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幕間 とある傭兵のための福音歌 ~ケモおじ二人の珍道中~(後編)

 修道院を出た俺たちは、エルベ谷の街道沿いにある小さな村の宿に一泊することにした。

 宿といっても一階が酒場で二階に部屋が幾つかあるだけの素朴な造りだ。

 イリヤが宿の主人に宿代を渡し、部屋を二つ取った。


「飯にしようぜ。腹減った」


 イリヤはそう言って、さっさと一階の酒場の席に着いた。

 俺も向かいに座る。出されたのはエルベ修道院名物のチーズとビール。そして黒パンと豆の煮込みだった。

 質素だが、傭兵暮らしの舌には十分すぎる食事。


 黙々と食い、黙々と飲んだ。

 イリヤも何も言わなかった。

 酒場の喧騒が遠い。村人たちの笑い声と食器の音がどこか別の世界の出来事のように聞こえる。


 俺は考えていた。

 エルベ修道院。

 つい数週間前、この手で攻め落とそうとした場所。

 任務だった。ヘルマンシュタインからの依頼で、別動隊として修道院を制圧する。

 傭兵にとって契約は絶対だ。流儀として無抵抗の者を殺す趣味はないが、抵抗すれば殺すことに躊躇いはない。


 だが、修道院の門の前にたった一人で立ちはだかった女がいた。

 白い法衣を纏った司教にして、教会最強の戦力の一人――聖銃騎士リュシア・バルディーニ。

 あの女が聖銃を展開した瞬間、全身の毛が逆立った。

 戦士としての本能が叫んだ。勝てない。万に一つも。

 あの黄金の光の前に俺は躊躇いもなく剣を置いたのだ。


 あの判断は正しかった。軍事的には。

 だが今、別の意味でその判断を噛みしめている。


 もし降伏しなかったら。もしあの女司教がいなかったら。

 突入していたら。

 あの修道院の中に、自分の娘がいたのだ。

 知らないまま、自分の手で――


 俺は女神を信じたことはない。

 傭兵に信仰は縁がない。祈ったところで剣は止まらないし、女神は戦場に降りてこない。

 だが――もしこの巡り合わせに名前をつけろと言われたら。

 あの聖銃騎士に止められたことを、もし何かの導きだと呼ぶなら。

 ……神の思し召し、というやつなのだろうか。

 そんな柄でもないことを考えている自分がおかしくて、ビールを呷った。


「見直したぜ」


 イリヤの声が聞こえた。

 杯の縁から目だけを上げると、灰黒色の狼頭がこちらを見ていた。


「無理矢理連れてきた甲斐があったな」


 何を見直したのか、イリヤは言わなかった。

 名乗れなかったことを責めているわけでもなく。

 同情しているわけでもなく。ただ俺が娘と向き合ったという事実だけを肯定していた。


「……ああ」


 一言だけ返して、杯を空にした。

 明日、あの娘の福音劇とやらがあるらしい。

 見に来てくれと言われた。

 娘に、誘われたのだ。


「イリヤ。明日の仕入れだが」


「ん?」


「……追加で発注するものがあるんじゃないのか」


 イリヤは一瞬きょとんとして、それからくっくと喉を鳴らした。


「ああ、そうだな。チーズとビール、追加の仕入れがあったわ。いやー危ねえ危ねえ、忘れるところだった」


 白々しいにも程がある。

 だが、この男の白々しさに今日ほど救われたことはない。


「……世話をかける」


「聞こえねえな。もう一杯どうだ」


 イリヤが新しいビールを注いだ。

 断る理由はなかった。


 ※


 翌日。俺たちはまたエルベ修道院にいた。

 「チーズとビールの追加の仕入れ」とイリヤは言った。昨日あれだけ積み込んだのに追加が必要な道理はない。

 だが俺もイリヤも、その嘘に触れない。広場は前日とは打って変わった熱気に満ちていた。

 近隣の村からも観劇客が続々と押し寄せているようだ。

 俺たちは荷車を広場の隅に停め、その脇に背を預けて立っていた。


 客席に座るつもりはなかった。

 そんな資格はない。

 ただ遠くから見ていればいい。それだけで十分だ。

 やがて、小さな影がステージに飛び出してきた。


「みなさーん! こんにちはーー!!」


 猫耳の修道女。

 昨日、俺の前で満面の笑顔を見せた娘。

 母親と同じ色の目で、母親よりずっとまっすぐな光を放つ娘。

 歌が始まった。福音歌というらしい。

 女神の慈愛だの何だの、俺にはよく分からない。

 歌詞の意味も、旋律の良し悪しも、正直なところ判断がつかない。

 俺が知っている歌といえば、酒場で酔った傭兵どもが吠える下品な戦歌ぐらいのものだ。


 だが――声が、胸を打った。


 上手いとか下手とかではない。

 あの声には、戦場で何度も聞いた「死ぬ間際の人間の叫び」とは正反対のものが詰まっていた。

 生きている人間の声だ。

 生きていることが嬉しくてたまらない人間の声。

 周りを見れば、日に焼けた農夫が目尻を拭っていた。子供を抱いた母親が、静かに体を揺らしていた。

