幕間 とある傭兵のための福音歌 ~ケモおじ二人の珍道中~(前編)
俺――ハーラル・ラグナルソンは酒に決して弱い方ではない。
傭兵団を束ねる団長が酔っ払って前後不覚になるなど恥もいいところだからな。
だが……この夜は飲みすぎた。
グレイヴィルの港近くにある酒場は、柄の悪い連中が集まる荒っぽい店だった。
その片隅で灰色の狼面の男――イリヤ・ヴォルージンと杯を重ねていた。
イリヤとはここ数週間の付き合いだ。
アッシュフィールド伯に雇われてからの俺たちの任務は、主にグレイヴィル周辺に出没する魔物の討伐、商人の護衛等――正規の領兵だけでは手薄になりやすい場所の穴埋めだ。
もっとも、新参かつ傭兵ゆえに領兵とは折り合いがつかないこともあるのだが、全体としては良好な関係だろう。
特に伯爵直属の即応部隊である灰狼とは、その任務の特性上合同での作戦を行う機会も多かった。
そういうこともありアッシュフィールド邸に何かと出入りしていると、同じく伯爵との繋がりが深い商人のイリヤとは顔を合わせる機会も増え、装備の調達でグレイハウンド商会との取引が自然と生まれる。
ゆえに歳も近いこの男とは面倒な建前を抜きにして酒が飲める仲になっていた。
裏社会に近い人間同士の、気楽な飲み相手。
そう呼べる相手は傭兵暮らしの中でも久しくいなかった。
だから油断した。
アッシュフィールド領の穏やかな空気につい気が緩んだのかもしれない。
五杯目を空にした時、自分でも予想しなかった言葉が口から零れ落ちた。
「……イリヤ。俺には娘がいる」
藪から棒に飛び出した俺の言葉にイリヤは目を丸くした。
※
俺には親がいない。
物心つく前には孤児で、傭兵団『鉄の牙』の先代団長ラグナルに拾われた。
剣の振り方も盾の構え方も戦場で生き残る術も、すべてはあの男から叩き込まれた。
ハーラル・ラグナルソン。ラグナルの息子ハーラル。血ではなく技で繋がった親子。
十数年前、ノルドヘイムの辺境の村で護衛契約を受けた。
期間は一年。その間村に定住し、魔物や野獣、賊から守ってほしいと。
辺境の村にしては金払いがいい仕事で、俺たちはその村に腰を落ち着けることにした。
まだ二十そこそこだった俺は、そこで一人の女と出会った。
素朴で、穏やかで、俺が知らなかった種類の優しさを持つ女だった。
一年間の契約が終わる頃には離れ難い関係になっていた。
だが、団を抜ける選択は取れなかった。
義父も、仲間たちも、俺が団を抜ける選択を取れば快く送り出してくれていただろう。
自分を拾い、育て、名を与えてくれた義父への義理。
“鉄の牙”という居場所を捨てることは、半身を切り落とすのと同じだった。
――必ず帰ってくる。
そう言って村を出た。
それきりだ。
その後、義父ラグナルは戦場に散り、俺が団を引き継いだ。
東方の帝国が革命で揺らいだことで飯の種に困ることはなかった。
ようやく余裕ができて村に戻ったころには村は流行り病で壊滅していた。
妻も流行り病で命を落としていた、と生き残りの村人に聞かされた。
そして村人は続けた。俺が去った後、妻は娘を産んでいたと。
運良く流行り病から逃れた娘は、母の死後エーデルガルドの修道院に引き取られていた。
名前はアストリッドだという。
手がかりもなく、探す術も持たない俺はあわよくば娘と再会できることを頭の片隅に留め、戦場を渡り歩いていた。
「…………」
そこまで喋って、口を閉じた。
喋りすぎた。酒の勢いとはいえ、こんな話を他人にしたのは初めてだった。
イリヤは黙って聞いていた。
茶化すでもなく、同情するでもなく。
灰黒の耳だけがぴくりと動いたのを、酔った目でもかろうじて見て取った。
「……ノルドヘイム出身で、修道女やってて、名前はアストリッド」
「……ああ」
