第49話 滑稽で尊い二人だけの叙爵式
翌日の朝、寝室のドアをノックする音で私は目覚めた。
寝間着のまま、眠たい目をこすりながらドアを開けると、丸めた羊皮紙を封蝋で留めた書状を持つステラがいた。
「王宮からの使者がさっき来て、今受け取った」
封蝋が付いた羊皮紙の書状――それは普段使う紙の書類と違い、公文書であることを表すものだった。
つまり、王家から直々に出された何かの決定を知らせる文書ということになる。
「もしかして叙爵式の日取りが決まった……?」
思っていたよりずっと早い。一ヶ月は放置されると踏んでいたが、一転しての通達だ。
「と、とにかく開けるわよ」
王家の獅子の紋章を模した朱色の封蝋を切る。
そして丸められた羊皮紙の書状をテーブルに広げた瞬間、眠気が吹っ飛んだ。
「――五日後?」
書状には簡潔にこう記されていた。
『四の月二十日。王宮大広間にて、アッシュフィールド領主リリアーネの叙爵の儀を執り行う。当日は正午までに王宮正門に出頭すること』
「早くて十日って言ってたのに、まさか前倒しで五日後って……」
「早いの?」
「早いわ。宮内府の事務手続きを考えたら異例の速さよ」
つまりこれはジークハイトの意志だ。
官僚の事務処理速度では説明がつかない早さ。王が「急げ」と命じなければこうはならない。
遅らせて焦らす嫌がらせ、そう予想していたが読み違えた。
――少し考えて、ああ、と腑に落ちた。
取るに足らない辺境伯を放置するという行為自体が、逆に相手を意識していることの証になる。
ジークハイトのプライドはそれを許さなかったのだ。
何かと王家の不興を買っているアッシュフィールドであるが、「余はこの程度の小事に拘泥するような器の小さい男ではない」――そう示すために、むしろ積極的に叙爵を前倒しにした。
寛大な王として振る舞うことで自分の優位を確認したい。
嫌がらせでもなければ優遇でもない。ただ単に手前勝手なプライドを守るためだけの選択肢。
そういうところやぞ、ジークハイトよ。そういうところが器の小ささの証明なんだって。
「……なるほどね」
「まずい状況?」
「いいえ、逆よ。遅らせるより早める方がジークハイトらしい。彼なりのプライドの表れだわ」
天井を見上げ、私はふうと息を吐いた。
五日後――
心の準備が全くできていないかと問われれば――正直に言えば、もう少し猶予が欲しかったと答えるしかない。
礼装はヴェルナーが仕立てさせたものを持参してある。そこは問題ない。
叙爵の作法も貴族の娘として一通りは学んでいる。
ただ、知識として知っていることと、実際に王の前でそれを滞りなく行えることの間には果てしない溝がある。
本番は一発勝負。しくじれば恥をかくのは私だけじゃない。アッシュフィールド家全体の面子に関わる。
ジークハイトの野郎~! 準備不足の私がトチって公然で醜態を晒すのを期待するのが見え見えなんだから!
「そうはいくか、と言いたいところだけど……練習、しないとまずいわね」
「跪く練習?」
「それもあるけど、一連の流れを通しでやっておきたいの。入場、跪き、宣誓、剣の拝受……全部含めて。でも一人だけでの練習だと、どこか間違っていても分からないし……」
言いかけて、口を閉じた。
この先の言葉を出すべきかどうか、迷ったからだ。
誰か相手が必要。それは明白な事実だ。
そして今この屋敷には私とステラしかいない。
消去法でステラに行き着くのは必然――だけど。
叙爵の儀の練習相手。つまり「王の役」を演じるということ。
宮廷の所作を知っていて、儀礼の骨格を理解している人間。
ステラにはその素養がある。皇女ユースティアとして幼い頃に叩き込まれた宮廷教育がある。
だからこそ――頼めない。
それは彼女に、革命で奪われた世界をもう一度なぞれと言うのと同じことだから。
沈黙。
私が黙っている理由を、ステラも察しているのだろう。
「……リリアーネ」
先に口を開いたのはステラだった。
私の顔を見ず、自分の手の甲を見つめている。
「言いたいことがあるなら言って。何に気を遣ってるのかは……分かってるから」
見透かされている。
いつからだろう、この子は私が言葉にする前に私の逡巡の形まで読めるようになっている。
「……ごめん。甘えていいなら、あなたにお願いしたい。でも――」
「でも、私に宮廷の真似事をさせるのは酷だと思ってる?」
