第73話 晩餐会(3)-垣間見た女公爵の本音-
ゼーヴェルトの広い背中が人混みに紛れていくのを見送った私は、ふうっと大きく息を吐いた。
いきなり大物から話しかけられ、しかもああいう話を振られたせいで本番前から疲れてしまった。
貴族の社交とは本当に気が抜けない。一人去ったと思えば、また別の誰かが視界の端から近づいてくる。
「ごきげんようアッシュフィールド卿」
柔らかな声が鈴のように響いた。
一難去ってまた一難。振り返るまでもなく、誰の声かは察しがついていた。
「ローゼンシルト公爵閣下。ご機嫌うるわしゅう存じます――」
艶やかな茶髪を結い上げ、宗教画の聖母のように穏やかな微笑を湛えた女公爵がそっと私の横に並んだ。
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルト。
サロンで顔を合わせて以来の再会だった。
「まあ、そのような他人行儀な呼び方はおやめになって。セレスティーヌ、と。先日のサロンでは、ずいぶん楽しくお話しさせていただいた仲ではございませんの」
「それでは……セレスティーヌ様。こちらこそ、今宵またお目にかかれて嬉しゅうございますわ」
彼女は目を細めて満足げに頷くと、私が先ほどまで眺めていた肖像画の列へと視線を流した。
「ゼーヴェルト卿とご歓談でいらしたのね。遠くから拝見しておりましたわ」
一瞬、心臓がどくんと小さく跳ねた。
この女……私とゼーヴェルトが話していたことをちゃっかり見ていたわけね。
何を話していたかまでは聞かれてはいないと思うけど、こうして気になる人間の動向はしっかりチェックしているということか。
「ゼーヴェルト卿がわざわざ自分から声をかけるとは、あなたも王都では隅に置けない存在と見込まれたようね」
隅に置けない、か……
ものは言いよう。大貴族の間で私はマーク対象として認知されてしまったらしい。
叙爵式で王の側室の誘いを蹴り、そして偶然とはいえブラックウォール家と懇意にしている新参の伯爵は、どうやら大貴族たちの目には“無視できない存在”となりつつあるようだ。勘弁してほしい。
こうなると余計なトラブルに巻き込まれないよう、今日のイベントが終わったら早々にアッシュフィールド領に帰るのが得策だろう。
「肖像画を熱心にご覧でしたのでしょう? ゼーヴェルト卿がお声をかけられるのも頷けますわ。あの方、古いものにはめっぽう目がございませんから」
「恥ずかしながら、辺境の領地ではこのようなご立派な絵に触れる機会もございませんでしたもので、つい」
「まあ。でもそういう素直な好奇心こそが、社交界では貴重なものですのよ。ここにいる方々の多くはもう何を見ても驚かなくなっておいでですもの」
そう言いながら彼女の視線が会場の中央、上座寄りの一団へと移る。
視線の先にはエセル。艶やかな黒髪を清楚に結い上げ、ブラックウォール公爵や弟たちと並んで貴族たちの挨拶を応対している。
「エセルフリーダ様は今宵もお美しくていらっしゃること」
セレスティーヌがふうと柔らかな吐息をつく。
「誉れ高き武門の血筋に生まれながらも気品を兼ね備えた淑女。さすがは次代の王妃となられるお方ですわ」
「ええ、本当に。エセルフリーダ様の凛としたお姿は、王国の誇りでいらっしゃいますわ」
「まことに」
そこで――セレスティーヌは少しだけ視線を落とした。
長い睫毛が翳りを作り、瞳が一瞬だけ揺らいだ。
「……時折夢想いたしますの。兄たちが健在であれば、私もエセルフリーダ様と並んで、『王妃候補』と呼ばれえたかもしれないのに、と」
――え?
