第46話 喪失と自覚、埃まみれの屋敷で迎える誕生日
日が傾き夜の帳が周囲を覆い始めたころ、ようやく一階の台所、二階の寝室と執務室が使える状態になった。
屋敷全体としては完璧とは言い難いが、少なくとも寝泊まりと最低限の生活はできる。
「はー……疲れた……」
執務室兼客間のソファにどさりと身を投げ出す。全身が埃っぽくて、腕が棒のようだった。
伯爵令嬢が這いつくばって雑巾がけをした挙句、ソファに大の字で転がっている図。
社交界デビュー前にこんな姿を見られたら終わりだ。
――今日は、四の月十二日
私、リリアーネ・アッシュフィールドは十七歳の誕生日を迎えていた。
前世の自分の誕生日がいつだったかは、もうぼんやりとしか思い出せない。
何月だったかは覚えている。でも何日だったかが出てこない。
ケーキがあって、誰かから「おめでとう」と言ってもらえる日だったことは覚えている。
でもそのケーキがどんな味だったか、祝ってくれた人の顔がどんなだったかが、もう霞がかかったように曖昧だ。
前世の記憶を取り戻してからまだ半年しか経っていないのに、少しずつ、薄れている。
ゲームの知識や歴史の知識――つまり「この世界で生き延びるために必要な情報」は鮮明なままなのに。
消えていくのは、そうじゃない方の記憶。
友達と笑い合ったこと。お気に入りだった帰り道の景色。仕事終わりに寄ったコンビニの灯り。
生き延びるのには何の役にも立たない、でも確かに私を私たらしめていた他愛のない日常の欠片たち。
そして――前世の自分の名前。
思い出そうとして、出てこなかった。
喉の奥から出て来て、舌を撫でているぐらいには出かかってるのに、言葉にして掴もうとすると霧のように散ってしまう。
ああ、そうか。もう忘れたんだ。
この世界では誰も呼ばない名前。誰にも必要とされない名前。
だから記憶の棚卸しの中で真っ先に手放されたのだろう。
そういえば、自分がどうやって死んだのかも思い出せない。
病気だったのか、事故だったのか。痛かったのか、苦しかったのか。
前世の終わり方すら、もう霧の向こう側になってしまった。
名前と死因――かつての自分が何者だったかと、どう終わったか。
その両端が先に消えて、真ん中の暮らしの断片だけがまだ微かに残っている。でもそれもいずれは薄れていくのだろうか。
それが怖いかと問われれば――半分だけ、と正直に答える。
あの世界で生きていた自分が、少しずつ溶けて消えていくような感覚はやっぱり寂しい。
でも、もう半分の自分は思うのだ。
それでいいのかもしれない、と。
私はもう、あの世界には帰れない。帰る方法もなければ帰りたいと願ったところで誰も迎えに来てはくれない。
だったら――この世界で生きていけばいい。
この人生は前世のロスタイムではなく、私の新たな一本目の人生なんだと。
異物ではなく。
余所者でもなく。
この世界の住人として。
――リリアーネ・アッシュフィールド
真面目で穏やかな老執事。口の悪い聖女。お人好しなヤクザ。太陽みたいなシスター。
そして、いつも隣にいてくれる白い影。
この世界の人たちが呼んでくれる名前で、私は今日まで生きてきた。
だったら――前世の名前を忘れたことは、きっと喪失じゃない。
私がこの世界の異物ではなく、この土地に根を下ろし、この世界の住人として生き始めた証なのだ。
だからこそ、今日この日を祝ってくれる人がいなくても構わないと思った。
前世の誕生日はもう私のものじゃない。
今日はリリアーネの誕生日。この世界での十七年目の始まりの日。
そして今日、私がリリアーネとしてのアイデンティティを自覚した日。
それだけで十分だ。
――そう自分に言い聞かせたのは、少しだけ寂しかったからかもしれないけれど。
ふと気づくと、ステラの姿がなかった。
さっきまで一緒に掃除をしていたはずなのに、いつの間に消えたのか。
彼女は本当に気配を消すのが上手い。
「ステラー?」
返事がない。
まあいいか、と目を閉じてうつらうつらしていると――
「リリアーネ」
ステラの声に目を開けた。
執務室に入ってきたステラの手には、木の盆。
その上に――温かい湯気を立てるスープの皿がふたつと、不格好に厚切りにされたパンと、小さなチーズの塊。
そして盆の隅に、野の花が一輪。
淡い紫の小さな花が水を張った杯に挿してあった。
「……ステラ?」
「道中の残り物で作っただけ。スープは乾燥豆を煮ただけだし、パンも今朝の余りだから期待しないで」