図星を突かれて、言葉が詰まった。
ステラの白い耳が一度伏せられ――そしてゆっくりと、持ち上がった。
「……いいよ、やろう」
声は静かだった。震えてはいない。
でも、その言葉を口にするまでに飲み込んだものの重さが声の輪郭ににじんでいた。
「ステラ……」
「あなたが気を遣って頼めないなら、私から言う。そのほうが楽でしょう」
ぶっきらぼうな物言い。いつもの「ステラ」の口調。
でもその目だけが、少しだけ遠くを見ていた。
ここではないどこか――もう存在しない宮殿の回廊を、一瞬だけ見つめたように。
「帝国式とエーデルガルド式は細部が違うはず。でも宮廷儀礼の骨格は共通してるから、あなたが学んだエーデルガルドの作法と擦り合わせれば、形にはなると思う」
声は平静だった。
でも、自らの身体を抱きしめるように組んだ腕の肘が、僅かに震えていた。
淡々とした言葉。実務的な提案。
でも私にはわかる。
ステラが今、どれほどの逡巡を飲み込んでこの言葉を口にしたか。
「本当に、いいの?」
「うん」
短い返事。いつものステラの声だった。
でも――頷く前のほんの一瞬、彼女の白い耳が揺れたのを私は見逃さなかった。
※
「リリアーネ、練習は礼装を着てやろう」
「そうね、そのほうが本番っぽさが出ていいかもしれないわ」
「確か、もう一着予備があったはず――私も、礼服で立ち会うから」
「えっ……」
ステラから飛び出た意外な言葉だった。
てっきりステラはメイド服で王役をやるつもりだと思っていたから。
私は静かに頷いて寝室の衣装箱から、私が身につける礼服の予備を取り出しステラに渡す。
私用に仕立てられているため、私よりも小柄なステラには少しサイズが大きいが、そこは仕方がない。
「………」
ステラは差し出された黒い礼装をしばらく無言で見つめていた。
受け取る手が、一瞬だけ止まった。
「……二度と袖に腕を通すことはないと思ってた」
小さな声だった。
私に聞かせるつもりだったのか、独り言だったのか。
ステラ自身にも分かっていないような、曖昧な呟き。
宮廷の礼装。
皇女ユースティアにとって、それは日常の一部だったはずだ。
儀式の度にあつらえられた絹の衣。それを纏い宮殿の回廊を歩く白銀の少女。
暗殺者の装束。メイドの制服。潜伏先で身につける質素な衣類。
それが彼女のここ数年の「衣服」だった。
礼装とは最も遠い場所に生きてきたステラが、今、私という主人の練習相手として再びそれに袖を通そうとしている。
「じゃ、私は執務室で着替えて待ってるから」
「わかった」
意を決したようにステラは礼装を私から受け取ると、私は一足先に執務室で自分が持参していた礼服に着替えた。本当ならステラ共に着付けや化粧などを施し、何十分もの時間をかけて完成させるところなのだが、今日はそこまでする必要はないので簡略的に仕上げていく。
そして十数分後――執務室の扉がコンコンとノックされた。
「……入るけど。笑わないで」
昨日みたいな少し上ずった声が扉越しに聞こえる。
笑わないよ。あなたが私のためにしてくれていることを、私はちゃんとわかっている。
そして――ゆっくりと扉が開かれて、私は息を飲んだ。
サイズは明らかに大きいのに、不格好さをまるで感じさせない立ち姿のせいだった。
まるでその黒衣を着こなすのが彼女にとって当然であるかのような自然体。
背筋はまっすぐで、余った袖を自然な所作で折り返し、裾を踏まないように一歩を踏み出すその足運びに迷いがない。
顎の角度、肩の開き方、視線の据え方。
サイズの合わない借り物の礼装なのに、纏っているのは紛れもなく――宮廷で生きてきた人間の身のこなしだった。
「ステラ……」
「何? やっぱり変?」
「ううん。似合ってるわよ。さすが皇女様というか」
「やめてよ、そういうの」
恥ずかしそうに顔を背けるが、その頬にほんのりと赤みが差していたのは気のせいではないだろう。
「……じゃあ、始めましょう」
落ち着いた大人の声で、ステラは言った。
※
執務室の中央に椅子を一脚置く。
椅子が玉座、執務室が謁見の間の代わりだ。
執務机には儀礼用の剣に見立てて、暖炉から持ってきた火掻き棒を置く。よし、小道具はこれで準備完了。
「まず入場から。あなたはここから歩いて、椅子の五歩手前で止まる。それから?」
「右膝をついて跪く……だったわ」
ステラは小さく首を傾げた。
