第56話 赤黒い逆流。瘴気は招かれざる客を歓迎する
目の前に聳え立つ、赤黒い結晶の柱――瘴柱。
それはただそこにあるだけで、周囲の空間そのものを歪ませるような強烈な圧を放っていた。
エセルが一歩前に出て、瘴柱を見上げながら呟いた。
その声には恐怖よりも、難題を前にした専門家の渋さがあった。
「以前に立ち会った浄化では、もっと小さな瘴柱でしたわ。この規模となると……一筋縄ではいきませんわね」
「処理は可能なの?」
「手順自体は同じですわ。核となる部分を浄化する。ただ、この大きさですと浄化に注ぎ込む魔力が相当量必要ですし、時間もかかりますわ」
エセルは腕を組み、瘴柱を見上げたまま頭の中で何かを計算しているようだった。
「伯爵様の魔力をお借りできるなら、かなり短縮できると思いますわ。私が術式の構築を担当しますので、伯爵様には浄化のための魔力供給をお願いしたいのですけれど」
「了解。あなたの指示に従うわ」
方針が決まったところで、私はステラとウィンの方を振り返った。
――二人の顔色が明らかに悪い。
ステラは小さく呻き声を漏らし、片手でこめかみを押さえていた。
常に無表情を崩さない彼女の顔色が見るからに悪い。額には脂汗が浮かんでいる。
「ステラ……!?」
「……平気。ただ、少し……頭の奥が、ガンガンするだけ」
平気なわけがない。
見ればウィンも顔をしかめ、大剣を杖代わりにして息を荒くしていた。
「おっさんにはちとキツい空気だな……悪酔いしそうだ」
「お父様、無理をなさらないで」
エセルが心配そうにウィンに駆け寄る。
私とエセルはそこまで息苦しさを感じていなかった。少し空気が重い程度だ。
おそらく、これは魔力量の差だ。
この世界の魔力とは、大気中に偏在する女神の神気とリンクする力のこと。
魔力が高い人間ほど、瘴気に対する一種の抗体や抵抗力を持っているのだろう。
逆に魔力の少ないステラやウィンは、瘴気の影響をダイレクトに受けてしまっていた。
「二人はここから少し離れていて。瘴柱の近くにいる必要はないわ。浄化はエセルさんと私でやる」
「でも――……わかった」
ステラは静かに頷きウィンと共に後方に下がる。
それでも二人は私たちに何かあった時のために、いつでも動ける場所で控えてくれていた。
「では、始めますわ」
エセルが瘴柱の正面に立ち、杖を地面に突いた。
目を閉じ、深く息を吸い込む。
杖の先端から淡い緑の光が灯り、エセルの足元から幾何学的な紋様が広がっていく。
「まず周辺の瘴気を鎮めます。伯爵様は私の後ろに立って、背中に手を当ててくださいませ。魔力を流す経路を作りますわ」
言われた通りにエセルの背中に右手を添えた。
華奢な背中だった。しかし、この華奢な体躯に精密な魔法を紡ぐだけの膨大な力が宿っているのだ。
「では――魔力を、ゆっくりと流してください」
私は体の奥から魔力を汲み上げ、右手を通じてエセルへと送り込んだ。
ゆっくりと、言われた通りに。
「ッ――」
エセルの肩が跳ねた。
「エセルさん?」
「だ、大丈夫ですわ……少し、想像以上の量だっただけで……」
声が上ずっている。
私としてはかなり絞ったつもりだったのだが。
「もう少し弱くした方がいい?」
「いえ……このまま維持してください。こちらで調整します」
エセルの術式が私の魔力を受けて、緑の光が瘴柱の周囲へ波紋のように広がっていく。
瘴柱の脈動がわずかに鈍り、赤黒い表面の光が揺らいだ。
効いている。だが、瘴柱は一度鈍っては持ち直しまたじわじわと脈動を取り戻す。
浄化の光と瘴気の脈動が拮抗していた。
「……やはり、この規模だと簡単には鎮まりませんわね」
エセルのうなじに玉のような汗が流れ落ちた。
術式の制御に全神経を注いでいるのが分かる。精密な作業を長時間続ける消耗。
エセルの方法は正しい。手順も理に適っている。
――だが時間がかかる。この高濃度の瘴気の中で長期戦になればなるほど、全員の体への負担が増していく。
その時――ふと、頭の中をよぎったものがあった。
(……瘴気も元は女神のシステムの一部なら――アレが使えるかも――?)