「あー、なんだ。お前の娘の名前、もう一回言ってくれんか?」
「アストリッドだ。それがどうした」
イリヤの目が変わった。
「俺、たぶん知ってるぞ。その娘」
杯を持つ手が止まった。
心臓が一つ跳ねて、酒で鈍っていたはずの頭が一気に冴えた。
「……何を言っている」
「ノルドヘイム出身、猫耳のシスター、名前はアストリッド。エルベ修道院で福音劇ってのをやってる嬢ちゃんがいてな。同じの名前の他人って線もなくはないが」
エルベ修道院。
その名前を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
つい数週間前のことだ。俺は「鉄の牙」を率いて、その修道院を攻めようとした。
ヘルマンシュタイン伯爵からの依頼。別動隊として手薄な修道院を制圧しろ――
「確証はあるのか」
「ねえよ。だから"たぶん"って言った。だがな――」
イリヤが杯を置き、俺の目を真っ直ぐに見た。
そして目の前の狼面の男は聞くに堪えない小芝居を始めた。
「ああ困った困った。エルベ修道院にチーズとビールの買い付けに行かなきゃならんのだが、若い衆はみんな出払っちゃってなー、しょーがーねーな、俺自ら行かなきゃなんねーなー」
突然何を言い出すんだこの男は。
白々しくわざとらしい声と身振りで一方的にまくし立てるイリヤ。
「おっと、ちょうどいい。護衛にぴったりの腕利きがいるじゃねえか。なあハーラルさんよ、暇してるなら荷運びに付き合ってくれや」
「……なんの茶番だ」
「いちいち言わせんなよ。娘かもしれねえ女に会わせてやるってんだ」
その言葉に俺は沈黙するしかなかった。
目を伏せる。
心臓がうるさい。戦場の前夜でもこんなことにはならない。
会ってどうする。
名乗れるのか。名乗る資格があるのか。
妻を置き去りにして、娘が生まれていたことすら知らなかった男が十数年経って「俺がお前の父親だ」と言えるのか。
――言えるわけがない。
「…………」
「おい、まさかビビってんのか? 歴戦の傭兵団長さんともあろう者が」
黙っている俺に、今度は挑発を始めるイリヤ。
……くそ。
こういう言い方をされると、黙ってはいられない性分なのを分かっていて言っている。
「……荷車はどこだ」
それだけ言って立ち上がった。
イリヤは耳を小さく揺らし、ほくそ笑むと杯を飲み干して席を立った。
※
数日後、俺たちはエルベ修道院に赴いていた。
荷物の積み込みは手早く終わった。
チーズの木箱とビールの樽を荷車に載せる。仕入れ自体は嘘ではない。手を動かしている間は余計なことを考えずに済む。
千々に乱れる心を落ち着かせるために黙々と積み荷を運ぶ。
これも剣を振る鍛錬と同じだと自分に言い聞かせながら。
だが、何度も視線が修道院のビール工房に向けられるのはどうしようもなかった。
工房を出入りする修道女たち。その中に本当に娘がいるのかどうか。
積み込みが終わった時、イリヤが俺の腕を叩いた。
「おい、あれ」
工房内で、修道女がビール樽を相手に格闘していた。
長い木べらで中身をかき回しながら、鼻歌を口ずさんでいる。猫耳がリズムに合わせてぴこぴこと動いていた。
小柄な体。黒い修道女のヴェールから覗く金色の髪。
振り返った拍子に見えた顔に、息が止まった。
目元が同じだった。
笑うと頬にえくぼが出るところも。
あの村で、毎朝竈に火を起こしながら歌っていた妻の面影が、十数年の時を越えてそこにあった。
「……間違いない」
言葉が勝手に出た。
間違えようがなかった。自分の目の前にいるのは、あの女の娘だ。
――俺の娘だ。
「どうだ?」
イリヤの声は静かだった。
俺は踵を返した。
「荷物は積み込んだ。帰るぞ」
「おいおいおいおい! ここまで来てそれはねえだろ。誰も今ここで自分が父親だって告白しろなんて言ってねえよ。なんでもいいから話でもしてこいよ」
