拒絶
少々鬱展開になりますので、苦手な方は心の準備をしてお進みください。
「はいこれ」
そう言って、沙織は小さな紙包みを差し出してきた。
灯輝がそれを開けると、中から出てきたのは雪うさぎのストラップだった。
「おみやげよ」
リン、と小さな鈴が音をたてる。ありがとう、と言って灯輝は大事にそれをしまった。帰ったら携帯に付けよう、と思う。
連休明けの学校は、早くも五月病のだるい雰囲気に包まれていた。灯輝も、結局どこにも出かけないでただまんじりと過ごしていたので、テンションは低い。
そんな中、沙織は相変わらず燃えるように元気だった。
よほど家族旅行が楽しかったのかな、と灯輝は思った。訊いてみる。
「西塚、旅行はどうだったの?」
「家族旅行としては最悪だったわね!」
「え!?」
やたら楽しそうなのも相まって、耳を疑う発言だった。「まあ、いろいろあったのよ」と沙織は言った。
「ホテルのウエイターさんがすごくいい人だったり」
「はあ」
「泊まっていたホテルが、火事になったり」
「はぁ!?」
耳を疑う発言その二だった。
「大丈夫だったの、それ!?」
「平気平気。この通りなにもなく。無事よ」
あの後、なんとか火は消し止められ、沙織たちはホテルの別の部屋に泊まることになった。
過ぎてしまえば、あれもちょっと刺激的な思い出よね、と沙織は思う。まあそれも、収穫があったからこそではあるが。
「むしろ、戦巫女ユウガオ戦記の、描写の参考にもなったわ」
「西塚、たくましすぎる……」
「そんなわけで、ちょっと書いてみたの。参考に読んでみて」
「え、いいの?」
「いいの。読んで感想を聞かせて」
そう言って沙織は、数枚の紙束を差し出した。灯輝は受け取って目を走らせる。
◇◆◇
幸せな幻影は炎の中に掻き消えた。ユウガオは炎が渦巻く中、眼を開けた。
笑いあっていた家族は蜃気楼のように揺らいだ。それは自らを幻だと証明するように、火炎にまみれても笑顔のままだった。
その場にいた幻影使いが、目を剥いてユウガオに叫ぶ。
「貴様、正気か……!? 自分の家族に、幻影とはいえ火を放つなど!?」
「……正気?」
ユウガオはわずかに首を傾げた。ちらりと幻影たちを見る。旅に出る前、一緒に暮らしていた人たち。父、母、兄弟たち。
すぐに視線を戻して、男に言う。
「だからどうした?」
「なに?」
「彼らは私が燃やした」
男が眉をひそめる。人に幻影を与えて殺してきた男も、人の情というのがまだ残っていたのだろうか。
「私におまえの術は通用しない」
煌々と燃え盛る炎の中にあって、しかしユウガオの表情には熱がない。
「覚悟するがいい」
全てを無視して、ユウガオは容赦なく、男に炎の柱を打ち出した。
◇◆◇
「……相変わらず、容赦ないストーリーだよね、戦巫女ユウガオ戦記」
「そうでしょ」
「そこは、胸を張るところなんだ……」
頬を引きつらせながら原稿を返す。沙織は興奮気味に言う。
「これから起こるバトルは、炎ガンガンの熱々のバリバリよ!」
「通った後には灰すら残らないね……」
ぼそりと突っ込みつつも、沙織は楽しそうだった。それを見て、まあいいかな、とも思う。そんな楽しそうな割にはなんというか、家族に対する恨みのようなものがあるような気がするが。まあいいか。
「色々見て回ったけど、話の参考になるっていう点だと、初日に行った滝もよかったわよ。さんずいで竜、合わせて滝、とは昔の人は考えたもんだわー」
言いながら沙織は、鞄からその滝のお土産だろう、ポストカードを取り出した。
「家族旅行というか、取材旅行だったんだね」
「人生日々之勉強ね」
そしてそのポストカードを、鳥の絵の描いてあるノートに挟んだ。
「そしてこれは、仙家くんへのお土産」
「……そう」
◇◆◇
5月6日 あめ
仙家くんへ
ゴールデンウィークに、旅行に行ってきました。
これはそのお土産です。この滝を見てきました。いつか自分の書く話にも、滝の描写を登場させようかなと思っています。
仙家くんは、どこか出かけてそういう風に思った場所はありますか?