 俺が生きてきた世界には存在しなかった空気がそこにあった。


 ――ああ。

 この子は、俺なんかがいなくても、ちゃんと育ったのだ。

 父親の顔も知らず、母を病で亡くし、修道院に引き取られて。

 それでもこんな声で歌える人間になった。


 俺が教えられたのは剣の振り方と、戦場で死なない方法だけだった。

 この子にはきっと、俺が知らない何かを誰かが教えたのだろう。

 それが何であれ――俺よりよほど、まともなものだったに違いない。


 名乗らなくてよかった、と思った。

 俺が名乗ることで、あの光に翳りを混ぜたくない。


 いつか父親だと名乗る日が来るのかもしれない。

 だが、それは今日ではない。


 今はただ、この歌を聴いていたかった。

 最後の曲が終わり、万雷の拍手が谷に響く。

 アストリッドが深くお辞儀をして、それから満面の笑顔で叫んだ。


「みんな、だいすきーー!!」


 拍手の余韻が消えた後も、俺はしばらく動けなかった。

 広場では観客が屋台へ流れ始め、祭りの喧騒が戻ってくる。

 解体が始まった舞台を、ぼんやりと眺めていた。


 ――気が抜けていた。

 完全に、徹底的に。

 自覚はあった。だが、どうしようもなかった。

 あの歌を聴いた後の自分は、傭兵団の団長でも戦士でもなく、ただの――


「あら奇遇ね。イリヤ」


 傍らから声がした。

 振り向くと灰白色の狼耳と尻尾を持った少女――アッシュフィールド伯がメイドを連れて歩いてきた。

 イリヤが肩をすくめる。


 「よお、お嬢。あんたこそ奇遇だなこんな所で。俺は見ての通り修道院名物チーズとビールの買い付けだ。いやなにこいつは俺の思った以上にグレイヴィルで好評でな。仕入れたそばから飛ぶように売れやがる。これもお嬢のおかげというやつだな」


 俺は軽く一礼だけ返して、視線をステージの方に戻した。

 伯爵が何か皮肉めいたことを言っていたが、頭に入ってこなかった。

 あそこにさっきまで娘が立っていた。あの光が溢れていた。

 そんなことを考えていたら――


 ヒュン、と。風を切る音が耳をかすめた。

 反射で動いた。指先が金属の感触を挟む。人差し指と中指の間に、ナイフの刃が収まっていた。

 投げたのは、伯爵の傍に控えていたメイドだった。

 白い狼耳。無表情。小柄な体躯。

 その手から放たれたナイフは、俺の眉間を正確に狙っていた。


「……なんのつもりだ」


 声を絞り出した。

 心臓が跳ねている。ナイフそのものに対してではない。

 今の自分の反応速度にだ。

 指二本で止められたのは、長年の訓練が体に刻まれていたからにすぎない。

 もし頭で状況を判断してから動いていたら――間に合わなかったかもしれない。


「ん、隙だらけに見えたから……ちょっとした遊び心?」


 メイドは平然とそう返した。

 悪びれもしなければ、殺意があったわけでもない。

 ただ純粋に、「隙があったから試した」というだけの行為。


 ――見抜かれていた。

 俺がこの場で完全に気を抜いていたことを、このメイドは一目で看破した。

 護衛でも傭兵でもないただの間抜けがそこに立っていると。

 伯爵が慌てて取り繕い、何やら口上を述べているのが遠く聞こえた。

 メイドが「その力、リリアーネのために存分に発揮して頂戴」と涼しい顔で言い放つ。


 伯爵がメイドの腕を引っ張って足早に去っていく。

 後には、掌の中でじわりと温もりを持ち始めたナイフだけが残された。


「……恥ずかしい話だな」


 独り言を吐いて、ナイフを懐にしまった。

 イリヤが横で声を殺して笑っていた。


「何を笑っている」


「いやなに、天下の鉄の牙の団長様が、メイド一人に隙を取られるとはなあ。ま、あの嬢ちゃんはただのメイドじゃねえがな」


「……うるせえ」


 反論の余地がなかった。

 あのメイドはただ者ではない。

 投擲の精度、タイミングの選び方、何より殺気を完全に消したまま放ってきた技術。

 あれは護衛や兵士の動きではない。暗殺者のそれだ。

 伯爵がどこからあんな人材を拾ってきたのか知らないが、飼い犬の躾をしてくれと言いたくなる気持ちと、あの伯爵の手元にあれほどの駒がいることへの戸惑いが入り混じった。


 だが何より堪えたのは、あの一投が突きつけた事実だ。

 俺は隙だらけだった。

 娘の歌に心を奪われて、戦士としての警戒を完全に忘れていた。


 ――甘い。甘すぎる。

 名乗れもしない父親のくせに、歌を聴いただけで骨抜きになるとは。


 だが――あの歌を聴いた後で、警戒を怠らない人間がいたとしたら。

 そいつの方がよほどどうかしている。

 ……と、開き直るあたりが俺の限界なのだろう。


 ナイフを返しそびれたことに気づいたのは、エルベ谷を出た帰り道のことだった。

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