一瞬、反応が遅れた。
その一言はあまりにも無防備で、あまりにも自然に、彼女の唇からこぼれ落ちた。
それはこれまでの掴みどころのない女公爵の姿からはあまりに遠い、素の言葉のように聞こえた。
「まあ、叶わぬことを申してしまいましたわ。忘れてくださいませ」
セレスティーヌは恥じらうように小さく笑って、扇を口元にあてた。
「公爵位を継いだ身でありながら、こうして『嫁ぎそびれた女』のような愚痴をこぼしてしまうなんて、お恥ずかしい限り。わたくしも女ですから、恋愛物語のような夢をいだくことはままありますので――」
「……いえ、そのような」
私は慎重に言葉を選んだ。
「セレスティーヌ様は公爵として立派にお家を守っていらっしゃいますわ。私も女の身でありながら爵位と領地を継ぎましたので、偉大なる先達たる閣下の手腕には感服するばかりでございます」
当たり障りのない慰めだった。
彼女はそれを聞いて、ほっと息をついたように柔らかく微笑み直した。
「……ありがとう、アッシュフィールド卿。お優しいのね、本当に」
完璧な女公爵の微笑みが戻った。
さっきまでの揺らぎは、まるで一瞬の蜃気楼のように消え去っていた。
セレスティーヌはもう一度優雅に一礼すると、衣擦れの音と共に中央の一団の方へと歩き去っていく。
歴代国王の前でぽつんと一人私だけが取り残される。
(……今のは)
本心、だったのだろうか。
それとも私相手だからあえてこぼして見せた、社交の一手だったのだろうか。
もし、あれが本当に一瞬だけ漏れてしまった本音だったのだとしたら。
完璧な微笑みの下で、彼女は今も“自分が王妃であるべきだった”と思い続けていたら。
(――だったら、どうだと)
名門貴族の娘として生まれ、貴族の女としての礼節と教養を身につけたのなら、いつかは王の妃になりたい――
女の成功への憧れ。それはごく自然な願望だ。
私だって絵本を両親から読み聞かせてもらい、白馬の王子様が迎えにきてくれたらと夢を見た少女時代がある。
ただ――女公爵として通常の貴族の女性とは違う社会的地位を得たとしても、素朴な憧れを抱いていたことにはどこか親近感を覚えた。
静かに息を吐く。
会場には続々と諸侯たちが集まっている。
広間の中央で、席への案内を告げる声が響いた。
※
案内に従って席に着く。
私に割り当てられたのは下座寄りの一角だった。最上座はもちろんジークハイトと四大公爵が占めている。
視線を上座に向けるとブラックウォール家の面々がいる。エセルにエルウィン、そしてレオフリックとアルフレッド。
ふとエセルと目が合う。彼女は小さく手を振って微笑んだ。
四大公爵の下座にはリュシアもいた。枢機卿代理としての営業聖女スマイルで諸侯たちと挨拶を交わしている。
一方、私は新参の辺境伯らしい下座の同格の貴族たちに囲まれた妥当な席だ。
そして、向かいの空き席にようやくやってきたのは――
「「ぁ……」」
私と相手が同時に小さな声をあげた。
なぜなら――因縁の相手、ヘルマンシュタイン伯爵その人。
しかも隣には、豪奢なドレスを纏った貴婦人――彼の夫人と思しき女性を連れて。
目が合った瞬間、ヘルマンシュタインの顔が一瞬だけ引き攣った。
私の顔も、おそらくは似たような動きをしただろう。視界の端でそれを見て、胸の奥で短く呟く。
(……うげっ)
同じ言葉を、おそらく彼も胸の中で呟いている。
妥当、なわけがなかった。格の近い地方伯爵同士を向かい合わせにする――表向きは何の変哲もない席次の組み方。けれどその“格の近い地方伯爵”の中に、つい先ごろ戦火を交えたばかりで遺恨を残している同士を置くのはいかがなものかと。
わざとか? わざとなのか?
私は静かに会場の主催者――ジークハイトに目を向けた。
若い王は笑みを浮かべ、高位貴族たちと楽しげに語り合っている。
私なんて視界にも入れていない、といった感じ。
夫人のほうは――まっすぐに私を見ていた。
睨んでいると言ってもいい。豪奢に結い上げた髪、重たい宝石をいくつも首元に下げ、身を反らすように背筋を張った姿勢。その目には隠しようもない敵意があった。
夫を敗軍の将にして、係争地と少なくない賠償金を奪った相手が、今まさに目の前に座っている。
感情としては当然の反応だろう。
配膳係が前菜の皿を静かに置いていく中、私は貼りつけた微笑を崩さずに軽く会釈した。
「ごきげんよう、ヘルマンシュタイン卿。ご夫人にもお初にお目にかかります」
「……ごきげんよう、アッシュフィールド卿」
ち~ん、と音が聞こえそうな重たい沈黙。
当事者二人は、顔を笑顔を貼り付けたまま視線だけを料理に落としていた。
「おやおや、まさかアッシュフィールド卿とヘルマンシュタイン卿が同席するとは。先の遺恨を忘れて杯を交わすとは粋なものですなあ」
だあああああ!!! 空気読めよこのアホ!!!
