあるようですね。
いいでしょう、答えますよ。食べられてもらうために」
その瞳に、静かなる怒気を込めて仙家は言う。
「ぼくがあなたを狙った理由は、簡単です。
ぼくがあなたによって生み出されたからですよ」
◇◆◇
「え?」
思わずそんな声が漏れた。聞いていた話と違う。
「あなたは、この学校の生徒の無意識の塊、だって……」
凛子の言うことだ。間違いはあるまい。仙家もうなずいて、
「確かに、そうです」
ですが、と続けた。
「そんな漂うだけの意識が、文芸部に入って原稿を書いて、なんて志向性を持つと思いますか?」
「……」
そうだ。そんな曖昧なものが、特定の部活に入ろうとすることなど、おかしな話だ。しかもよりによって、文化系でもかなりマイナーな、文芸部ときた。
仙家が文芸部に入ったのは、四月の終わり。
灯輝と沙織が出会った頃――
「そう。ぼくが文芸部に入ったのは、あなたがそれを望んでいたから、です」
「……な、ん」
混乱する灯輝に、仙家は言いつのる。
「あなたが元から、天野に連なる力を持っていたことも、要因のひとつではあるでしょう。
しかしそれ以上に、あなたは強く思ったはずだ。彼女と一緒にいたい、と」
「……そんな」
「ぼくという幽霊の最初の行動は、それです。天野先輩の力では、ただここを漂うだけだったぼくが、はっきりとした意志を伴って、具現化したんですよ」
「……」
絶句する。沙織は以前、灯輝が仙家だと疑いをかけたことがあったが、ある意味それは正解だったのだ。
「具現化したとは言っても、しょせんは幽霊。昼間はほとんど見えないようなものですし、話しかけても誰も答えてくれませんよ。
誰もいない真っ暗な校舎で、毎日毎日、一人でふらふらし続けました。昼間の文芸部の楽しそうなやりとりを、ただ眺めていることしかできませんでした。
ぼくにできるのは、夜中に書いた原稿を、こっそり置いてくることだけでした。
あれは、ぼくの生存証明でした」
誰よりも熱心に原稿をあげてくるのも当然だ。
誰にも気づかれない彼が、唯一他人に伝えられる言葉だったのだから。
言葉ひとつひとつに圧迫感を感じる。言葉ですら、仙家は灯輝を殺そうとしている。
「あなたである理由は二つ。ぼくを生み出した人間なら、他人に取り憑くより成功しやすいだろう、というのと。意志を具現化する雪野の力があれば、ぼくの生きたいという意思が、ぼくを生き延びさせることができるのではないか、という一縷の希望」
「……じゃあ、今になって行動を起こしたのは」
「天野先輩が三年生になって、ぼくは思いました。先輩が卒業したら、もしかしたらぼくは消えてしまうのではないかと」
灯輝が方向性を作ったとはいえ、土台を作ったのは凛子である。その可能性は低いとは言えなかった。
「ぼくは、ここから出たいんですよ」
遠くを見ながら、仙家は言う。
「卒業して。学校を出て。知らない世界を知りたい。なにも知らないまま、こんな、誰にも気づかれないまま、真っ暗な場所で、消えたくないんです。こんな」
ぐしゃ、と仙家の表情が歪む。
「こんな、こんな、ところから。早く出たい。もういやだ――」
搾り出すように仙家は言った。彼からしてみれば、沙織のおみやげは皮肉にしか思えなかったのだろう。たとえ、事情を知らなかったとしても。
長い語りを終え、仙家はまた、冷たい表情に戻った。
「そんなところです……どうですか、ぼくに食われてくれる気になりましたか?」
一瞬だけ、それもいいかな、と思った。
迷ってばかりで弱った自分より、仙家の強い願いを優先したほうがいいのではないか、と思った。
けれど。
それは、自分の思いを仙家に押し付けて、逃げることに他ならないのだ。
負けそうになる心を凍らせて、灯輝は言った。
「今の話を聞いて、逆に――あなたは、僕の手で消してやらなければならないと思った」
「ああ、いいですよ。それでこそ、殺し甲斐があるというものです。
――生きていると、実感できますよ」
仙家はその返事を歓迎するように笑って、両腕を広げた。