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第57話 荒々しき奔流、精緻なる術式。二人の魔力が穢れを祓う

 左腕の感覚はだいぶ戻っていた。

 指を握って開く。まだ少しぎこちないが、動く。赤黒い筋もすっかり消えている。

 ステラが差し出してくれた水筒の水で顔を洗い、深呼吸をした。

 冷たい水が頬を伝って顎から落ちる。その感覚でようやく現実感が戻ってきた気がした。


「……大丈夫。もう平気よ」


「無理はしないで」


 ステラの声は静かだったが、視線は私の左手から離さなかった。

 まだ不安なのだろう。当然だ、あんなものを見せられたら。

 目の前では瘴柱が何事もなかったかのように脈動を続けている。

 あの数秒間の騒ぎなど歯牙にもかけず、周囲を汚染し続けていた。


 古代の聖句だなんて格好をつけて了承まで得ておきながら、結果は無様な醜態を晒すことになってしまった。

 エセルに対する申し訳なさが込み上げる。


「仕切り直しましょう」


 私は立ち上がってスカートの土を払った。

 足元がほんの少しだけふらついたが、ステラの手を借りて持ちこたえる。


「伯爵様、本当にお体は……」


「大丈夫よ。心配をかけてごめんなさいエセルさん。あなたが事前に言ってくれた通り、異変を感じて中断した。忠告がなければもっと危いことになっていたかもしれない」


「……いえ」


 エセルはほんの一瞬だけ目を伏せてから、すぐに顔を上げた。

 その表情にはもう動揺の色はない。次にどうするかもう頭を切り替えている瞳だった。


「先ほどの……古代の聖句はもう使わない方がよろしいですわね」


「そうね……正確に言えば通じたけど、結果が思っていたのとはまるで違ったわ」


 エセルは小さく頷いた。


「であれば、正攻法で参りましょう。ただし、先ほどと同じやり方では同じ結果です。拮抗したまま消耗戦になるだけ」


「同感ね。何か手はある?」


「ありますわ」


 エセルが杖を握り直しす。

 その指には先ほどまでとは違う力がこもっていた。


「先ほどは伯爵様から流していただく魔力を私側で絞って調整おりました。それを全開にします」


 私は目を見開く。


「でも、そんなことをしてはエセルさんの体に負担が――」


「もちろん分かってますわ。その上での決断です。これが一番早く浄化を終わらせられる方法だと判断しましたので。問題らしい問題と言えば――」


 エセルは杖を握りしめながら私の目を見てくすりと微笑み、そして静かに息を吸った。


「伯爵様が私を信じて、全力の魔力を送り込むことを躊躇わないでくださるか……ですわ」


 その言葉は一人で先走り、失敗した私にとって胸に刺さるものだった。

 正攻法で拮抗している状況に焦れて、別の道を探した。


 そして今、エセルは私に言っている。

 近道ではなく正面から二人で突破しましょう、と。

 

「――会ったばかりのあなたが、私をそこまで信頼していいの?」


「私、これでも人を見る目は確かなんですの」


 ふふっと微笑を浮かべるエセル。


「伯爵様、あなたはきっと合理的なお方。そして問題を解決する手段が『自分ならできる』と判断すれば、その代償も気にならない方なのではないでしょうか?」


 参ったなあ――と心の中で苦笑するしかなかった。本当に、まったくもって、その通りだった。

 だからこそ、無茶をして皆を心配させることになってしまうのだけど。

 きっと、彼女は私に似ているのだ。解決手段があればそれに全ベットできるという――


「伯爵様の魔力は確かに荒々しい。だからこそ、この瘴柱を打ち祓う一撃足り得ますの」

「……わかった。あなたを信じる」


 私はエセルの背後に立ち、もう一度右手を彼女の背中に当てた。

 華奢な肩甲骨。さっきと同じ温もり。


「準備はよろしくて?」


「ええ」


「では――お願いします。全力で」


 私は目を閉じた。

 体の奥底にある魔力の水源。

 血管の、細胞の隅々までに満ちるその存在を感じ取り、繋ぎ合わせる。

 私という個体の中にある無数の歯車がかみ合い、高速で巡っていく。


 回せ、回せ、回せ――回すたびに魔力が励起していく。

 励起し、共鳴するそれを目の前の少女に注ぎ込む。

 なみなみと満たされた水源の堰を切って、奔流が迸った。


「――行くわよ」


「ぁぁあッ――――!」


 びくんとエセルの背が跳ねた。

 掌越しに肩甲骨が軋む振動が伝わってくる。

 しかし――私の魔力を注がれてもエセルの術式は崩れない――


 エセルの足元から広がる幾何学紋様が一回り、二回りと輝きを増していく。

 淡い緑だった光が深い翠に変わり、瘴柱に向かって奔流のように押し寄せた。


 掌越しに感じる私の魔力がエセルの術式に流れ込んでいく感触。

 荒々しい奔流を、エセルの術式が受け止めている。

 それは激しい波が岩壁に砕かれるがごとし。

 私の魔力の奔流を余すことなく、指向性を持たせた浄化の力へと変えていく。


(……すごい)