そもそも、ここから出かけるなんてことが。
「……できるわけ、ないでしょう」
文面とポストカードを見つめながら、仙家はぽつりと呟いた。
真夜中の文芸部部室。窓の外ではさらさらと、細かな雨が降っていた。
普段なら、静寂を彩る僅かなその音が心地よく感じるはずだったが。
「……」
それは雑音になって、自分の心を乱しているようにも感じ取れた。
ポストカードを見る。岩場から萌え出る草木たち。勢いよく流れ落ちる水のしぶき。
生命そのものといったそれらが見て取れるそれを、幽霊はじっと見つめた。
その瞳に映るのは、憧憬と、嫉妬と、そして――
そのまま彼は、ノートに書き込みを始めた。
◇◆◇
窓の外では雨が降っていた。
ざわざわと、春の嵐が鳴っている。灯輝は教室から、ベランダの手すりに滴る雫をじっと見つめた。
(……。……五秒)
少し前なら、一秒とかからず凍らせることができた。調子が悪いのはわかっていたが、改めて数字として突きつけられるとやはりへこむ。
「どうすればいいっていうんだ……」
天気同様どんよりした気持ちでいると、教室に沙織が入ってきた。部室から取ってきたノートを広げて、いつもだったら嬉しそうに書き込みを見るはずが。
「はあ……」
暗い面持ちでため息をついている。
え、なにあれ、と灯輝はひとまず自分のことはさておいて、沙織に話しかけた。
「西塚? どうしたの?」
無言でノートを突き出された。
そこには、ひどく短い文があった。
西塚さんへ
これはぼくには不要なものです。
お返しします。
その言葉がなにかの冗談ではないことを証明するかのように、おみやげのポストカードはノートに挟まったまま、残されていた。
「私、なにか怒らせるようなこと書いたかな……?」
沙織が言う。
仙家正文が怒っている?
(あいつ……)
どういうつもりだ、と灯輝は歯噛みした。仙家は確かに地縛霊のようなもので、この学校から出られないのかもしれないが、だからといってこんな八つ当たりのようなことをしなくてもよいのではないか。
沙織はなにも知らないのだ。なのに、そんなにも。
そんなにも。
自分は行けない外の世界を見せられるのが、我慢ならないのか?
生きていないからこそ、生々しい感情が。
彼の中に渦巻いているのだろうか?
ふいに灯輝は、仙家が見せた冷たい眼差しを思い出した。
滑稽だ、と彼は言っていた。
あのとき、仙家は確かに怒っていた。
「なんでなんだろう……」
沙織がノートを見ながら、しょんぼりと言った。
「なんでかわかんなきゃ、謝っても意味がないよ……」
沙織は仙家との交流を、口では悪し様に言いつつも楽しんでいた。
順調に行っていたところを突如として突き放され、沙織はひどく落ち込んでいるようだった。
交換ノートを快く思っていなかった灯輝も、さすがにその姿を見て喜ぶような気持ちにはなれない。沙織に言う。
「ま、まああれだよ。そんなに落ち込むことないよ。きっと」
ああ、意外に僕もちょっと混乱しているぞ、と自分でも思う。
「西塚はただ、普通のことをしただけじゃないか。おみやげ買ってくるとか、気を遣っただけじゃないか。そんなふうに気を悪くすること、ないよ」
ぱたぱたと手を振る灯輝を見て、沙織が苦笑いする。
「ありがと。そう言ってもらえると、ちょっと気が楽になるかな」
「仙家さんに、なんで受け取らなかったか訊いてみようよ。さすがにこれは、あんまりだ」
「そうね。その理由からも、仙家くんに繋がるヒントがあるかもしれないし」
沙織は少し調子を取り戻してきたようで、ノートを広げて書き込みを始めた。
