幕間 同志総書記長閣下の憂鬱
東の大国、ヴァリャーグ連邦共和国。
首都の地下深くに存在する諜報組織『赤い眼』の本拠地。
その一室にある局長室では、怒号と書類が飛び交っていた。
「馬鹿者があぁぁッ!! 失敗だと!? あのアッシュフィールドの乗っ取りごときで、なぜトチる!?」
局長が、執務机を拳で叩き割らんばかりの勢いで部下を怒鳴りつけていた。
部下の報告員は直立不動で、冷や汗を流しながら震えていた。
「は、はい……報告によりますと、現地協力者のグスタフ・アッシュフィールドが暴走し、葬儀の場で拘束されたとのことです。それに伴い、当組織の介入も露見する恐れが……」
「グスタフのような小物がどうなろうとどうでもいい! 問題はそこじゃない!」
局長は血走った目で叫んだ。
彼が恐れているのは工作の失敗そのものでもない。
「この作戦はな、私が主導して承認した非公式の案件なんだ! 総書記長閣下の決裁を仰いでいない! 成功させて事後報告で手柄にするはずだったんだぞ!?」
「も、申し訳ありません……」
「工作員の『ステラ』はどうした! 口封じは済んでいるんだろうな!?」
「そ、それが……消息が掴めず……捕縛されたか、あるいは逃亡したか……」
報告を聞いた局長は、苛立ち紛れに高級な葉巻を床に叩きつけた。
「使えん……どいつもこいつも使えん道具ばかりだ! いいか、その工作員の記録は全て抹消しろ。最初からそんな人間は存在しなかったことにするんだ急げ! 関係書類はすべて燃やせ! 本案件の痕跡を一片たりとも残すな!!!」
局長が喚き散らし、部下たちが慌てて動き出そうとしたその時だった。
局長室の扉が勢いよく開けられ、血相を変えた職員が飛び込んできた。
「なんだ! 騒々しい!?」
「も、申し上げます! 総書記長閣下が二時間後に視察にいらっしゃいます!」
その言葉を聞いた瞬間、局長は顔を真っ青に染めた。
「ば、馬鹿な……!? そんな予定など無かったはず……」
「抜き打ちだそうです! 先ほど突然、連絡がありまして……『私の見てないところで小賢しいことはしてないか?』と……」
職員の報告に、局長の顔から血の気が失せる。
彼の脳裏に最悪の展開が浮かぶ。
――もし、この場でアッシュフィールドに関する秘密の工作の存在が露見すれば。
――もし、総書記長に隠れて行っていたことがバレれば。
――そして、結果が失敗に終わっていると知られれば。
「二時間以内にアッシュフィールドに関する全ての証拠を消し去れェェッ!! 紙切れ一枚残すな! 燃やせ! 燃やし尽くせ! 間に合わなければ貴様ら全員、北の凍土で一生を終えることになるぞォォッ!!」
ヴァリャーグ連邦共和国特務機関“赤い眼”
そこには、エーデルガルドに潜入した工作員の命などよりも、自らの保身と上司の顔色を何より優先する、腐敗しきった官僚たちの醜いパニックだけがあった。
※
その部屋の空気は、重苦しく歪んでいた。
二時間前まで怒号が飛び交っていた局長室は、今は死のような静寂に包まれている。
整列した幹部たちの額には脂汗が滲み、全員が呼吸すら忘れたかのように直立不動で起立していた。
コツ、コツ、コツ。
軍靴の音が響く。規則正しく、しかし重厚なその足音が止まると同時に部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚える。
「――綺麗に片付いているようだな」
鈴を転がすような、美しくも冷ややかな声。
現れたのは、流れるような銀髪に軍装を纏った美女、ヴェーラ・アレクセーエヴナ・アルマゾヴァ総書記長だった。
その頭部には、東方人らしく獣の耳――丸みを帯びた熊の耳があり、時折ピクリと動いて周囲の気配を探っている。