私の脳裏に、数ヶ月前のアッシュフィールド邸での出来事がフラッシュバックした。
教会から派遣されたばかりの不良聖女リュシア・バルディーニ。
私は彼女の興味を惹くために、前世で読んだ設定資料集に載っていた『古代語』――システムへの外部アクセスコードを詠唱して、彼女の聖銃を強制的にハッキングしようと試みたのだ。
当然、未登録の不正アクセスとしてセキュリティに弾かれたけど、今回の瘴気はセキュリティから離れたバグデータだ。
もしかしたら、外部から強制的にアクセスしてシステムの『停止コマンド』を送り込めば、手っ取り早く機能停止させられるのでは。
(やってみる価値はあるかも)
「……エセルさん、一つ試したいことがあるの」
私は魔力の供給を維持したまま、慎重に切り出した。
「試したいこと、ですか?」
「説明が難しいのだけれど……瘴気の根源が女神の神気に由来するものだとしたら、古代の聖句で直接干渉して鎮められるかもしれない。以前、似たような術を試みたことがあるの」
エセルが怪訝そうに振り返ろうとしたが、術式の維持のために体勢を戻す。
「……古代の聖句、ですか?」
「ええ。教会が今も儀式に使う聖句の、さらに原初の言葉。それを用いて対象に直接『鎮まれ』と命じるの。成功すれば浄化の時間を大幅に短縮できるはず」
我ながら曖昧な説明だと思う。
だが「実はこの世界の魔法はナノマシン操作術で、瘴気を直接ハッキングします」とは言えない。
「……危険はあるのでしょうか?」
「以前試みた時は、門前払いを受けただけで終わったわ。ただ、今回の対象は女神の秩序から外れた存在だから――正直、同じ結果になるかは分からない」
正直に言った。
エセルは数秒間沈黙した。術式を維持しながら、考えを巡らせているのだろう。
「……伯爵様がその術に心当たりをお持ちなら、試す価値はあると思いますわ。ただ、少しでも異変を感じたら即座に中断してください。私は術式を維持したまま待機します」
「ありがとう。何かあったら、すぐに止めるわ」
エセルの了承を得て、私は右手で魔力供給を続けながら、左手を瘴柱にかざした。
大きく深呼吸をして、設定資料集の記憶を引っ張り出す。
リュシアの聖銃の時と同じ。管理者権限を偽装して対象に強制介入する。
「――『System_Call』」
私の口から発せられた言語に、エセルがピクリと反応した。
構わず、私はコマンドの詠唱を続ける。
「『Target_ID:Unidentified_Error_Cluster……Force_Access』」
「『Request:System_Halt……Execute』」
――瞬間。
ブゥンッ!という重低音が森に響き渡り、瘴柱の表面を走る赤黒い脈動がピタリと停止した。
「止まっ……た?」
ウィンが目を瞬かせる。
やった!やっぱりシステムの強制停止コマンドが通じ――
『――Error。Error。接続経路――Error――汚染――流入――Error』
「……えっ!?」
左手の指先が、焼けた。
いや、焼けたのではない。指先から何かが侵入してきたのだ。
冷たい。氷のように冷たいのに、触れた箇所がじくじくと熱い。
指先から掌へ。掌から手首へ。腕を遡るように、何かが体の中に流れ込んでくる。
「――ッ!?」
息が詰まった。
視界の端が赤黒く滲む。こめかみの奥で何かが共鳴するように振動し始めた。
私の体内の魔力が、瘴柱に呼応して泡立っている。
赤黒い葉脈が左腕をじくじくと這い上がってくる
(マズい――!!)
