第50話 決戦!? 叙爵式(前編)
聖暦1090年四の月二十日。叙爵の儀当日。
私は姿見の前で最後の身なりを確認する。
ヴェルナーが仕立てさせた黒の礼装は、アッシュフィールド家の紋章である銀糸の狼が胸元に刺繍されていた。
「……うん。大丈夫」
大丈夫――なはず。
五日間、ステラと繰り返した練習の成果を信じるしかない。
あの粗末な椅子の玉座と火掻き棒の剣で何度も何度も繰り返した所作は、もう体に刻まれている。
「リリアーネ。馬車の用意ができた」
階下からステラの声が聞こえた。
一つ深呼吸をして、階段を降りる。
玄関ホールに立つステラは、いつものメイド服に外套を羽織った姿。
昨日まで礼装を纏い玉座に座っていた皇女の面影はどこにもない。
でも、その目だけが「準備はいい?」と静かに問いかけていた。
「行きましょう」
「ん」
馬車に乗り込み、屋敷を後にする。
貴族街から王宮までの道のりが今日はやけに短く感じた。
※
王宮の正門前に着いたのは正午の鐘が鳴る少し前だった。
門前で馬車を降り、衛兵に書状を示す。
「アッシュフィールド領主リリアーネ。叙爵の儀に参ります」
「お待ちしておりました。ご案内いたします」
ここからは私一人で謁見に臨む。
従者は謁見の間には入れない。ステラは王宮敷地内の控えの間で待機することになる。
「行ってくるわ」
「……あなたなら大丈夫」
短い言葉。でもそこに込められた確信が背筋を支えてくれた。
ステラと別れ、案内の衛兵に従って王宮の回廊を歩く。
たった一人の王宮の行進。
当たり前のことだけれど、ここ半年ずっと傍にいた影がない。
背後にステラの気配がないだけで、こんなにも心許ないものかと思い知らされる。
(――でも、一人で歩けなくてどうするの)
心細くとも背筋を伸ばして前を見つめて私は進む。
アッシュフィールド伯爵としてこれから先、何度もこういう場で一人で立たなければならないだろう。
その予行演習と思えば、緊張よりもむしろ高揚感の方が勝っていた。
回廊の先に、重厚な両開きの扉が見えた。
謁見の間。
「アッシュフィールド領主リリアーネ様、ご入場」
――扉が開かれた。
謁見の間は、広かった。
天井は高く、両側の柱が列をなし、奥の高座に据えられた玉座までまっすぐに赤い絨毯が伸びている。
窓から差し込む光の帯が、埃の粒子を金色に染めていた。
だが――その広さに比して、人は明らかに少なかった。
両脇に並ぶ参列者は目算でざっと三十人ほどか。
叙爵の儀としては寂しいと言わざるを得ない数だ。
王の鶴の一声によって前倒しで行われることになったこの叙爵の儀。
地方在住の私と同格の諸侯たちとは調整が間に合わず、参列が叶わなかったのだろう。
だから、ここに集まっているのは王都在住の下級貴族と、その随行者たち。
そして――参列者の中に、明らか他とは一線を画する人影が二つ。
一人は、壁際に立つ巨躯の男だった。
白髪交じりの短髪に、古傷の残る厳しい面構え。
腕を組み、壁際の席に水面のように静かに佇む姿。
礼装よりも軍装のほうがずっと似合うだろうその男は、先日訪れたブラックウォール領の城に並ぶ肖像画の最も新しい顔。
――エルウィン・ガレス・ブラックウォール公爵。
彼が私と目が合ったのは一瞬だけで、小さく顎を引いて会釈を返した。
それだけだった。それだけなのに、あの巨体から発せられる無言の圧が、謁見の間の空気を一段引き締めていた。
もう一人は対照的に、にこやかな笑顔を湛えて中央寄りの席に腰を下ろしている。
ふくよかな体躯に柔和な顔立ち。人当たりの良さそうな雰囲気を全身から発散させている男。
――ヴィルヘルム・オイゲン・バルモア公爵。四大公爵の筆頭にして王国最大の穀倉地帯の支配者。
私の入場に気づくと、彼は柔らかく微笑んだまま小さく手を挙げてこちらに応じた。
あの微笑みは歓迎ではない。私がいかなる立ち振舞を見せるか品定めしている微笑み。
そして――赤い絨毯の突き当たり。
高座の玉座に腰を下ろす人物。
金の髪に青い瞳。顔立ちこそは誰が見ても美男子と呼べる男。
赤と金の衣に身を包んだ若き王――ジークハイト・アルベリヒ・エーデルガルド
ステラが「怯えの目」と評した男の視線が、真っ直ぐに私を見下ろしていた。
私が一歩を踏み出した瞬間、参列者の間にざわめきが波のように広がった。
(……来た)
背後と左右から、囁き声が耳に届く。
「あれがアッシュフィールドの……」
「ほう、耳付きとは聞いていたが、あんな娘っ子とはな」
「しかし、ヘルマンシュタインを屈服させたのだろう? 見た目で侮るなよ」
「教会を抱き込んで勝手に和睦したと聞いたが……やり手なのか無礼なのか」
「耳さえなければ器量も悪くはないのだが」
聞こえている。全部聞こえているわよ。
品定め。値踏み。物珍しさ。侮蔑。わずかな敬意。
それらが混然一体となって私の背中に張り付いてくる。
でも――足は止めない。
一歩、また一歩。ステラに叩き込まれた歩幅で、赤い絨毯を踏みしめる。
(背筋を伸ばせ。肩を開け。顎を引け)
あの埃っぽい執務室で何度も何度も繰り返した足運び。
火掻き棒の剣で肩を打たれた感触。
ぶかぶかの礼装を着た元皇女が教えてくれたこと。
『跪くときこそ、あなたの誇りが試される』
玉座の前、五歩の位置で止まる。
右膝をつき、首を垂れた。
膝をつく音が、静まりかえった謁見の間に小さく響いた。
――沈黙。
「アッシュフィールド伯爵リリアーネ。面を上げよ」
ジークハイトの声が静寂を打ち破った。
若く、よく通る声だ。王の器にふさわしいかはともかく、声は立派だった。
顔を上げる。
玉座のジークハイトと目が合った。
金色の瞳。整った顔。その奥にある怯えを虚勢の膜が覆い隠している。
「汝、リリアーネ・アッシュフィールドに問う。アッシュフィールド伯爵家の当主として、王と王国への忠誠を誓うか」
「誓います。我、リリアーネ・アッシュフィールドは、王の御前にてアッシュフィールド伯爵の位を拝命し王と王国への永遠の忠誠を此処に誓います」
声は謁見の間の隅まで届いた――はずだ。腹から出せとステラに何度も直された甲斐があった。
ジークハイトは玉座から立ち上がり、侍従から儀礼剣を受け取った。
一段、二段と降りてきて私の正面に立つ。
剣が持ち上げられ――右肩に冷たい金属の感触が触れた。
ステラの火掻き棒とは違う。本物の剣は重く、冷たく、そしてどこまでも無機質だった。
あの時、ステラの手は震えていた。父である皇帝の記憶をなぞるように、小さく。
この王の手は震えていない。当然だ。彼にとってこれは義務であり、儀式であり、ただの作業だ。
そこに何の想いもない。
「右肩に剣を受けし者、アッシュフィールド伯爵リリアーネ。汝の忠誠、王は確かに受け取った」
剣が離れた。
形式通りの言葉。形式通りの儀式。
これで私は正式に、アッシュフィールド伯爵として王国に承認されたことになったのだ。




