二律背反
時間を確認する。八時四十五分。
灯輝は天野家の屋敷の前に来ていた。
凛子から『今夜九時、天野家にて待つ』という、果たし状のようなメールが送られてきたのだ。
正式な要請ではないだろうが、本家の当主からの呼び出しを無視するわけにはいかない。素直に応じることにした。
いつの頃からかもわからない、古代から続く天野家。塀がどこまでも続き、まさに屋敷、といった様相だった。修繕を繰り返しながら風格を増してくとは、こういうことだと肌で感じる。
大きな木製の門扉をくぐる。門番はいない。というか、必要ない。ここは最強を誇る、天野家の屋敷であるのだから。
門から屋敷までは石畳、庭は社殿のように玉砂利を敷き詰め、荘厳たる枯山水を作り上げている。月光に照らされ白く輝くその庭は、雪が積もっているようにも見えた。
灯輝は立ち止まった。
美しい光景だ、と思った。
静かで、心地よい。深呼吸をする。
神経が冴え、感覚は鋭く、思考が深くなる。
地元の高校生の灯輝ではなく、雪野家の忍、雪野灯輝にモードを切り替えて、灯輝は再び歩き出した。
母屋の呼び出し口で用件を伝えると、話は通っていたのか、そのまま離れに通された。
凛子様が来るまで少々お待ちください、と言われ、灯輝は下座に座った。茶を前に置いて、案内の者がいなくなった。
この離れの近くには、小さな頃自分も通った道場がある。
ここに来ると、否応なしにそのことを思い出す。凛子が来るまでの間、灯輝は道場での記憶を辿ることにした。
よく祖父に稽古をつけてもらっていた。
祖父は鷹のような風貌に、白い髭をした、雪の積もった険しい山のような印象の人だった。
その印象に違わず、祖父は現在の雪野の中では最強と呼ばれるほどの使い手だった。
白い胴着に身を包み、その祖父に身体の動かし方や呼吸の仕方、冷気の操り方を教わった。
確か五歳くらいだったと思うが、稽古は容赦がなかった。冷気の制御を誤り、身体中が凍り付いて倒れたときに、祖父は言ったものだ。
「起き上がれるか?」
心配しているというより、確認作業といった声音。
「起き上がれないなら、おまえは要らん」
蔑む様子もなく、ただ当然のように当然のことを言っている、という感じで、祖父は倒れている幼い灯輝に言った。
そこで灯輝は立ち上がった。
たぶん泣いていたと思うが、それも凍ってしまっていただろうから、自分でもよくわからない。
涙など、もう無用だ。
それでいい。
妙な話だと思われるかもしれないが、灯輝は祖父を恨んではいない。祖父は師匠である。師匠というのは、ああいうものだと思う。弟子に情けなど、かける必要はないのだ。
灯輝は雪野であることを誇りに思っている。
反動がつらいと思うことはあるが、それすらも是として生き続けることが正しいのだ。
強くあらねばならない。
そのためには、沙織に必要以上に近づいてはならない。
ならない、はずなのだ。
と、そこまで思ったところで、凛子がやってきた。着物姿だった。
「待たせたな」
「いえ」
手をついて、頭を下げる。凛子は向かいに座った。
「特に目付けはおらん。普通にしてもらっていい」
「はい」
面を上げる。凛子は茶をすすっていた。
「まあ飲め」
「はい」
勧められて、茶を一口含む。まろやかでいい香りがした。
「こんな夜中に呼び出してすまなかったな。さっそく用件に入ろう」
「はい」
凛子は湯飲みを置き、言った。
「西塚のことだ」
「……はい?」
「はいではない。西塚を好きか嫌いか、どっちなんだ」
「……」
灯輝は絶句した。まさか当代最強が直々に呼び出して、用件がこれなのか。
てっきり勅命か、このあいだの仙家に関することだろうと思っていた。庭で忍モードにした意味がまるでなかった。
じっとこちらを見られている。凛子の気迫に押されて、ようやく灯輝は口を開いた。
「……。彼女のことは、いい友人だと思っています」
「友人。友人か。そうか」
すごく嫌な流れだと思う。二人っきりで逃げ場がまるでない。
「一人の娘として好きだ、ということはないのか」
「なんですかこれ。修学旅行の夜ですか」
堪らず声をあげる。俺、あいつが好きなんだ、とか言えばいいのか。普段言えないようなことも、いつもとは違うシチュエーションでなら言えるぜ、みたいなそんな展開なのか。
「だいたい雪野がどういう人種の集まりなのか、お凛様はご存知でしょう。そんな恋愛にうつつを抜かすようなことでは、雪野の忍は務まりません」
「そこよ」
凛子からの即座の切り返し。
「おまえなにか、勘違いをしていないか?」
「勘違い?」
「雪野の人間が感情を持たないようなら、とっくにお家断絶だぞ。別に雪野は、感情を否定しているわけではない。感情の制御を目的としているのだ。
ともすれば乱れてばらばらになりそうな心というものを、一つの精神に統一し、力を振るう。それがあるべき姿だ」
「……」
それはわかっている。
沙織と話すようになってからというもの、灯輝の心は乱れてばらばらだった。それを抑えるためにも、あまり彼女と深くは関わらないようにしていたのだが。
もし、それを止めてしまったなら。
自分の心は決壊して、大雪崩を起こすことになるのではないだろうか?