その様子に、灯輝はひとまずほっとした。
◇◆◇
それから数日、仙家からはなんの返答もなかった。
「……」
落ち込んだ沙織に、かける言葉が見つからない。
気まずい沈黙を破って先に口を開いたのは、意外にも彼女のほうだった。
「小学校のときなんだけどさ」
「うん」
「ケンカして、今でも仲直りできてない子がいてさ」
「うん」
「……なんかそれ、思い出したわ」
「……そう」
「たぶん私、生意気だったんだろうね」
「そうかな」
「そうよ」
沙織は、そこでふっと笑った。さみしそうな、疲れた笑いだった。
「ま、いいわ。よくわからないけど、嫌われちゃった。これで終わり。諦める。
元々幽霊部員だった仙家くんがいなくなったとしても、ずっと私は一人だったんだもの。大して今までと変わりはないわ」
そんなふうに、強がってみせる。
そうだ。前に戻るだけなのだ。
ずっと一人だったのだ。誰にも頼らないでやってきたのだ。それに戻るだけだ。
それでいいんだ。
はは、と乾いた笑いが口から漏れた。なんだ、簡単なことじゃないか。
そう思って沙織はこの話を終わりにしようとした。いつまでも落ち込んでいては、昔のことを思い出す。
思い出したくもない、あのときの記憶を思い出す。
「うん。じゃあこの話は忘れて」
「忘れてって、そんな……」
「いいの。忘れて」
頑なに、拒絶する。
もういいのだ、もういいのだ、と自分に言い聞かせる。
そんなことをしていたら、灯輝が声をかけてきた。
「西塚さ、無理してない?」
諦めかけていた自分が、崩れそうになる。
息が詰まって、涙がこぼれそうになった。
でも我慢した。
「無理なんか、してないわよ」
「……」
声が震えないようにするのには、とりあえず成功していた。
成功していたはずなのに、灯輝の表情は曇る一方だった。
「私はいつだって一人でやってきた。今までも、これからもそう」
そうだ。一人でなんでも解決してきた。他人には頼らない。
それが西塚沙織だ。
そうでないとするならば、あのときのしたことを。
間違いだと認めることになる。
「無理してない。いつも通りよ。心配してくれてありがとね灯輝。気持ちだけ受け取っておくわ」
そう言ったときに、始業のチャイムが鳴った。沙織は教科書を机の上に出した。この話は終わり、と無言で主張する。
灯輝はまだなにか言いたそうにしていたが、教師が入ってきたので、渋々自分の席に戻っていった。
それでいい。
◇◆◇
まあ、よくある話だと思うが。
小学校のときに、私はいじめにあっていました。
ふう、と沙織は独白する。
「灯輝には、ケンカした、なんて言ったけどね」
現実はケンカ、なんて生易しいものではなかったわけだが。
なくなった家の鍵が男子トイレで見つかるわ、書いた習字には落書きされるわ、話しかければ気味悪がられるわ、そんな風なことが日常だった。
いつも一人で過ごしていた。
誰にも相談できなかった。
家に帰ると、母がテレビを観ながら大笑いしていた。アハハアハハ、と大口を開けて、大して面白くもない番組を観て馬鹿みたいに騒いでいる人間に、相談する気には到底なれなかった。
父親は学校の話をしようとするのをさえぎって、自分の学生時代の思い出話を始めた。お父さんは野球部の先輩のしごきが面白くなくて辞めてやったんだ。と父は言った。うん、それ要するに負けちゃったんだよねお父さん? と子供心に思った。
弟はまだ小さかった。自分が守ってやらなければと思った。相談など、できるはずがなかった。
だから、一人で考えた。
さらにエスカレートしてきたいじめを止めさせるには、どうしたらいいか?