「……しかし」
「しかしもクソもあるか。ビールとチーズ買い付けに来た商人が修道女に挨拶する。それだけのことだろ。自然だろ? 不自然か? 不自然じゃねえだろ。ほら行け!」
半ば引きずられるようにして工房の中に入ってしまった。
こんな不格好な歩き方をしたのは生まれて初めてだった。
初陣で敵を前にしても動じなかった足が、今は自分のものとは思えないほど重い。
「あ! グレイハウンド商会さん!」
猫耳の修道女が、イリヤの姿を認めて駆け寄ってきた。
「買い付けありがとうございます! 今回のビール、自信作なんですよ!」
「おう、いつも助かるぜ嬢ちゃん。今日は連れがいるんだ。鉄の牙のハーラル団長。伯爵様に雇われた傭兵だよ」
猫耳がこちらに向いた。大きな目が俺を見上げてくる。
近くで見ると面影どころではなかった。
あの妻が、そのまま十代の姿で目の前に立っているような錯覚すら覚えた。
「はじめまして! シスター・アストリッドです!」
満面の笑顔だった。太陽みたいな、という陳腐な形容しか浮かばない。
だがそれは、あの女にはなかった光だ。
母親よりもっとまっすぐで、もっと強い。
声が出なかった。
傭兵として幾つもの戦場で鬨の声を張り上げ、団員たちを鼓舞し続けた声。
それがこんな小さな娘の笑顔一つでまともに動かなくなる。
「……ハーラルだ。ハーラル・ラグナルソン」
絞り出すのがやっとだった。
その名前を聞いた瞬間、猫耳がぴくんと跳ねた。
「えっ、その名前! 傭兵さんもノルドヘイムの人なんですね!」
「……ああ」
「奇遇ですね! 私の本名はアストリッド・ハーラルスドッティルって言うんです!」
ハーラルスドッティル。ノルドヘイム特有の姓。
他の国のように姓は家族の名でなく、父の名を姓とする。
意味は――ハーラルの、娘。
「私のお父さんもハーラルって言うんですよ! すごい偶然!」
胸を貫かれた。娘は顔も知らない男の名を父の証として刻んでくれていた。
お前の母は俺の名を刻むことを選んだのだ。
帰ってこなかった男の名をそれでも娘に託したのだ。
恨んでいなかったのか。
「必ず帰る」と言って去った男を、最後まで待っていてくれたのか。
答えはもう永遠に聞けない。答える人間は、この世にいない。
イリヤは数歩後ろで空を見上げていた。
こういう時、この男は何も言わない。
「……お前の父親は、どこに」
絞り出すように声が出た。
「……わかりません。亡くなったお母さんは、お父さんは傭兵をしていたと言ってましたが……」
笑顔がほんの少しだけ翳った。
だがすぐに、弾けるような明るさが戻る。
「ハーラルさんは傭兵さんなんですよね!? 同じ名前の傭兵さんを知りませんか!?」
期待に満ちた瞳が、真っ直ぐに俺を見上げている。
母親と同じ色の目だった。
言えば済む。
俺だ。俺がお前の父親だ。たった一言で終わることだ。
だが――
「……いや。すまん、聞いたことがないな」
嘘だった。
世界で一番よく知っている男の名前を、知らないと言った。
妻を置いて去り、娘の存在すら知らずに生きてきた男が、今さら父親を名乗る資格など――あるわけがない。
「そうですか……」
猫耳が少しだけ伏せられた。
その姿に、心臓を握りつぶされるような痛みが走った。
だが次の瞬間、アストリッドはぱっと顔を上げた。
「あ、すみません! 初対面の方にこんな話してしまって!」
「……構わない」
「そうだ! 明日、私の福音劇があるんです!」
猫耳がヴェールの下でぴんと立ち、両手が握りしめられる。
「よかったら是非見に来てください! きっと楽しいですよ!」
何も返せなかった。
イリヤが横から「おう、予定が合えばな」と軽く受けてくれなければ、俺はあの場で立ち尽くしたままだっただろう。