制御なんて、できるはずがない。
考えるだけで恐ろしいことだった。
「僕は、雪野の人間です」
誇りに思うまで積み重ねてきた、それを全部捨てることになる。
もう二度と、「おまえは要らない」などと言われたくなかった。
言い聞かせるように、繰り返す。
「僕は雪野の人間です。それ以外の、何者でもありません」
気がつけば、自分はうつむいて、膝の上で拳を握り締めていた。
凛子は言う。
「だからおまえは、半人前だというんだ」
「……」
ぐさりときた。だが、反論ができなかった。
「意志の力を世界に訴えて、そのありようを変えるのが、天野の、雪野の力だ。そこにはいつも、心の芯から、そうありたいと思う心が必要だ。それなくしては、なんにもならん」
凛子は、拳を握ったままの灯輝を見、問うた。
「おまえは本当に、そのままでいいと思っているのか?」
とっさに。
はい、と返事できなかった。
「僕は……」
精神統一をしてきたというのに、既に心はぐちゃぐちゃだ。自分がどうしたいのかなど、わかるはずもなかった。
このままでいいと言えばいい。それでいい。だがそれに、そんなのは嫌だと叫ぶ自分が、心の奥にいるのだ。
「僕は……」
「もういい。下がれ」
いつまでも答えない灯輝に業を煮やし、凛子は言った。
「自分の中の葛藤とも満足に向き合えないやつが、雪野の忍を名乗るものではない」
「……」
「悔しいなら、逃げるな。正面からそれを見てみろ。話はそれからだ――下がれ」
「……はい」
なにも言い返せないまま、灯輝は礼をして退室した。
あとにはただ、凛子一人が残された。喉を潤すために、茶を一口すする。
ふう、と一息ついて、湯飲みを戻す。
そして、他には誰もいないはずの空間で、凛子は口を開いた。
「遊静殿。どう見る」
凛子の正面には、既に人はいない、しかし――
「お嬢の言うとおりでしたなあ」
応えは天井から聞こえてきた。わずかに天井の板がずれ、声はそこから漏れている。
「我が孫ながら、とんだ臆病者になってしまったものです。もうそろそろ十と七になるはずでしょう? 好いとる女子にちょっかいのひとつもかけられないとは。嘆かわしいことです」
「まったくだ」
天井裏の声は、ため息ひとつついて、続ける。
「まあ、灯輝をああしてしまった責任の一端は、わしにも少々ございますのでな……。指導に熱が入って、ちょっとばかり漂白しすぎてしまった感がありますので。
まったく、雪使いが熱くなると、ろくなことがありません」
「遊静殿にもあるのだな。そのようなことが」
「まだまだ修行が足りませぬなあ」
かっかっか、と遊静は笑った。
「雪野の極意は心を凍らせることにあらず。全てを受け入れ、あるがままに感じ振る舞うことこそ極意。
北風の如き自然の冷たさこそありはすれ、感情の冷たさなどとは全く違うものです」
降り注ぐ声は、迷いのなく、真っ白い雪のような声音。
熱くはなく、また冷たくもない。不思議な声を聞きながら、凛子は「そうだな」と言った。
「まあ、お嬢には釈迦に説法でしたな」
「そうでもない。私はまだまだ修行中だ」
手をひらひらと振って、あくまで軽い調子で凛子は言う。だが遊静は誤魔化されない。
「常に向上心を忘れてはならない、ですな。それを失わないからこそ、お嬢は最強でい続けることができるのです」
「持ち上げるな」
「ご謙遜です」
天井裏の声の主は、さて、と言った。
「わしはこれにて退出させていただきます。仕事が控えておりますので」
「南極か」
「はい。『あれ』を封じていた氷が僅かに溶けているように思う、という報せが届きました。取り越し苦労ならよいのですが、念のため、征くことにしました」
「そうか。気をつけてくれ、遊静殿」
「はい、お嬢もお身体にお気をつけて。
それと――灯輝のこと、ありがとうございました」
「なんだ、わたしはただ、思ったことをあやつに言いたくて呼び出しただけだぞ」
「はは。それにしてはわしに、天井裏で気配を消しているように、などとおっしゃいましたとも記憶しておりますが。なにぶん年寄りなもので、思い違いだったかもしれませぬなあ」
「わたしも覚えてはおらぬな」
「左様ですか。ではそういうことに。いやまったく、お嬢に説教を頂くなど、あやつ贅沢者でございます。
わしが戻ってきたときに、少しは立派になっていたら、嬉しいですな――お心遣い、痛み入ります。
それでは、これにて」
別れの挨拶とともに天井の板はぴたりとはまり、雪野遊静はそこから消えた。
今度こそ一人になった凛子は、茶を飲み干してその場を後にした。