淡々とした説明。目を合わせようとしない。
尻尾だけが微かに揺れている。
「花は?」
「……庭に咲いてた。雑草だけど」
「いつ摘んだの?」
「掃除中にたまたま見つけただけ」
たまたま。掃除中に。見つけただけ。
嘘おっしゃい。あんた掃除中ずっと私と一緒にいたでしょうが。
「……で、まあ」
ステラは盆をテーブルに置きながら、どこか居心地悪そうに付け足した。
「今日、誕生日でしょう」
「――覚えてたの?」
「当たり前。あなたの身辺情報は全部頭に入ってる。元工作員だから」
元工作員だから。
その言い訳がおかしくて、嬉しくて、危うく泣きそうになった。
「出立前にヴェルナーにも念を押された。『お嬢様の誕生日を忘れてはなりませんよ』って」
「ヴェルナーったら……」
ダメだ。目頭が熱い。
エルベ修道院の墓地と、アストリッドの歌声で涙ぐんだばかりなのに今度は豆のスープと雑草の花で泣きそうになっている。
我ながら本当に情緒が忙しい。
「大したもてなしじゃなくて申し訳ないけど」
「……ううん。十分よ。十分すぎるくらい」
私は身を起こして長椅子に座り直した。
ステラは自分の分のスープ皿を持って、反対側に腰かける。
「いただきます」
前世の習慣が口をついて出た。ステラはちょっとだけ首を傾げたが何も聞かなかった。
スープは素朴な味だった。塩と乾燥豆の甘みと、かすかにハーブの香り。
豪華でもなんでもない、ただ温かいだけの食事。
でもそれが――この埃だらけの一日の終わりに、何よりも沁みた。
「ステラ」
「何」
「ありがとう」
「……別に」
ステラはスープを啜りながら、窓の外を向いていた。
その横顔は相変わらず読めない。
でも白い尻尾が先端だけ小さく揺れているのを、私はちゃんと見ていた。
食事の後。窓の外はすっかり暗くなっていた。
王都の夜はグレイヴィルよりもずっと明るい。通りの灯火が点々と連なり、遠くに見える王宮の尖塔には魔灯が青白く灯っている。
美しい夜景だと思う。
でもその裏にどれだけの思惑と野心が蠢いているのか考えると、素直に見惚れることもできなかった。
執務室のテーブルに先々代が遺した交友録を広げ、卓上の燭台に火を入れる。
明日以降の段取りを詰めなくてはならない。
「ステラ、明日のことなんだけど」
「ん」
「あなたに王宮まで行ってもらって、到着の届けを出してきてほしいの」
ステラは頷きかけて、少し首を傾げた。
「私が? あなた自身が行った方がいいんじゃないの」
「それも考えた。でもね、着いた初日に伯爵自らが馳せ参じましたっていうのはへりくだりすぎよ。かといって届けを出さずに何日も放置すれば不敬になる。だから到着の翌日に従者を遣わして正式に届けるのがちょうどいいの」
へりくだりすぎず、尊大すぎず。
あくまでも礼節は守りつつ、必要以上に媚びない姿勢。
この辺の匙加減は前世の社会人経験が地味に役に立つ。
上司のご機嫌取りと、取引先への挨拶回りと、やってることの本質はそう変わらない。
……失敗した時の代償が桁違いに重いのを除けば。
「分かった。届け先と手順を教えて」
「王宮の宮内府に赴いて、書状を添えて到着の旨を伝えればいいわ。――宮内府の場所は衛兵に聞けば分かるはず」
「了解」
ステラは頷いたが、何か言いたげな表情をしていた。
「……どうしたの?」
「王宮に入るなら、この国の王がどういう人間なのか知っておきたい」
さすがステラ。工作員の基本は対象の人物像を把握することから始まる。
そしてステラはヴァリャーグの出身だ。エーデルガルドの国内事情に詳しいはずがない。
「そうね。ちょうどいいから整理しておきましょうか」
私はスープの皿を脇に置き、メモ書きにペンを走らせた。
「ジークハイト四世。先代国王の嫡子で、去年即位したばかりの新しい王よ。年齢は二十代半ば。容姿端麗――これは文句なし。王族としての威厳は見た目だけなら百点満点」
「見た目だけ?」
「見た目だけ。中身は……率直に言うと――無能よ」
ステラの狼耳がぴくりと動いた。
「無能の中でも最もたちの悪い種類――自分では何もできないくせに自分の目の届く範囲の現場に出たがる。成果は自分の手柄にしたがるけど責任は取りたがらない。そのくせ自分が蚊帳の外に置かれることは我慢ならない。しかもね、ジークハイトは自分の器の小ささをうっすら自覚してるの。自覚しているからこそ、"自分は軽んじられている"と感じた時は執念深く根に持つ」