理解した。遅すぎる理解だった。
接続は成立したのだ。だが応答したのは「システム」ではない。
瘴気の群体が、こちらが開いた経路を逆に辿ってきている。
セキュリティのないシステムに繋いだのではない。ウイルスの塊に直接接続してしまったに等しい。
「ああああああっ!?」
「リリアーネッ!!」
私の悲鳴に反応して、ステラが弾かれたように飛び出してくる。
「伯爵様!? 中断してくださいませ!!」
エセルが叫ぶ。
分かっている。分かっているけれど、視界が赤黒いノイズに塗り潰されそうになる中、まともに思考が繋がらない。
必死に意識を掻き集めて、絶叫した。
「『Cancel!! Cancel!! Cancel!! Cancel!! Force_Disconnect!!』――ッ!!」
ブツンッ、と脳内のノイズが途絶える。
左腕に這い上がっていた悍ましい感触も消え去り、私はその場にガクンと膝をついた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
「伯爵様ッ!?」
「リリアーネしっかり! 私がわかる?」
ステラが私の背中を支えてくれる。
全身が脂汗にまみれ、心臓が早鐘のように打っていた。
あともう数秒切断が遅れていたら、私の脳髄まで瘴気に侵蝕されて狂い死んでいたかもしれない。
もしくはあの鹿のように全身から赤黒い結晶を生やした悍ましい姿、下手をすれば私自身が瘴柱になっていたかもしれない――
そんな想像が一瞬よぎって、身震いする。
「伯爵様の体内の魔力が、乱れて……!? 何をなさったんですの!?」
答えられなかった。
呼吸が浅い。心臓がバクバクと暴れている。
左腕の感覚が戻ってこない。指を動かそうとしても、生温い水の中でもがくような鈍さしか返ってこなかった。
視界がようやく安定し始めた頃、目の前にステラの顔があった。
白い狼耳が完全に逆立ち、琥珀色の瞳が不安に揺れていた。
「リリアーネ、落ち着いて息をして……ゆっくりでいい。大丈夫、大丈夫だから」
「……ふー……ふぅー……」
ステラは私を抱えて背中を優しくさすりながら、私にゆっくりと呼吸するよう促してくれた。
「落ち着いた?」
「ええ……大丈夫……」
「――伯爵様。今何をした?」
静かなウィンの声。
問い詰める声ではなかった。
だが答えを求める声だった。
「……ごめんさない。ズルをしようとして失敗した」
それだけ答えるのが精一杯だった。
左腕には赤黒い葉脈のようなものがいくつか浮き出ていたが、やがて薄まっていく。
エセルが浄化魔法を詠唱し、そっと私の左手を握っていた。
「……これくらいでしたら問題なさそうですわ」
「エセルさん……ごめんなさい。馬鹿なことをしたわ」
「今は体を休めてくださいませ」
エセルの声には動揺を押し殺した静けさがあった。
何が起きたのか正確には分かっていないだろう。だが「この人は今、何かとんでもなく危険なことをしかけた」という理解はあったはずだ。
私は地面に座り込んだまま、自分の左手を見つめた。
赤黒い筋はすでに消えていた。瘴気が体の中に残っている感触はない。
軽はずみなことをしてしまった。
失敗せずに解決できる――なんて都合のいいことなぞ存在するものではなかった。
下手をすれば、瘴気の侵蝕が私と魔力を同調したままのエセルにも及んでいたかもしれない。
軽率な判断の痛いしっぺ返しを受けてしまった。この程度で済んだのは不幸中の幸いだった。
瘴柱の浄化は仕切り直しだ。
私は急がば回れということを身を持って知らされる形になってしまったのだ。