「帝国式は左膝だった。やはり細かいところで違うのね」
「エーデルガルドでは右膝って習ったわ。独立後に帝国式と意図的に変えたのかもしれないわ」
「ありえる。旧宗主国の作法をそのまま使いたくなかったのね」
白狼の血を徹底的に薄めてきた王家が、それでもなお意識してやまない“古き盟主”たるヴァリャーグ帝国。
エーデルガルド王家は私のような辺境伯爵では計り知れない帝国へのコンプレックスを抱えてきたのだろう。
そんな帝国も革命で瓦解した現代、歴史というものはどう転ぶか本当に分からない。
間違えてジークハイトの前で帝国式の所作をやってしまわないよう、徹底的にステラと意見を交わし、所作について擦り合わせる。
「こんなものかしらね。リリアーネ、一度通しでやりましょう」
そう言ってステラは玉座に腰を下ろす。
その瞬間、空気が変わった。
借り物のサイズの合わない礼装。
質素な木の椅子。
部屋の片隅に埃がまだ残る執務室。
謁見の間と見立てるにはいささか粗末な舞台装置。
なのにステラが椅子に座った途端、そこに確かな「格」が生まれた。
膝の上に手を置き、背筋を伸ばし、顎を引いて正面を見据える。
その目はステラのものではなかった。
かつて帝国の宮廷で帝王学を学ぶはずだった、ユースティアとしての眼差し。
私は一礼して入室し、五歩進んだところで静かに止まり、右膝をついて首を垂れた。
そして――その時初めて自分の手が震えていることに気がついた。
この空間に生まれた確かな「格」を、本能的に悟っていた。
「背中が丸い。肩がこわばっている」
ステラの声が、いつもより低く、落ち着いていた。
ユースティアの声だ。
「跪くときこそ臣下の忠誠が試される。王に対して卑屈になってはいけない、あなたの誇りと家名がこの膝と肩先の角度で推し量られる」
「……はいっ!」
言葉の途中で気圧されたことを自覚した。
普段とは違う腹の底に響く声。
彼女は今、自分の中の皇女としての教育を全て解放しているのだ。私のために。
「……もう一度」
私は立ち上がり、もう一度入場からやり直した。
五歩。止まる。右膝。背筋を伸ばしたまま頭を下げる。
「そう。それでいい」
短い肯定。でもその声には確かな重みがあった。
「次は宣誓」
「『我、リリアーネ・アッシュフィールドは、王の御前にてアッシュフィールド伯爵の位を拝命し――』
「声が小さい。謁見の間は広いから、意識して腹から出さないと届かない」
「う……」
ステラの指導は的確で、容赦がなかった。
背筋、目線、声量、手の角度、跪く速度、立ち上がるタイミング。
一つ一つを丁寧に、しかし妥協なく修正してくる。
何度目かのやり直しの後、ようやく剣の拝受に辿り着いたときには、私は軽く息を切らすほどになっていた。
ステラは儀礼剣代わりの火掻き棒を持って立ち上がり、私の正面に立った。
「王が剣を肩に触れさせる間、あなたは微動だにしないこと。そして王の目をまっすぐ見つめること。この瞬間だけは王と臣下が対等に向き合える一瞬」
対等に向き合う一瞬。
あのジークハイトとその瞬間を共有するのかと思うと、なんとも複雑な気分だ。
ステラが火掻き棒を持ち上げ、私の右肩にそっと触れさせた。
その手が、震えていた。
ほんの微かに。他の誰かなら気づかないほどの揺れ。
きっと――彼女の父親がこうやって臣下に爵位を授ける光景を、傍らから見たことがあったに違いない。
その記憶をなぞりながら私に触れている。
その手に、どんな想いが込められていたのか。
「……ごめん。手元が狂った」
「狂ってないわよ。完璧だった」
ステラは火掻き棒を下ろし、ふう、と小さく息を吐いた。
その顔を見て私はそれ以上何も言わなかった。
彼女が今どれだけの過去と折り合いをつけながら、この椅子に座っているのか。
その重さを軽々しく言葉にするべきじゃない。
「……もう一度、最初から通しでやりましょう」
ステラが顔を上げた。
目の中に、一瞬だけ揺らいでいた光はもう消えていた。
代わりに、静かな覚悟が座っている。
「ん。何度でも付き合う」
その声はステラだった。
私たちは日が暮れるまで何度も何度も叙爵の儀を繰り返した。
粗末な椅子の玉座と、埃っぽい執務室の謁見の間。
ぶかぶかの礼装を着た元皇女と、跪く練習をする悪役令嬢。
傍から見れば滑稽な光景だろう。
でもこの日の稽古を、私はきっと一生忘れない。