そう言いたくなるほど呑気な声が、私の左隣の席から響いた。
初老の子爵が杯を掲げて、朗らかに笑顔を向けてきた。
「いやあアッシュフィールド卿、先のエルベ谷でのご活躍はこの王都まで鳴り響いておりますぞ! 二百丁の銃による一斉射撃だったそうですな。実に痛快!」
興味百パーセント、空気ゼロパーセントの声音だった。
ヘルマンシュタインの肩が、目に見えて強張った。
夫人の扇の骨が、ぴし、と鳴った気がした。
「ほ、ほほ……恐縮でございますわ。あれは地の利と、信頼できる部下たちに恵まれたからの僥倖にございますの」
そんなプロレス観戦の客席のような雰囲気で語るんじゃねええ!
当事者は戦争をやってたんだぞ! 人が死んだんだぞ!
なんだよ「痛快」って、ふざけんなよ!
私は震える指先でグラスを持ち上げ見せかけの笑顔で、心の中で舌打ちを続けながら周囲の声に応対した。
※
晩餐会は予想通り、貴族たちの噂話と陰口の交換場となった。
やれ誰かが不倫した、やれ誰かの息子が変な趣味を持っている、やれあの貴族は借金まみれだ――などなど。
「そう言えば皆さまはご存じかな? 今夜は陛下が重大発表をなさるのだと」
「ほう、それは」
「まあ、先代様のご喪も明けたことでございますし」
「となれば、話は一つでしょう。陛下とエセルフリーダ様のご婚礼について、ついに正式な宣言があるのでは」
「それはめでたいことで。幼い頃より許嫁として育った姫君と、晴れて結ばれるとは」
「これを機に、王家とブラックウォール家の結びつきがより強固になれば王国にとっても喜ばしい」
「まことに。今夜はめでたい夜になりそうですな」
あちこちで囁かれる「婚礼」の話。
みな一様に視線を上座のブラックウォール公爵に注ぐ。そしてエセルを。
私はジークハイトを見た。エセルとは一切視線を合わそうとはしない。でも、どこか清々しいような笑みを浮かべていた。
そして晩餐会の時間も終盤。デザートの皿が下げられたころ。
主催のジークハイトが席を立ち、会場の諸侯たちに向けて話し出した。
「諸卿。しばし席を離れ食後の歓談をお楽しみいただきたい。一時間後、場を舞踏の間に移し、余より諸君に改めて一言、申し伝える所存である」
一斉に、広間の空気がほんの一瞬だけ張り詰めた。
「余より諸君に改めて一言」、噂の“重大な発表”の予告がついに王自身の口から正式に下された。
諸侯が一斉に頭を下げ、「謹んで」と声を揃える。ジークハイトは満足そうに頷いて、ゆっくりと席を立った。その顔には先ほど以上に晴れ晴れとしたような表情が浮かんでいた。
私たち諸侯も席を立ち、舞踏会の準備が整うまでの時間、それぞれ歓談に興じる。
何人かの下級貴族に捕まり、いくつか適当な話を交わす。
だけど私はうわの空で歓談に応じながら、ジークハイトが何を告げるのかに胸をざわつかせていた。
婚礼の発表なら、それでいい。
あの上機嫌な王が婚約者との婚礼を宣する喜びであるなら、それでいい。
今夜はただ退屈な婚礼宣言の夜として終わってくれる。
どうか、そうであってほしい。
やがて――舞踏会の支度が整ったという知らせが広間に響く。
私は遠くのブラックウォール父子のほうへと視線を走らせた。
エルウィンはレオフリックと何かを話している。アルフレッドはその横で、退屈そうに広間の天井を見上げていた。
エセルは従者に付き添われて舞踏の間へと歩いていく。
一歩、また一歩。
彼女の歩幅は、いつもどおりきれいで、静かで、揺らぎがなかった。
それなのに――私にはなぜだか、その背中がひどく遠くに感じられた。
私もまた彼女を追って歩き出す。
王の“重大な発表”を、聞くために――