考えて考えて、思いついた。
クラスのいじめのリーダー格の女子生徒がいる。沙織はその女子生徒の、取り巻きの女の子の裁縫箱から縫い針を一本くすねた。
それを、リーダー格の女子生徒のランドセルに、しかけた。
背負ったときに肩に刺さるように、思い切り突き刺した。
もちろん、クラス中が大騒ぎになった。
担任教師も一緒になって、犯人探しが行われた。当然、針が一本なくなっていた、取り巻きの子が疑われる。
彼女は泣きながら無実を訴えた。その様子を見て、リーダー格の女子生徒は彼女を許した。
その場の皆が安堵するのを見て、それも織り込み済だった沙織は、次なる手段に打って出た。
リーダー格の女子生徒の針を抜き取って、濡れ衣を着せられた子のランドセルに仕掛けた。
そこから先は、言うまでもない。
お互いに大した怪我ではなかったものの、生徒と保護者と教師が入り乱れて、凄まじいことになった。
警察沙汰にはならなかった。大人たちは事なかれ主義に走った。そうなるだろうとも思っていた。
表向き、騒ぎが落ち着いたとき、そのときにはみな、沙織へのいじめのことなど、すっかり忘れていた。
みんな、飽きたのだ。
それよりももっと刺激的なことが起こったのだから。
学年の離れた弟のクラスにも噂は伝わったらしく、沙織は弟に「姉ちゃん。なにかあったの?」と訊かれた。
沙織は穏やかに微笑んで言った。
「なにもないわよ。大丈夫」
そう。なにもなくなった。
狙い通りだった。
(私は、間違ってない)
沙織は思う。
自分以外の人間が全く信用できなかったあのとき、他にどんな手段があったというのか。
誰も助けてくれないのだから、自分でどうにかするしかなかったのだ。
あれから何年もの間、そう言い聞かせてずっとやってきた。
困難が立ちふさがったら、自分でどうにかする。
他人に助けを求めてはいけない。
そうしていないと、あのときの自分は間違っていたということになってしまう。
いつも一人だ。
今だって一人だ。
夕飯時の西塚家。家族全員揃ってはいるが、沙織はそう思っていた。
自分以外の三人は、バラエティ番組を観ながら暢気に笑っていた。暗い表情の沙織を気にするような素振りは微塵もなかった。
食べ終えた食器を片付け、自分の部屋に向かう。
いつものことだ。
電気も点けずに、ベットの上に座る。
「無理なんてしてない。いつも通りよ……」
昼間、灯輝に言ったことを思い出す。あんな言い方になってしまって、彼に申し訳なかったと思う。余裕がなさすぎて、あれ以上のフォローが入れられなかった。
でもむしろ、あんな言葉でよかったかもしれない。
あんなものが私の正体だ。
ただの意地っ張りだ。
あれが私だ。
今までもこれからも、ずっと一人で生きていくと決意した、あれが私だ。
人の助けなんか、いらないんだ。
なのに。
「……う。っく」
暗い部屋で一人でいたら、涙が止まらなくなってしまった。
ぐるぐると、記憶と感情が、一斉に襲い掛かってくる。
ぼろぼろ出てくる涙をぬぐって、ぬぐってもまだ溢れてくる。
頭を抱えて、かきむしって、それでも止まらない。
「う。あ、ああ、あ、あ――」
あんた気持ち悪い、と言われた。耳を塞いでも目を瞑っても、繰り返し繰り返し繰り返し、その言葉が再生される。
何度も何度も何度も何度も。
気持ち悪い。気持ちわるい、きもちわるい、キモチワルイ。
なに泣いてんの? 死んじゃえば?
「っくぁ。う。あ、ぅぅぅ」
ぐす、ひっく、と嗚咽が堪えられなくなってきた。
でも大丈夫だ。家族の笑い声は明るく、ここまで響いてきている。
こんな暗いところで頭を抱えて泣いてる私の声なんて、聞こえない。
聞こえるはずがない。
私は一人なんだから。
助けてなんて言わない。
言っても届かない。
そんなことはよく知っているのに。
「たす、けて」
しゃくりあげながら、助けを求めずにはいられない。
自分の中が否定と拒絶でいっぱいだ。どうにもならない。
「だれか、助けてぇ……!」
助けを求めて泣きじゃくっても、誰も助けてはくれなかった。
なぜなら、私は一人だから。
思い知っているからこそ、涙は止まらなかった。
えらいところで切ってしまいました。ご気分を悪くされた方がいましたら、すみません。