ステラは黙って聞いている。
こういう情報を吸収する時の彼女の集中力は凄まじい。
「で、今のアッシュフィールドとジークハイト四世陛下サマの関係だけど――控えめに言って最悪。私たちは先代国王の葬儀にも、ジークハイトの戴冠式にも出席できなかった。お父様の死と家中のゴタゴタで物理的に無理だったんだけど、向こうにとっては理由なんて関係ない。"俺の晴れ舞台をシカトした辺境の小娘"としか思ってないはず」
「……それに加えて、ヘルマンシュタインとの戦も」
「察しがいいわね。王家の頭を飛び越えて戦争して、教会の仲介で勝手に和睦した。ジークハイトの性格を考えれば、面白いわけがないわ」
ステラはしばらく沈黙してから、端的にまとめた。
「つまり、無能だけど無害ではない。一番厄介な種類の権力者。私のお父様のように為政者としては無能なだけで人間的には善良というのが無能の中でも幾分マシだというわけね」
……ステラが笑えないブラックジョークを吐くのは珍しい。
最近よくステラの“素”が垣間見えるような気がする。それだけ私のことを信頼してくれているのだと考えると嬉しくもあるが。
「普段は辺境の伯爵なんて眼中にもないはずだけど……一度プライドを傷つけられたと思い込んだら延々と粘着してくる。そして今の私は彼のその地雷を二つも三つも踏み抜いている」
「対策は?」
「正面から謝りに行っても逆効果よ。卑屈に出れば『今さら媚を売ってきた田舎者』と解釈する。かといって堂々としすぎれば『生意気な小娘』になる」
「面倒な男……」
ステラが珍しく個人的な感情を滲ませた。完全に同意する。
「だから明日のあなたの役目はあくまでも事務的に、淡々と到着の届けを出すことだけ。余計なことは一切言わなくていい。向こうから何か聞かれても『従者ですので伯爵本人にお尋ねください』で通して」
「了解」
「目立たず、記憶に残らず。あなたの得意分野でしょう?」
「ん」
――ただ、一つだけ気がかりがあった。
「ステラ。一つだけ注意してほしいことがあるの」
「何?」
「王都には色んな人間の目がある。なかでも王宮はあらゆる情報が行き交う場所、その中にヴァリャーグに詳しい者がいないとも限らない。あなたの白い狼耳は目を引く。白狼の特徴がそのままあなたの出自を連想させることはないと思うけど、それでも――」
「分かってる」
ステラは自らの耳を指先で撫でた。
「でも、その辺はリリアーネも白い狼耳持ちだから上手く私の正体を誤魔化せると思う」
「まあそうね。そうだといいんだけど……」
確かに私も白狼の特徴持ちだ。血は薄まったせいか白というより灰色だけど。
グランファーレン由来の姓を持つのに白狼の血が混じったアッシュフィールド一族。
与太話とは切って捨てるには惜しい旧帝国の血筋を想起される私の狼耳。
過去に王家の傍系がアッシュフィールドに嫁いだのか、旧帝国から直接流れた血が混ざったのか。
公的な記録に残っていないということは後者なのかもしれない。
ともあれ私の狼耳はステラの正体をカムフラージュするのに役に立ちそうではある。
※
ステラが寝室に引き上げて一人になった私は、私は執務室の机で王宮宛ての書状をしたためていた。
文面は簡潔に。礼節を欠かず、しかし卑屈にならないように。一文字一文字を丁寧に書く。
この書状が届いてどれくらいで叙爵式が始まるのか。下手をすると一ヶ月以上待たされる可能性すらある。
アッシュフィールド領が気にならないと言えば嘘になるが、そこはもうヴェルナーの仕事だ。
私にできるのは当主として彼の手腕を信じるしかない。
書き終えた書状を封蝋で閉じ、アッシュフィールド家の印章を押す。
ふう、と息をついて椅子の背にもたれると、窓の外の夜景が目に入った。
魔灯に照らされた王宮の尖塔が、闇の中に青白く浮かんでいる。
「……十七歳かあ」
前世は社会人として働いていたのに、この世界での私はまだまだ子ども扱いだ。
特に領主としては最年少で、王都という伏魔殿ではそのことがどんな風に影響するのか。
テーブルの上には空になったスープ皿と、小さな紫の花が残っていた。
雑草の花。道端にいくらでも咲いている名も知らない花。
でも今日という日に、ステラがわざわざ手を伸ばして摘んでくれた花。
「――やってやるわよ」
誰にも聞こえない声でそう呟いて、私は十七歳最初の夜に目を閉じた。