 さっきまでの拮抗が嘘のように、瘴柱の脈動が押し返されていく。

 赤黒い光が揺らぎ、表面の血管状の筋が明滅を始めた。

 瘴柱が初めて明確に後退している。


「効いてる……!」


「ええ……! このまま押し切ります――!」


 瘴柱の脈動がさらに弱まる。

 表面の結晶にひび割れが走り始めた。赤黒い光が痙攣するように明滅する。

 地面を覆っていた結晶の欠片がぽろぽろと崩れ、灰色の砂に変わっていく。

 森を蝕んでいた赤黒い筋が、瘴柱の根元に向かって引き潮のように退いていく。


 森の穢れが一点に向けて集中していき、瘴柱そのものが浄化の渦に削り取られるように細り始めた。


「今です! お父様!!」


「やっと俺の出番ってわけだな!!」


 弱弱しく細り明滅する瘴柱に躍り出たウィンは、大剣を振りかざして叫んだ。


「おおおおッ!」

 

 逆袈裟懸けに斬り上げられる銀光。

 それは、ほとんど抵抗なく瘴柱に斜め一閃の斬撃を刻んだ。

 そして、粉々になって砕け散る。赤黒い欠片は枯死するように灰色となり、やがてキラキラと輝く塵となって空中に霧散していった。

 森を覆っていた圧迫感が、潮が引くように薄れていく。

 頭蓋を締め付けていた万力が、するりと外れた。


「……終わった?」


 私は目を瞬いた。

 柔らかな風が、瘴気の抜けた森を吹き抜けていく。

 この森に入ってから初めての風。

 風に乗って鼻腔をくすぐる緑と土の香りに、心の中にじんわりと温かな安堵が満ちていく。


「ええ――穢れは消え去りましたわ。ご安心を」


 術式の輝きが消えたエセルが息を吐いて、膝から崩れ落ちた。

 私は咄嗟にその体を支える。


「エセルさんっ!」


「大丈夫……ですわ。少し……魔力を使いすぎただけで……」


 顔は真っ白。唇の色も薄い。

 だが、その唇の端にかすかな笑みが浮かんでいた。

 疲弊と達成感が入り混じった、精一杯の笑顔。


「伯爵様の魔力、本当にとんでもない量でした……しかし、さすがですね……あの量を放出したのに顔色ひとつ変えないとは……」


「え、あはは……」


 言われてみれば、疲労困憊のエセルに対し私はあまり疲れていない気がした。

 相当な量をエセルに送ったと思ってはいたけど……私が持つ魔力量はそんな桁違いのものだというのだろうか。

 確かにこれまで他人と比較したこともなかったから、実感することがなかったのだけど……


「エセル! 大丈夫か!」


 ウィンが駆け寄ってきた。

 顔色はまだ優れなかったが、娘の身を案じて瘴気の影響など構っていられないのだろう。

 私の腕からエセルを受け取るように抱き上げる。


 娘を抱える腕は力強く、しかし壊れ物を扱うように慎重で。

 そしてエセルの顔色を確かめるその目は、戦場で部下の生死を即座に判断する指揮官の目だった。


「お父様、大丈夫ですわ。みっともないところをお見せしてしまいましたけれど」


「みっともないもんか。立派にやったじゃねえか」


 ウィンがエセルの頭をぽんぽんと叩く。

 エセルの頬がほんのりと赤くなった。

 その横顔を見ていて――不意に、違和感が輪郭を持った。

 おかしい。

 さっきからずっと引っかかっていた何かが、今この瞬間にはっきりとした形を取り始めている。


 今、目の前の男が見せている佇まいは、剣士のそれではない。

 娘を抱え、その容態を確認し、周囲に目を配りながらも声を荒げず必要な判断を静かに下す。

 これは戦場の最前線で刃を振るう男の振舞いではない。戦場の後方で全軍の命を預かる人間が行うべき振る舞いのよう――


(指揮官……いや、それ以上の――)


 そこで、もう一つ。

 森でウィンが私の名を聞いた時のことが、今さらのように蘇った。


 私は「()()()()()()()()()()()()()()()()()」とだけ名乗った。

 伯爵とは一言も言っていない。

 なのにウィンは即座に「()()()()()()()」と返した。

 あの時は瘴気の対応に追われて流してしまったけど、なぜ私が伯爵だと最初から知っていた――


 大剣を背負った偉丈夫。気さくで豪放。

 だが一皮剥けば、指揮官の目。無骨で威厳ある佇まい。

 そして、私が伯爵だと知っていた。


 ――叙爵式。

 あの謁見の間の壁際に、水面のように静かに佇んでいた巨躯。

 鉄面皮で、声を発さず、ただ小さく顎を引いて会釈だけを返した男。


 全く別の雰囲気が記憶の中の像を遮り、上手く結び付かなかったけれど。

 捻りがなさすぎる偽名に気付いた今、あの質実剛健で厳格な軍人然とした男と目の前の男は完全に重なって見えた。


「ウィンさん」


 思わず声をかけてしまった。

 ああ、もう言うしかない。多分間違いない。間違いないのだ。


 呼びかけに、ウィンが振り返る。

 いつもの気さくな笑顔。


「どうした、伯爵様?」


「――叙爵式の時はお世話になりました。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 森に静寂が戻った。

 風の音と遠い鳥の声だけが響いている。


 ――ウィンの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。

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