「よ、よくぞお越しくださいました! 同志総書記長閣下!」
局長が裏返った声で最敬礼をする。
ヴェーラはその挨拶を無視し、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。
彼女は何も言わない。ただ、その深海のような瑠璃色の瞳で何も置かれていない机や暖炉を見つめているだけだ。
「……」
ヴェーラの熊耳がわずかに震える。
彼女は鼻を小さく鳴らした。残り香。
薪の臭いに混じって紙が焦げた臭いが残っている。つい先ほどまで、暖炉で何か燃やしていた痕跡だ。
それも、相当な量を。
(また、やったか)
彼女の直感が告げている。
ここにあったはずの何かが、今しがた消されたのだと。
おそらくは独断で行っていた工作の失敗報告か、不正蓄財の証拠か。
『赤い眼』はいつもそうだ。功を焦って勝手な真似をし、失敗すれば尻尾を切り、成功すればそれを手柄として報告してくる。
「局長」
「は、はいッ!!」
「少し、匂うな? 焦げたドブネズミの臭いだ」
ヴェーラが無表情で顔を寄せると局長の顔色から血の気が引いた。
「こ、これはその……機密保持期限の切れた書類を一斉処分しておりまして! 同志閣下をお迎えするにあたり、整理整頓を徹底しようと……!」
「ほう。整理整頓、か」
ヴェーラは局長の目の前まで歩み寄る。
大柄な熊系の東方人である局長だが巨獣に見下ろされているかのように縮こまっていた。
彼女は白い手袋をした手で、局長の肩についた煤をパンと払う。
「……証拠はない。ああ、ここにはもう何もないのだろう」
彼女は興味を失ったように視線を逸らした。
追及はしない。証拠隠滅を完遂した手際は評価してやる。だが――
「あまり、火遊びをするな。面倒を増やすな。――いいな?」
ヴェーラの口調に、ゾッとするような冷気が籠る。
局長はガクガクと何度も首を縦に振ることしかできない。
それを見た彼女は満足げに頷くと踵を返す。
扉の向こうへ消えていく銀色の髪と熊の耳、局長室に集められた全員が弛緩したように息を吐き出した。
廊下を歩きながら、ヴェーラは小さく溜息をつく。
(私も甘くなったものだな)
革命より十余年。未だ共和国内は反革命分子が燻ぶり西方には帝国主義者共がはびこるこの状況で、諜報機関の失態を見逃すとは。
ヴェーラの顔に、苦い笑いが浮かぶ。
――証拠がない? 証拠なぞ作り放題だ。
――疑わしきは罰せず? 疑わしきは即銃殺だ。
――反乱分子? 粛清しろ。
彼女がこの共和国を率いる総書記長になるまで、どれだけの敵を排除してきたことか。
しかし――それだけでは、人は従わない。
今後の国家運営を考えるならば、恐怖政治ではいずれ限界が来る。
粛清であたら優秀な人材を失えば、いずれ国力は衰退する。
ゆえにこの数年はよほどの失態を犯さない限り、更迭はあっても処刑は控えるように心がけているのだが――
(難しいものだ)
ヴェーラは再び溜息を漏らす。
彼女は多くのものを望んでいない。
ただ、報告と、連絡と、相談を求めているだけだ。
それはそんなにも難しいことなのだろうか?
恐怖政治の残滓は今もなお彼女に纏わりつき、共和国を覆い尽くしている。
皆、ヴェーラの顔色を伺い、ヴェーラの機嫌を取り、ヴェーラの意向を忖度し、ヴェーラの逆鱗に触れないように振る舞っている。
彼女が望んだのはそんなことではないのに。
望んだのはただ、共和国をより良くするため、より強くするための同志たちの団結。
しかし現実は、今日もまた彼女の与り知らぬ間に何かが隠蔽された。
身から出た錆と言えばそれまでなのだろう。
小賢しい小細工ばかり皆、上手くなる。
その事実が、ヴェーラの心に暗い影を落としていた。




